今日のオリンピックはサーフィンに専念する形になった。都築さんが銅、五十嵐さんが銀でよく頑張った。五十嵐さんとメディナさんの準決勝は大技の応酬で圧巻だった。あれで力尽きちゃったかな。メディナさんも三位決定戦で負けちゃったし。
朝から台風の接近で二メートルを越える波だったけど、これで伝説のビッグウェーブになるのかな。台風が去った後のさざ波じゃ、こうは盛り上がらなかっただろう。
夜はソフトボールの決勝戦で、まあ新しく加わる種目もあれば消えて行く種目もあるということで、十三年前を引きずって、十三年前を再現して、今まさに完結したという感じだ。勝って嬉しいというよりも最終回の淋しさだね。
コロナの第五波もビッグウェーブになってしまったが、万策尽きた感じだ。強制力のないコロナ対策はもうこの辺が限界だ。基本的には一人一人が自衛する。それだけだ。
まあ一応言っておくけどワクチン接種回数は今日の発表で79,383,659回、重症患者数は四百人台で微増。死者はまだ減少中で一日一桁。
それでは昨日の続き。
まあそういうわけで、スポーツの徳の第一はルールの下での平等な実力評価で、現実の不平等に対するアンチテーゼになるということでいいと思う。
第二の徳は勝利のための戦いの創造性に係わることだ。
言うまでもなくどのスポーツも勝利のために最善を尽くさなくてはならない。
もちろんこれは常に全力でやれということではなく、優勝のための戦略的なわざと負けも含まれている。また、最善というところには不正をするなということも含まれているが、これもルールすれすれのマリーシアを排除するものではない。
マラドーナの有名な「神の手」は審判に観測されなければ反則は存在しないということに気付かせてくれた。量子力学的発想だ。ただ、今はVARがあるので無理だ。観測技術の方も進歩している。
戦略の創造性は芸術と同様、今は役に立たなくて、何かの時に役に立つかもしれない思考のモデルを提供する。それゆえにスポーツは同時に芸術であり、芸術的なアスリートはファンタジスタと呼ばれる。
もう一つ、無理やりスポーツの三徳にするとすれば、それは個人的な鍛錬になるということだろう。世間ではこれを第一に考えている向きもあるが、あくまでこれは付随的なものだ。
さて、こう考えれば、オリンピック反対派、ひいてはスポーツを貶める人たちの主張も見えてくる。こうした連中は今に限らず古代ギリシャにもいた。プラトンなどその筆頭に挙げられる。
特に一番大きいのは、「スポーツは現実逃避の軟弱なものだ」というものだろう。つまり、「スポーツなんかに熱狂している暇はないよ、現実を見てごらん」というものだ。このパターンは本当に古典と言える。こうした連中が連れて行こうとしているのは間違いなく戦場だ。つまりスポーツで戦うエネルギーがあるなら、戦争に行けというものだ。この戦争には革命のための闘争も含まれる。
第二の徳についてはあまり突っ込みにくいが、第三の徳に関しては一と逆の批判が常にある。つまり鍛錬は軍国主義に通じるという批判だ。一方で軟弱だと言って一方で軍国主義だと、同じ人が全く矛盾した主張していたとしても何の不思議もない。つまりそのエネルギーを自分たちの都合のいい方に引き寄せたいだけだ。
どちらにしてもスポーツを政治利用する立場によるもので、それこそがスポーツの一番の敵だと言えよう。政治的でないところにスポーツの三徳がある。
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