今日は旧暦の十二月の二十七日。夜明け前の東の空の月も細くなった。春は近い。
まだ冬だということで今日のテーマは鰒、それに河豚、あるいは魨、さらには鯸と、どれも「ふぐ」やないけーっ。
まあ、
河豚ほど鰒によう似た物はなし 鬼貫(其袋)
という句もあるくらいだから、鰒の表記の多様さは昔からネタにされていた。
河豚は豊臣の秀吉が禁止し、伊藤博文が解禁したともいうが、この歴史はあまりに途中を省略しすぎている。
鰒つりや今も阿漕が浦の波 凉莵(一幅半)
という句もあるから、一応禁制の意識もあったようだが、江戸時代に河豚を詠んだ句はたくさんあり、芭蕉さんも、
あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁 桃青(俳諧江戸三吟)
の発句を詠んでいる。
とはいえ、鰒の句は延宝、天和の頃に流行するが、その後はあまり詠まれなくなっている。
当時は鰒というと鰒汁(ふぐとじる)だったようだ。
ふぐ汁や生前一樽のにごり酒 卜尺(俳諧当世男)
芭蕉が日本橋に居た頃お世話になっていた小沢さんの句だが、鰒喰って死ぬかもしれないから、一樽の酒を飲んで死のう、というわけだが、「一樽」がいかにも大袈裟だ。酒豪自慢か。
ふぐ汁や其外悪魚鰐の口 泰徳 (俳諧当世男)
下七五は謡曲『海人』の竜宮の玉塔の守護神八竜の登場の場面の「八龍並み居たり其外悪魚鰐の口」をそのまま用いている。鰒汁も人の命を奪う恐ろしい悪魚や鰐と並ぶというわけだ。
鰒汁是なん悪魚椀の口 休嘉(俳諧雑巾)
これはネタ被りだが鰐の口を「椀の口」に変えて洒落ている。
我や獏荘子が夢を鰒汁 直貞(俳諧雑巾)
荘子の夢というのは胡蝶の夢のことか。夢に蝶になるように、人は死んでも別の物になり、どっちが生でどっちが死かはわからない、というわけだが、鰒という生死未分の物を喰って、生きるか死ぬかをはっきりさせてしまう自分は、荘子の夢を喰う獏だということか。
どこかシュレーディンガーの猫を思わせる。
身はなき物となん読しは魨の浜 少羽(東日記)
これは西行法師の歌として伝えられている、
世を捨てて身は無きものとおもへども
雪の降る日は寒くこそあれ
から来ている。鰒はしばしば雪を一緒に詠まれるが、西行の「身はなきもの」と詠んだのは鰒の浜に立って、これから死ぬかもしれないからだ、というわけだ。
鰒網やおもへば三途の瀬ぶみなる 一栄
これもやはり鰒を喰って死ぬかもしれないという句だ。
ただ、みんなこう言いながらも鰒で死んだ俳諧師の話を聞かないものを見ると、鰒での死亡率はそれほど高くはなかったのだろう。
鰒は縄文時代から食べていたというし、鰒の毒に対する知識もそれなりに経験的に蓄積されていたにちがいない。
鰒の毒を避けるには、基本的には毒のある腸と皮を取り除かなくてはならない。もちろん鰒の種類によっては肉にも毒がある場合があるから、完全ではない。ただ、腸と皮を取り除き身欠きを作る時点で水でよく洗えば、鰒の危険はかなり減らすことができる。
河魨洗ふ水のにごりや下河原 其角(有磯海)
の句は、鰒を水で洗う知恵が当時あったことを示している。
もう少し後の時代だが、
人ごころ幾度河豚を洗ひけむ 太祇
の句がある。
鰒のことを鉄砲ともいうが、其角の句が起源か。
鉄炮のそれとひびくやふぐと汁 其角
鉄砲といっても今日の自動小銃とは違い、撃つまでに時間がかかる上、命中精度も悪かった昔の銃のことだから、当たったらよほど運が悪いくらいのものだったのかもしれない。
折を嫌ふべき歟鰒の皮に猫の舌 宗雅(俳諧雑巾)
この句は鰒の皮に毒があるため、猫を近づけてはいけないという意味ではなかったか。「折を嫌う」は懐紙の表、裏を違えなくてはならない、つまり初表に鰒の皮を出したら、初表に「猫の舌」は出せないが、裏にならいい、という意味。
鰒は干物にして保存したりもしたようだ。
ふぐ干や枯なん葱のうらみ貌 子英(虚栗)
鰒汁なら葱が付き物だが、鰒干しになってしまうと、葱は枯れるしかない。
鰒汁に葱が付き物なのは、
河豚ノ記ねぶかが宿に我独居て 其角(東日記)
の句からも窺われる。
あと、鰒もどきというのもあったようだ。
其汁の糟をすするや鰒もどき 忠珍(おくれ双六)
甚太瓶を捨るや仮の鰒もどき 清風(おくれ双六)
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「鯛や鯒(こち)などの皮をはぎ、河豚のように料理して、汁などに作って食べるもの。ふくとうもどき。」
とある。
妄語
鯒を煮てふぐに売世の辛き哉 一品(虚栗)
も鰒もどきの句か。
何ンぞ鱈世挙て皆河豚汁 順也(おくれ双六)
という句もあるように、鰒は人気があった。だから似せ鰒も出回っていたのだろう。
禁制なんてなんのその、結局みんな鰒を食っていた。
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