2021年7月1日木曜日

 最近アルジャジーラで批判的人権理論という言葉を目にするが、ネットで調べてみたら案の定、パヨチンに都合のいいように利用されていた。
 まあ基本的に日本人だからね。アメリカの人種差別の問題よりも、日本でマイノリティーの味方だという顔をしてネトウヨを攻撃してた方がいいんだろうけどね。
 結局去年からBLMデモなんでやっているけど、日本にいると白人人権派の声とその尻馬に乗るパヨチンの声しか聞こえてこない。なかなか当事者の黒人が何を考えているかが伝わってこない。本を読もうにも黒人の著書ってほとんど翻訳されてないんじゃないかな。
 まあでも、多分だけど批判的人権理論は「理論」であるところに限界があると思う。法律学だとか社会学だとか、白人の作った土俵で戦おうとする限りアウェーなのは免れないからね。
 理論であるかぎり、その理論はすぐに白人にパクられて、白人の都合のいいように捻じ曲げられてしまうことだろうよ。そしてその捻じ曲げられたものをパヨチンがどや顔で「白人凄い」それに比べて、ということで日本人劣等民族論にすりかえてしまうんだ。
 実際ロビン・ディアンジェロさんが白人女性を泣かせたときはさぞかし痛快だったんだろうね。あんたはどう見ても黒人には見えないし、やってることは日本のパヨチンと一緒だ。結局アメリカでも白人共産主義者にいいように利用されてしまっているんじゃないかな。
 白人だってルーツは様々で、アングロサクソンだけでなく、アイリッシュ、イタリア系、ドイツ系、ラテン系、東欧系、ロシア系など、本来多様な文化があって、白人同士でも差別はあるはずだ。トランプさんのケチャップが揶揄されていたが、それはドイツ系であることのこだわりで、ハインツさんへのリスペクトではなかったかと思う。
 むしろ多様性を本当の意味で開放するには、白人が悪いのではなく白人が作り上げてきた法システムの問題として考えなくてはいけないんだと思う。
 排他テーゼと人種的特殊性テーゼは日本人も有色人種である限り主張していいと思う。最終的に各民族がそれを主張することで、この世界も多種多様な者の共存する社会にできるのではないかと思う。
 筆者も俳諧を通じて日本の文化が「文学」から排除されてきた歴史を告発しつつ、日本の文化の特殊性を主張していく所存だ。今でもラノベは文学から排除されている。

 それでは「三味線に」の巻が終わり、『葛の松原』の方の続きを少し。

〇俳諧に古人なしといふ事をばせを庵の叟つねになげき申されしか。

 「俳諧に古人なし」は『三冊子』「しろさうし」にも「師も此道に古人なしと云り」とあり、『不玉宛去来論書』にも同様の言葉がある。勿論この『葛の松原』の方が早い。ただ、この言葉は芭蕉の口癖のように他の門人にも言っていたのだろう。
 定家の「和歌に師匠なし」と似ているが、定家の場合は既に人麿赤人や六歌仙や紀貫之など、そうそうたる古人がいた。「師匠」なしというのは直接誰かに倣うのではなく、古人の作品に直接触れてそこから感じ取れということだ。
 芭蕉の場合はそうした手本とすべき過去の偉人がいないという意味で、「なげき申され」とあるように、全部自分で手探りで切り開いていかない困難を述べたものであろう。


〇世の風雅にあそぶ者も月花とさへいへばやさしとはおもふらめとなにがしの卿の我が中ハこもつちこしの一もしりもしりやすらむ逢ふかひもなしとつらね給へるハもしりやすらむといふ七文字にて歌にはなり侍しと覚えしか。老杜ハ児ヲ呼テ煮魚ヲ問ともいへり。古人の語意を用る事一字半言もたやすからず。いかにおもしろきとて辞いやしく姿もくだくだ敷いひ出たらむハ貴人公子に寵せらるる辨利のもののたぐへなるべし。

 風雅に遊ぶは俳諧の徒のことだろう。月花さえ詠めば優雅になると思っている節がある。

 我が中ハこもつちこしの一もしり
     もしりやすらむ逢ふかひもなし

 この歌は「我が中ハ」と「逢ふかひもなし」で恋の歌のようだが、その間の「こもつちこしの一もしりもしりやすらむ」が意味不明。「一もしり」は「人も知り」か。あるいは意味のない歌でも上句の「ひともしり」に掛けて「もしりやすらむ」と下句をつなげば、いかにも和歌のように見えるということか。何の意味もなくても優雅そうな言葉を連ねれば和歌になると思うようなもの、ということか。
 「老杜ハ児ヲ呼テ煮魚ヲ問」は、

   過客相尋  杜甫
 窮老眞無事 江山已定居
 地幽忘盥櫛 客至罷琴書
 掛壁移筐果 呼兒問煮魚
 時聞繋舟楫 及此問吾廬

の詩で、「児ヲ呼テ煮魚ヲ問」は日常卑近な題材だが立派な漢詩になるように、風雅は題材や言葉が奇麗かどうかの問題ではなく、心の問題だということだろう。
 日常卑近の面白い題材でも風雅の心がなければ、ただ弁利(言葉が巧み)というだけにすぎない。


〇晋子も鉄砲といふ名のいひ難しとて千々にこころはくだきけるや。おなじ集に品かはるといふ怠の論は微細のところかくぞ心をとどめけむ。殊勝の心ざしいとうらやまし。晋子が語路おほむね酒盃に渡れりといふ人あるに宋ノ泊宅編にハ白氏が二千八百言飲酒の詩九百首なりと答へ侍るといへど晋子が性人にまぎれぬは楽天か。飲酒はなをかぎり有けれとて用の事かたづけ侍りぬ。

 晋子の鉄砲は『雑談集』(元禄五年刊)にある。

 「鉄砲と云ふ名のをかしければ句作に成りがたくて能く前句にも付け分ずして案ずるに大巓和尚の百題詩に 人間辜負非猿境。辛苦管中多少涙。と作られたり。是れは伊豆の山にて猟師の猿をみつけて鉄砲を取上げたるに哀猿断腸の聲を出して叫びたるを即興の詩なるよし仰せられけり。辛苦管といへば則ち鉄砲ときこゆるにや。俳諧にてはかかる自由には手のとどくべからず思はれ侍る也。又かしは餅と云ふ名の面白からねば之を十七字にゆるめていかにとて初懐紙
 餅作るならの広葉をうち合せ
とこれほどには句作りぬれども鉄砲と云ひてよき句作には及ぶまじくや。されば句ほど作りよくて捌けにくきものはなし。定家卿のうす花櫻などいへるためしもありがたくこそ侍れ。」

 なお、鉄砲を詠んだ発句は元禄三年刊珍碩編の『ひさご』に、

   城下
 鐵砲の遠音に曇る卯月哉     野徑

の句がある。この巻の二十八句目には、

   から風の大岡寺繩手吹透し
 蟲のこはるに用叶へたき     乙州

の句があり、『梟日記』の徳山のところで、

 「かゝる事はその道々の宗匠の格式をたてゝ、無理を云やうにおもふらめど、その場その場の物のかなへる本情は、何の俳諧に無法あらん。富士參に雪隱を案じ、芳野ゝ奥に鰒汁の相談をして、是はめづらしき名所のよせ物などいへるは、世の雜談俚語といふべし。」

の「富士參に雪隱を案じ」ではないが、伊勢参りの雪隠を案じる句なので、暗にこの一巻を非難しているのかもしれない。
 なお、いつ頃の句かわからないが、其角には、

 鉄砲のそれとひびくやふぐと汁  其角(五元集拾遺)

の句がある。フグのことを鉄砲と呼ぶのはこの句に起源があるのかもしれない。
 「餅作る」の句は「日の春を」の巻五十九句目。

   親と碁をうつ昼のつれづれ
 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風

 「おなじ集に品かはるといふ怠の論」は同じ『雑談集』で、

 「去る比品かはる恋といふ句に
 百夜が中に雪の少将
といふ句を付けて忍の字の心をふかく取りたるよと自讃申しけるに猿蓑の歌仙に品かはりたる恋をしてといふ句に
 うき世のはては皆小町なり
と翁の句聞えければ此句の鈷やう作の外をはなれて日々の変にかけ時の間の人情にうつりてしかも翁の衰病につかはれし境界にかなへる所誠おろそかならず。少将といへる句は予が血気に合ぬれば句のふりもさかしく聞え侍るにや。此口癖いかに愈しぬべき。」

とある。
 「少将」は小町の所に百夜通いをした「深草の少将」のことで、百夜通えばその中には雪の日もあっただろうということか。芭蕉が年老いていった小町の末路に思いを馳せるのに対し、其角は小町の元に通う少将の方へ目が行ってしまった。まあ、其角らしいというところか。
 其角の句は酒の句が多いというが、宋の『泊宅編』巻一には、

 「韓退之多悲,詩三百六十,言哭泣者三十首。白樂天多樂,詩二千八百,言飲酒者九百首。」

とある。


〇風雅の片はしを心得たるものたまたま名家の一まきを見て始終の変作をかへりみず。此句ハおかしからずその句ハ味なしなどいふめれど一まきをつらぬる事あながちに一句の上を不論。一たびハ雨となし一たびハ雲となして中品の眼をとどめむ事をおそる。轉換変化角のごとし誰か情實の中にあそばむ。

 俳諧のことを生半可にかじった人は、名作と呼ばれる一巻を見ても、その一句一句の展開を見ずに、目に留まった句だけを拾い出してこの句は良いがこの句は駄目など言う傾向にある。まあ、連歌の時代の集も付け合いだけを切り離して載せたりしていたし、初期の俳諧もそういったものが多かった。
 例えていえばサッカーの名ゴール集だけ見て、そのゴールに至るまでの試合の流れを見ないということだ。確かにある程度戦術やフォーメーションの知識がないと、試合の流れは俄ファンにはわかりにくい。でもそれが分かった時、本当のサッカーの面白さがわかるというものだ。
 連歌も俳諧も本当の面白さというのは、発句から順番に読んでいって、この次にどういう句が来るのかわくわくしながら読むところにある。俳諧も筋書きのないドラマだ。筆者もその面白さが伝わるように努力したい。


〇この比一般の才人おそろしき詞をこのみ針灸秘訣の諺をめづらしといひ出たるにしらぬものはしらずしるものはいかにあさましとはおもふらめ。たとへば田舎人の卒塔婆を橋に渡せるがごとし。なき人の罪障懺悔なればその理はあしからねどふむ人うれしとやはおもふ唐の李之藩は夜深枕髑髏といふ句をさへ後には削り侍りしとかや。

 針灸秘訣の諺を詠んだ句があったのだろう。どういう句かわからない。一見何でもなさそうで裏の意味がわかると「あさまし」ということなのか。


〇いささかなる事にも心をとどめねばあやしきにや。人夜半にふして火をも消し隣もしづまりけれどなほ寝いらで居るときおのれが眼をひらきぬるや閉ぬるやといふをしらず。これらはむづかしき事ならねど心つきなき故なり。春草秋鳥の名字をも旅したる人にききつたへ訓蒙図彙にて見しりたらむ。いかばかりおぼつかなし小なきさいたつまといふ物をうれしく聞侍るとある人は仰せられしぞかし。

 『訓蒙図彙』はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「訓蒙図彙」の解説」に、

 「江戸前期の事典。二〇巻一四冊。中村惕斎(てきさい)編。寛文六年(一六六六)刊。明の王圻(おうき)編「三才図会」などにならった、わが国初の挿絵入り百科事典。また、その後に追随して出た専門分野別の同種の事典の総称としても用いられる。」

とある。
 旅するなかで見かけた草花や鳥も、こういったもので調べることを勧めている。確かに、物の名では夏に鶴を詠んだり、鶴が松の木に巣をかけたりというのはコウノトリとの混同によるものだし、俳諧は当時の世間の平均的な認識に基づくもので、本草を学ぶことが要求されていたわけではなかった。
 「小なきさいたつま」は、

 春日野にまだうら若きさいたづま
     妻籠るともいふ人やなき
              藤原実氏(玉葉集)

であろう。妻を導き出すために用いられているが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「さいたづま」の解説」に、

 「① 植物「いたどり(虎杖)」の異名。また、一般に、春もえでた若草をいうとも。《季・春》
  ※後拾遺(1086)春下・一四九「野べ見れば彌生の月のはつるまでまだうら若きさいたづま哉〈藤原義孝〉」
  ② 「さいたづまいろ(━色)」の略。」

とある。こういうことも「訓蒙図彙」で調べろということか。


〇いづれの年の夏ならむみな月はふくへうやみの暑かなといふ句を人の得しらざりけむは源氏のまきまきに心をとどめねばさも有るべし。山路に菫とつづけ申されしをある人おぼつかなしと難じけるは有房卿のはこねやま薄むらさきのつぼすみれといへる歌を不幸にして見ざりけむ人の心こそおぼつかなけれ。たまたまの旅にもあらぬまでに酒のみ馬上にはねぶり行らむ。いとあさまし。

 水無月は腹病やみの暑さかな   芭蕉

の句は元禄四年刊琴風編の『俳諧瓜作』所収。暑い時期は食中毒になりやすいので、水無月の腹病やみは「あるある」だが、支考はそこに『源氏物語』空蝉巻の源氏の君が空蝉の家を出て行く場面の俤を見出したのだろう。

 山路きて何やらゆかしすみれ草  芭蕉

の句は貞享二年春の句で、今日でも有名だが、『野ざらし紀行』はまだ刊行されてなかったので、どのような形でこの句が広まっていったかは気になる。
 とにかくこの句は結構有名になっていたから、それを聞いた誰かが「山路に菫は詠まない」と難じたのだろう。
 『去来抄』「同門評」にも同様に記述があり、そこでは湖春となっている。

 「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。いかでかくハ難じられけん、おぼつかなし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.30~31)

 湖春はウィキペディアに、

 「北村 湖春(きたむら こしゅん、慶安3年(1650年) - 元禄10年1月15日(1697年2月6日))は、江戸時代前期から中期にかけての歌人・俳人、北村季吟の子。名は季順。」

とある。季吟とともに俳諧の方では貞門に属し、寛文七年に『続山の井』を編纂し、ここではまだ伊賀にいた頃の宗房の発句を二十八句入集させている。その意味では芭蕉の恩人とも言えよう。
 多分延宝の頃の談林の大流行の波に流され、俳諧の方で目立った活動はしてなかったのだろう。
 貞門の俳諧は俗語を交えてはいても、本来は正しい雅語を学ぶためのもので、語の取り合わせに関しても證歌を引いて、この用法が正しいことを証明する必要があった。
 鬼貫の『ひとりごと』には、貞門の松江重頼と談林の祖の宗因の同座する席のことが記されている。

 「いにしへは名所などに、物をもて付る句は、古歌にても、古事にても、慥ならん證據なき句は、付させ侍らず。某はまた廿にも見たざる比、先師松江の翁と、梅花翁と列座の會に出て、
 ちよと見には近きも遠し吉野山
といふ前句に、
 腰にふくべをさげてぶらぶら
と付侍りければ、吉野山にふくべ、其故有事にやと、師のとがめにあひける程に、當惑して先御前句といへど、句前もとほく侍る間、付べきやうあらば、その儘付よとひたすら申されけるほどに卒爾の事をいひ出けんと、一座の人のおもへるところも面目なくて、
 見よし野の花の盛をさねとひて
     ひさごたづさへ道たどりゆく
といふ古歌にすがりて付侍りきと、當座の作意をもて此歌を拵て答ければ、めづらしく候、これは何にある歌にやと、尋ねられける程に、たしか万葉か、夫木にて見候といひければ、やがて執筆に書せられける。いかなれば師の心をかすめ、かく偽りをもてもたいなくも、懐紙をけがしたる咎、かへすがへすも道にそむきし事、今はたおそろしくぞ侍る。其外俳諧を只かろき事に、おもひなしたるうちの句など、ひとつひとつかぞへ出さば、無量のあやまりも侍らん。」

 談林の流行期から次第に俳諧が雅語を学習ための入門編の役割を失い、俗語の俳諧として独立していったあとでも、やはり貞門系の人たちからのこういう指摘は続いていたのだろう。
 蕉門では既にこうした證歌をとる習慣を終わらせたのだから、これは雅語の連歌ではなく俗語の俳諧なんだと主張しても良い所だったのだろう。ただ、去来の支考もそこまで過激に突っ張る強さはなかったのだろう。「はこねやま薄むらさきのつぼすみれ」の歌があるから、雅語としても間違ってないと反論する。
 これは、

 箱根山うすむらさきのつぼすみれ
    ふたしほみしほ誰かそめけむ
             大江匡房(堀河百首、夫木抄)

の歌であろう。有房卿は支考の記憶違いであろう。また、山路に菫を詠む證歌はこの他に多数あるということではない。
 なお、『夫木和歌抄』に収録された和歌はウィキペディアによると17,387首で、さすがにどんな歌学の大家でもこれを全部覚えている人はいないだろう。
 去来・支考という高弟でも貞門からのこうした批判に対し、相手の主張に譲歩したような反論をするあたり、権威に対する弱さの裏返しではないかと思う。結果的に自らの和歌の知識のなさを暴露してしまっている。
 支考が後に『続五論』や『俳諧十論』を書いたのも、こうした歌学の権威に対しての虚勢だったのかもしれない。
 支考は後に「俳魔」と呼ばれ、渡辺崋山に魔王のような肖像画を描かれてしまっているが、本当は茄子顔の気弱な人間だったのではないかと思う。

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