「守武独吟俳諧百韻」の成立した一五三〇年だが、どういう時代か少し見てみようか。
連歌界ではもちろん宗祇法師はもういない。肖柏も大永七年(一五二七年)に没している。宗長は天文元年(一五三二年)まで生きたので、八十二歳の高齢ながらまだ存命だった。
宗長の弟子で「宗祇独吟何人百韻」の古注を残した宗牧は生まれた年がわからないので何歳だったかわからないが、一五四七年まで生きている。
同じ「宗祇独吟何人百韻」の古注を残した周桂は一四七〇年生まれで六十歳。一五四四年まで生きる。荒木田守武が一四七三年生まれなので三つ年上になる。
守武と並んで俳諧の祖とされる山崎宗鑑は一四六五年生まれで守武より八つ上になる。一五五三年没。
戦国時代を代表する連歌師で、明智光秀の参加した「天正十年愛宕百韻」でも有名な紹巴は大永五年(一五二五年)生まれでまだ五歳。古今伝授の細川幽斎はまだ生まれていない。
政治の方では西村勘九郎正利(後の齋藤道三)が美濃守護土岐氏から美濃を奪った頃で、織田信長はまだ生まれていない。
この頃の将軍は十二代将軍足利義晴だった。まあ、戦国時代のことはあまり詳しくないので、これくらいに。
さて「守武独吟俳諧百韻」だが、少しずつ進んでいきます。
四句目。
春寒み今朝もすす鼻たるひして
かすみとともの袖のうす帋 守武
「袖のうす帋」は紙子の袖のこと。紙子はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「紙で作った衣服。上質の厚くすいた和紙に柿渋をぬり、何度も日にかわかし、夜露にさらしてもみやわらげ、衣服に仕立てたもの。もと律宗の僧侶が用いたという。古くは広く貴賤の間で用いられていたが、近世ごろは、安価であるところから貧乏人などが愛用した。柿渋をぬらないものを白紙子(しろかみこ)という。かみぎぬ。《季・冬》 〔文明本節用集(室町中)〕
※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)草加「紙子一衣は夜の防ぎ」
とある。
今でも新聞紙などは風を通さないということで防寒着として使わたりする。災害の時やバイク乗りなどが用いる。紙子も夜着としての綿の蒲団が普及する以前には珍重されたのではないかと思う。
近世になると紙が安価になったため、貧乏人の衣裳となったようだが、守武の時代はどうだったかはわからない。紙が貴重だった時代はそれなりに高価だっただろう。
春の薄霞とともに袖も薄紙と洒落てみている。
五句目。
かすみとともの袖のうす帋
手習をめさるる人のあは雪に 守武
手習(てならひ)は「手(書)」を習うことで、「めさるる」というのだから高貴な人なのだろう。
「『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)の注は蛍雪の功のこととするが、多分それでいいのだろう。紙子も夜着であるなら、紙子で寒さをしのぎながら雪の灯りで書の練習をするのはありそうなことだ。
実質的には夜分だが夜分の言葉は入っていない。このあと二句去りで「月」が出るのはちょっと気になる。
「あは雪」と「霞み」の縁について、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)は、
さほ姫の衣はる風なほさえて
霞の袖にあは雪ぞふる
嘉陽門院越前(続後撰)
の歌を引用している。
六句目。
手習をめさるる人のあは雪に
竹なびくなりいつかあがらん 守武
淡雪に竹靡く(竹が押し倒される)は比喩で、いまは下手だがいつか上達するとする。
七句目。
竹なびくなりいつかあがらん
ともすれば座敷の末の窓の前 守武
立派な書院造りの座敷であろう。入口のあたりには明かり取りの障子を張った窓がある。
この場合の前句の「竹なびく」は本物の竹とも取れるが、延々と挨拶が終らない主人と客とのやり取りの比喩とも取れる。いつになったら座敷に上がるやら。
八句目。
ともすれば座敷の末の窓の前
月につかふや手水ならまし 守武
便所のことを遠まわしに「手水」という。今でも「お手洗い」という言葉があるがそれと同じとみていいだろう。
特に女性などは「手水に」などとも言わずに、「月を見に行く」というのがその合図だったりする。「お花摘みに行ってきます」のようなもの。
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