今日の朝、まだ暗い頃、西の空に赤い大きな月が見えた。十四夜の月のちょっと早い有明だ。夕暮れにも月が見えた。師走の十五夜の月が雲のあい間に見えた。
やはり平和が一番良い。「和を以て貴しとなす」と聖徳太子も言ったように、平和は理想であり目的だ。人はこの目的の王国を作らなくてはならない。それゆえにこの国は「大和」とも言う。
人は一人一人顔貌が違うように考え方も様々で、いろいろぶつかり合うのは仕方がない。それでもうまく互いに譲り合いながら、自分の身の回りから平和を作ってゆく。世界平和もその小さな日常的な平和の積み重ねから生まれるものではないかと思う。
戦争に反対したから平和が生まれるのではない。平和は日々一人一人が作り、積み重ねてゆくものだ。鈴呂屋は平和に賛成します。
風流の道も平和を愛するものでなくてはならない。そういうわけで「海くれて」の巻の続き、行ってみよう。
十一句目。
周にかへると狐なくなり
霊芝掘る河原はるかに暮かかり 東藤
霊芝はサルノコシカケ科の茸でマンネンタケとも呼ばれる。今では栽培されているが、かつては非常に希少なもので、中国の皇帝がこぞって求めたともいわれる。ただ、霊芝は木の根っこに生えるもので掘るものではない。
中国の皇帝が求めるくらいのものだから、玉藻前もこれを見つけたら皇帝に献上しなくてはと思ったのだろう。
十二句目。
霊芝掘る河原はるかに暮かかり
花表はげたる松の入口 工山
「花表」は「とりゐ」と読む。鳥居のこと。元々は中国で宮殿や墓所などの前や大路が交わる所に立てられる標柱のことを花表と言っていたようだが、それを日本の神社の鳥居に当てたものと思われる。
「とりゐ」は村の門の上に鳥の木形を置いたところから来ているらしく、弥生時代の遺跡から発見されている。長江文明に由来するものと思われる。
「はげたる」というのは今ではあまり見られないが、木の皮を剝がずに作った黒木鳥居の皮が古くなって剝げたのではないかと思われる。
「松の入口」というのは、おそらく松林そのものが御神体で、いわゆる「もり」だったからだろう。今日のような拝殿・本殿を持たない古い神社の姿ではないかと思う。
こういう霊域なら霊芝も生えていそうだ。
鳥居は桜とは関係ないし、桜のように華やかなという比喩の意味もないので正花にはならない。花の句はこれとは別にこのあと詠まれることになる。
十三句目。
花表はげたる松の入口
笠敷て衣のやぶれ綴リ居る 桐葉
「敷く」は下に敷くという意味だけでなく、「砂利を敷く」のように地面に撒くという意味もある。「笠敷て」も笠を尻の下に敷いたのではなく、単に地面に置いたという意味。『奥の細道』の中尊寺の場面でも「笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」とある。
句の方も旅人だろう。杜(もり)の前で笠を置き、衣の破れを繕う。「やぶれを綴る」という言い回しは、『奥の細道』の冒頭に「もも引きの破れをつづり笠の緒付けかえて」という用例がある。
十四句目。
笠敷て衣のやぶれ綴リ居る
あきの烏の人喰にゆく 芭蕉
前句を河原者に取り成したか。昔の河原には死体が打ち捨てられ、カラスがそれを啄ばみに来る。いわゆる「野ざらし」だ。舟遊びをしていても野ざらしを心に旅していることを忘れてはいない。
十五句目。
あきの烏の人喰にゆく
一昨日の野分の浜は月澄て 工山
野分の後の浜辺には月が出ている。とはいえ、そこには土左衛門が流れ着いてたりもしたのだろう。
ところでこの土左衛門だが、江戸中期の成瀬川土左衛門という相撲取が語源になっているので、芭蕉の時代には水死体を表わす「土左衛門」という言葉はまだなかった。
十六句目。
一昨日の野分の浜は月澄て
霧の雫に龍を書続ぐ 東藤
絵師は帳面を持って、旅先での景色をスケッチしたり、思いついた絵を描きとめたりする。
ここでは一昨日の台風の荒れ狂う海のスケッチの上に龍を描き足したのであろう。
十七句目。
霧の雫に龍を書続ぐ
華曇る石の扉を押ひらき 桐葉
ここで花の定座になる。ただ、「花表」から四句しか隔ててないので「華」の字を用いている。
花曇の灰色の雲の切れ間から現れる龍は、さながら石の扉をこじ開けて出てきたかのようだ。
十八句目。
華曇る石の扉を押ひらき
美人のかたち拝むかげろふ 工山
これは、
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
をとめの姿しばしとどめむ
僧正遍昭
が本歌か。石の扉は天の岩戸の連想も働く。
現れた美人はこの世のものではないので、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいている。
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