どうやら東京を中心とした感染拡大は簡単には止まらない。ただ、基本的にやるべきことは今までと一緒だ。外出、移動、人との接触を極力控えることだ。あとはマス護美やツイッターの怪しげな情報に惑わされずに、正確な情報を得ることだ。
筆者にできることといえば、残念ながら今まで通り家に引き籠っている以外に何もできることはない。あと、情報源は一応感染者の基本的な情報は東洋経済ONLINE「新型コロナウイルス国内感染の状況」、ワクチン接種に関しては首相官邸の「新型コロナワクチンについて」を参考にしている。
基本的には各自考えて判断するしかない。この国ではどのような感染症対策も法的拘束力がない。憲法で保障された基本的人権に非常時の例外が認められてないからだ。デマを広め自粛破りをする人間に制裁を下すことができない。騙され踊らされるのもみんな自由の刑に処せられている。
ワクチンを減らされた自治体も、実際にはワクチンを打っていて、ただ入力が遅れてただけだというなら素直に謝ればいいのに、何でも政府を攻撃すればいいと思っている。ワクチンは天から降ってきたわけではない。
もし入力の遅れが事実なら、日本は政府発表以上にワクチン接種が進んでいるということだから、それは喜ぶべきことだ。十四日公表で63,651,899回。二回接種完了19.1%。実際はこれより多いということだ。
去年の給付金の時もそうだったが、緊急時の備えがなくて自治体がなかなか思うように対応できずにもたつくのはわかる。だがワクチン接種は元来コロナの拡大との時間の勝負で緊急を要する案件なので、急ぎすぎを非難するのはお門違いだ。
のんびり時間をかけてようやく国民の5パーセントくらい打ち終わったような状態で今の第五波を迎えたら、もっと悲惨なことになっていた。高齢者の接種率の低いままだったら、また多くの死者を出す所だった。急いだからこそ今は65歳以上の高齢者の半分が二回接種を終えて、八割近くが一回は接種している。これなら重症患者数もそれほど増えないし、医療崩壊も防げる。
あと、「白髪ぬく」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「夕㒵や」の巻の続き、挙句まで。
角川書店の『校本芭蕉全集』は真偽の疑いのある部分がある巻でも、最初の部分が本物ならそのまま掲載されている。だから、途中からあれっと思う巻がこれまでも何度もあった。今回もまたそれだった。とにかく直感的にわかるのは「面白くない」ということだが、理論的に詰めるには江戸後期の俳諧の作風まで研究する必要がある。
そういうわけで、これまでは『校本芭蕉全集 第五巻』の「ゆづり物」所収のほうの「夕㒵や」の巻を読んできたが、予定を変更して『校本芭蕉全集 第五巻』の元禄十一年刊松星・夾始編の『記念題』を底本とするバージョンの方を先に読むことにする。
まず二十二句目の「恋」が「言」になっていて、次の二十三句目が、
尻もむすばぬ言ぞほぐるる
膳取を最後に眠る宵の月 露川
になっている。
露川はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典「沢露川」の解説」に、
「没年:寛保3.8.23(1743.10.10)
生年:寛文1(1661)
江戸中期の俳人。一時,渡辺氏。通称,藤原市郎右衛門。別号,月空居士,月空庵,霧山軒など。伊賀友生(三重県上野市)に生まれ,のち名古屋札の辻で数珠商を営む。俳諧は,北村季吟,蘭秀軒(吉田)横船に学んだとも,斎藤如泉門ともいう。のち,松尾芭蕉に入門し,『流川集』を刊行。家業を養子月頂に譲渡した宝永3(1706)年以降,活発な活動を展開する。諸国に31杖するとともに,門弟の拡充をめざして各務支考と論争におよんだこともあった。<参考文献>石田元季「蕉門七部初三集の主要作家」「尾州享保期の俳風」(『俳文学考説』)
(楠元六男)」
とある。大垣の如行も参加しているところから、舞台が嵯峨から中京地区へと移っている。
芭蕉は落柿舎を出た後膳所の木曽塚無名庵に滞在し、そのあと一度伊賀に戻り奈良を経由して大阪で最期を迎える。どのようないきさつで露川の所にこの途中までの巻が渡ったかはよくわからない。伊賀滞在中に熱田の鷗白が訪ねてきているが、可能性があるとすればその時か。
その露川の句だが、前句が「言」なので、恋に展開する必要はなく、後先考えずに言い争いになって、客が帰っていってしまったのだろう。残された主人が一人膳に付くが、まだ宵だというのにお月見の気分も乗らずにふて寝する。ありそうな展開で、蕉門らしさが感じられる。
二十四句目。
膳取を最後に眠る宵の月
きりぎりす飛さや糖の中 如行
「さや糖」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に「さや糠」とある。籾殻のことで、籾摺の作業に疲れて早く寝たとする。キリギリスはコオロギのことで、籾殻の中にいてもおかしくない。
二十五句目。
きりぎりす飛さや糖の中
秋もはや伊呂裡こひしく成にけり 松星
秋も深まれば囲炉裏の火が恋しくなる。
二十六句目。
秋もはや伊呂裡こひしく成にけり
合点のゆかぬ雲の出て来る 夾始
秋とは思えないような冬を思わせる雪雲が出てきたということか。
二十七句目。
合点のゆかぬ雲の出て来る
脇道をかるう請取うき蔵主 如行
蔵主(ざうす)はコトバンクの「デジタル大辞泉「蔵主」の解説」に、
「禅寺の経蔵を管理する僧職。また、その人。」
とある。
脇道は比喩で本業とはちがう報酬くらいの意味だろう。そりゃあ合点が行かない。
二十八句目。
脇道をかるう請取うき蔵主
木に抱き付て覗く谷底 露川
脇道を文字通りの脇道として、行ったら谷底のとんでもない所に出てしまった。
こういう展開も蕉門らしさが感じられ、こちらのバージョンは本物と思われる。
二十九句目。
木に抱き付て覗く谷底
仰山になり音立て屋根普請 夾始
谷間に立つ家の屋根普請とする。谷間を覗きながらの作業で昔は安全帯もなかったから命がけの作業だ。
三十句目。
仰山になり音立て屋根普請
日やけ畠も上田の出来 松星
畑は日照りで痛んでも田んぼの方は上々の出来になりそうなので、屋根の修理をする余裕もある。
二裏、三十一句目。
日やけ畠も上田の出来
夏の夜も明がた冴る笹の露 露川
昼の日差しはじりじりと畠を焼くが、明け方には涼しくなり、稲の発育には良い。
三十二句目。
夏の夜も明がた冴る笹の露
笟かぶりて替どりに行 如行
笟は「いかき」と読む。コトバンクの「世界大百科事典内のいかきの言及」に、
「10世紀の《和名抄》は笊籬(そうり)の字をあてて〈むぎすくい〉と読み,麦索(むぎなわ)を煮る籠としているが,15世紀の《下学集》は笊籬を〈いかき〉と読み,味噌漉(みそこし)としている。いまでも京阪では〈いかき〉,東京では〈ざる〉と呼ぶが,語源については〈いかき〉は〈湯かけ〉から,〈ざる〉は〈そうり〉から転じたなどとされる。…」
とある。
「替(かい)どり」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に「水をせきとめて干上らせ魚をとること」とある。
夏の明け方に、笊を被って魚を獲りに行く。
三十三句目。
笟かぶりて替どりに行
隠家は美濃の中でも高須なり 松星
高須は今の岐阜県海津市高須の辺りであろう。長良川と揖斐川に挟まれている低地水田地帯だ。高須藩があったが元禄四年に廃藩になり、元禄十三年に松平義行が再び高須藩を起こす。
この巻の作られたのが元禄七年から十一年の間だから、藩のなかった時代になる。あるいは藩の再興を願ってあえてこの地名を織り込んだか。
前句の「笊かぶり」を笠に見立てて、笠と対になる蓑を美濃に掛けて展開する。
三十四句目。
隠家は美濃の中でも高須なり
此月ずゑに終る楞厳 夾始
「楞厳(りょうごん)」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に楞厳会(りゅうごんゑ)のこととあり、楞厳会はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「楞厳会」の解説」に、
「禅宗寺院において安居 (あんご) の期間中の無事を祈るため,毎日仏殿に集って楞厳呪を称える法会。安居の開始に先立ち4月 13日に始り,安居終了の前7月 13日に終る。古くは夜の参禅終了後行われたが,現在は早朝,朝食後あるいは午後など寺院によって異なる。」
とある。楞厳呪は楞厳経の巻七から派生した物らしい。
楞厳経はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「楞厳経」の解説」に、
「大乗仏典の一つ。10巻。詳しくは,《大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経》といい,唐の則天武后の時代(690‐704)に,インド僧般刺蜜帝が南海の制司寺で口訳し,ちょうど流謫中の房融が筆録したとされる。早くより偽経の疑いがあるように,新しく興りつつあった禅や菩薩戒,密教の教義を,仏説の権威を借りて総合的に主張しようとしたものらしい。楞厳とは,クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《首楞厳三昧経》と同じく,堅固な三昧の意である。」
とある。
楞厳会の期間は時代によっても場所によっても必ずしも一定していたわけではなかったのだろう。それは峰入りの時期の混乱でもわかる。元禄のこの頃の美濃では楞厳会は月末に終っていたのだろう。
三十五句目。
此月ずゑに終る楞厳
むかしから花に日が照雨がふり 如行
いわゆる「狐の嫁入り」というやつだ。黒沢監督の『夢』にも登場した。
楞厳会は弥生に行われていて、桜の季節で天候が安定せず、天気雨が降ることもよくあったのだろう。
挙句。
むかしから花に日が照雨がふり
たらはぬ聲もまじる鶯 主筆
「たらはぬ」というのは最後まで鳴かないということだから、「ホー」だけで終わって最後の「ケキョ」がないということなのだろう。
春の鶯の声もおかしく、一巻は目出度く終わる。
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