2021年7月16日金曜日

 昨日少し買い物に出たが、団地の芝生の上に大きな茸が生えていた。こういう時サバイバルスキルが発動して、名前や食べられるかどうかや、毒があるかどうかを教えてくれたら便利だろうななんて、すっかりラノベ脳になっているが、スマホとかで花の名前を教えてくれるアプリがあるから、その延長でそのうち誰か作らないかな。
 左翼はよく何かに反対するときに「長期的影響が分からない」と言う。これは悪魔の証明になる。基本的に長期的影響は長期間経たないとわからないから現時点では証明できないが、「ない」という証明もできない。長期的な影響を推測するのに十分な根拠があるならわかるが、根拠なく消極的証明の困難を理由とした反対は悪魔の証明になる。
 明確な根拠もなくワクチンで長期的に何らかの悪い影響が出るというのは、不安な心理に付け込んだデマになるので気をつけよう。
 逆に、感染したらその時は無症状でも長期的に何らかの悪い影響が出るかもしれないというのは、ウイルスの潜伏期間が根拠になるので、これはデマではない。

 さて、残るは「ゆづり物」所収のほうの「夕㒵や」の巻の続き。
 以下は元禄八年の自筆本、杜旭編『ゆずり物』によるという。ネット上の服部直子さんの「月空居士露川年譜稿」によれば、杜旭は露川門だという。
 そうなると露川はこのもう一つのバージョンを知っていて別バージョンを巻いたのだろうか。あるいは『ゆずり物』が公刊されてなくて自筆本として本人が持っていただけなら、後になってからその存在が知られた可能性もある。
 二十三句目。

   尻もむすばぬ恋ぞほぐるる
 うとうとと夜すがら君を負行ク  芭蕉

 前句の「言」が「恋」になり、恋に転じたことになる。
 「負行ク」は「おひてゆく」。『伊勢物語』第六段芥川の鬼一口であろう。
 『伊勢物語』の場面が思い浮かばなければ「夜すがら君を負行ク」がどういう状況が掴みにくいので、俤よりは本説に近い。
 二十四句目。

   うとうとと夜すがら君を負行ク
 豆腐仕かける窓間の月      惟然

 前句を豆腐屋とするが、やや状況が掴みにくい。
 二十五句目。

   豆腐仕かける窓間の月
 うつくしきお堀廻りの薄紅葉   去来

 紅葉豆腐というのがあるのでその縁であろう。お堀端に豆腐屋があるのか。
 二十六句目。

   うつくしきお堀廻りの薄紅葉
 紙羽ひろぐる芝原の露      之道

 紙羽(かっぱ)は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、

 「合羽籠(大名行列に、最後にかついで行く前後二個のかご)の略。」

とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「合羽籠」の解説」に、

 「〘名〙 大名行列のときなどに、供の人の雨具を入れて下部(しもべ)にになわせた籠。ふたのある二つの籠で、前後を棒でかついだ。また、寺などでは、年末年始に納豆などの贈答品を入れて持ち歩いた。合羽ざる。合羽箱。
  ※俳諧・通し馬(1680)「はやけさの別れは鳥毛挿箱〈西鶴〉 ふりくる泪合羽籠(カッパかご)よぶ〈梅朝〉」

とある。
 堀の近くの芝原で合羽駕籠の中身を広げる。
 二十七句目。

   紙羽ひろぐる芝原の露
 跪ふて湯づけかき込む釜の前   野明

 「跪ふて」は「つくばふて」。「湯づけ」はウィキペディアに、

 「湯漬け(ゆづけ)とは、コメの飯に熱い湯をかけて食べる食事法、またはその食べ物自体を指す日本の呼称。湯漬け飯(ゆづけめし)の略。湯漬とも表記する。」

とあり、

 「中世・近世において湯漬け・水飯は、公家・武家を問わずに公式の場で食されることが多かった。そのため、湯漬け・水飯を食べるための礼儀作法が存在した。平安時代に橘広相が撰したとされる『侍中群要』には、湯漬けの出し方について論じた箇所がある。」

とある。
 この場合は合羽駕籠を担いでた者が「つくばふて」はおそらく蹲踞の姿勢、俗にうんこ座りと呼ぶ姿勢で、あわただしく掻き込んでたということであろう。
 二十八句目。

   跪ふて湯づけかき込む釜の前
 師走の役に立る両がへ      去来

 湯漬けを掻き込んだところで、ついでに師走の決済のための両替を行う。
 二十九句目。

   師走の役に立る両がへ
 だぶだぶと水汲入ていさぎ能キ  惟然

 両替をして水を勢いよく汲む。支払いの潔くということか。
 三十句目。

   だぶだぶと水汲入ていさぎ能キ
 松のみどりのすいすいとして   野明

 松の脇に水が湧き出ていたか。「すいすい」は翠々で青々しているという意味か。
 二裏、三十一句目。

   松のみどりのすいすいとして
 節経のなぐさみに成二人庵    去来

 「節経」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、

 「諷経・看経に対してふしをつけてよむ経のこと。一つの庵に二人住むは比丘尼であろう。」

とある。
 三十二句目。

   節経のなぐさみに成二人庵
 心きいたる唇の赤さか      惟然

 「赤さか」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、

 「赤坂奴(やっこ)の略。江戸時代、槍・挟箱などをもって供をした若党中間で、異体な風俗をしていた。」

とある。ウィキペディアには、

 「赤坂奴(あかさかやっこ)は、江戸時代、江戸の大名、旗本につかえ、槍持ち、挟箱持ちなどをつとめた若党(わかとう)、中間(ちゅうげん)。「赤坂」の語源については諸説ある。
 寛政年間の赤坂奴について、「百物語」に「あづまの男を見はべりしが、音に聞くに十倍せり。六尺余の男、大鬚を捻ぢ上げ、先づ肌には牛首布の帷子を著、上に太布の渋染に七八百が糊をかひ、馬皮の太帯しつかと締め、熊の皮の長羽織、まつすぐなる大小、十文字に差しこなしたる気色、身の毛もよだつばかりなり」とある。このころ赤坂八幡の祭礼にはこの旗本奴がでて、祭礼を手助けし、江戸の呼び物、名物となった。」

とある。
 三十三句目。

   心きいたる唇の赤さか
 くたびれしきのふの軍物語    野明

 前句の赤坂奴に軍物語を延々と聞かされてくたびれたということか。
 三十四句目。

   くたびれしきのふの軍物語
 髪おしたばね羽織広袖      去来

 「広袖」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「広袖」の解説」に、

 「① 胴丸、腹巻など、鎧(よろい)の袖の一種。冠(かぶり)の板から菱板(ひしいた)まで、順次裾(すそ)開きに仕立てたもの。
  ※応仁記(15C後)二「黒革縅の腹巻にひろ袖つけ」
  ② 和裁で、袖口の下方を縫い合わせない袖。また、その衣服。どてら・丹前など。ひらそで。
  ※俳諧・鷹筑波(1638)五「むさし野はたた広袖(ヒロそで)の尾花哉〈重供〉」

とある。『炭俵』の「早苗舟」の巻四十五句目に、

   天満の状をまた忘れけり
 広袖をうへにひつぱる舩の者   孤屋

の句がある。
 前句の軍物語をした人の姿か。
 三十五句目。

   髪おしたばね羽織広袖
 難波なる花の新町まれに来て   惟然

 前句を遊郭に通う人の姿とする。ウィキペディアに、

 「大坂夏の陣の翌年、1616年(元和2年)に伏見町の浪人とされる木村又次郎が江戸幕府に遊廓の設置を願い出た。候補地となった西成郡下難波村の集落を道頓堀川以南へ移転させ、1627年(寛永4年)に新しく町割をして市中に散在していた遊女屋を集約し、遊廓が設置された。」

とある。
 挙句。

   難波なる花の新町まれに来て
 文に書るる柳山ぶき       野明

 遊郭で文を書く。柳や山吹のことを書き記して一巻は目出度く終わる。

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