まず今日のオリンピックはというと、まずはビーチバレーを見ようとしたらネットがつながらず、男子ホッケーを見たら、これがオーストラリアに逆転勝ちと思ったらそのあと逆転された。
ついでボートの方を見たら冨田・大石ペアは残念。明日敗者復活戦がある。
午後は自転車のロードレースを見た。小倉橋や道志川など、知っている道が出てきて、勝負の方はよくわからないが、何となく旅気分。やっぱり知っている道が出ると嬉しい。
ロードレースはつけっぱなしにしておいて、水球は途中まで見たが一方的に負けてた。ソフトボールはカナダが足を使った攻めを見せて圧勝で、アメリカもやはり強い。日本もイタリアにホームラン攻勢で圧勝。
そもそも論としてスポーツって何なのだということだが、かなり前に一つの仮説を思いついて、つまり頭脳の発達した人間は集団で一人をぼこぼこにしたり、武器を用いたり騙し討ちをしたりするようになったことで、個としての強さというのが無意味になったしまったが、かつて動物だった頃の順位制の中で進化してきた「一番になりたい」という本能が消えてないからではないか、というものだった。
スポーツは順位の付けられない現実の中にあって、順位をつけたいという欲求を満たすもので、勝ち負けをはっきりさせ、順位を付けることに意味があるのではないか、というのが筆者の一つの持論でもある。
スポーツでいくら一番になったからといって、戦場に行って役に立つかというとそんなことはない。このことは古代ギリシャの人が既に知っていたことだ。戦争は個としての強さはそれほど意味を持たない。剣豪宮本武蔵は一対一の決闘では強かったが、島原の乱で出陣した時はたいした活躍もないまま投石に当たって負傷したという。
現実世界での勝利に欠かせないのは政治力で、いかに勇猛な武将といえども政治的に追い詰められてしまえば最後は惨めな敗北となる。それを惜しむ所から、世には「判官びいき」というのがある。本当に強かった者が一番になれない。それは世の中の常だ。
スポーツは基本的に人間社会のそういう不条理を補うものなのではないかと思う。
近代スポーツが誕生する以前から、どこの国でもどこの民族でも力比べというのはあったと思う。ただ、それは現実の社会での順位とは無関係で、たいていは祭の余興で終わる。
日本で古くからあるのは相撲で、相撲という言葉は競うこと一般に意味が拡大され、腕相撲、指相撲、泣き相撲というふうに用いられる。蹴鞠も宮中で商品を賭けて行われていた。その他にもポロにちかい毬杖(ぎっちょう)が庶民の間に広がり、その様子は中世の絵巻物などに描かれている。木製の槌で木製の毬を打つゲームだが、詳しいルールはわからない。首引きというのも絵巻に描かれたりしている。
単純な力比べなら、今日でも神社に行くと昔用いられていた力石というのがある。やはり祭の時などの力比べに用いられていた。
勝ち負けを競うという点では歌合せも一種の知的スポーツで、連歌も商品を賭けて優劣を競った。歌だけでなく闘茶や薫物合せなど、様々なもので勝負が行われていた。
今日のeスポーツがスポーツなのも、スポーツの本質が体力を養うものではなく、あくまで勝ち負けを決める、順位を付けるということを本質としているからではないかと思う。
ならそれが何の役に立つのか。それは明日のココロだ。
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