今日のオリンピックのネット観戦は、一番朝早く始まるサーフィンに始まった。やっぱサーファーってかっこいいね。
並行してまたボートも見た。都鳥(ユリカモメ)がしばらく画面に映っていた。ここは日本の都だもんね。テレビではスケボをやっていて、テレビとPCとタブレットで同時に三つの競技を見ることができる。
午後は自転車とソフトボールを見た。後藤は完璧だ。ソフトボールのドクターkだ。
サッカーの方も何とか逃げ切った。
まあ、何のかんの言って、オリンピックが始まると気分が盛り上がって来るもんだ。
昨日の続きで、スポーツの徳は何かということだが、一つは既に答えているが、人間の世界の生存競争は現実には醜く、大勢で弱い者をいじめたり、武器を用いたり、いろんな陰謀術策が渦巻き、一人の人間の能力が正しく評価されることない。こうした間違った序列に対し、正々堂々と勝負して得た順位を併置することで相対化することだ。
この世にスポーツがなかったなら、現実世界の序列は絶対的なものになり、救いようのない世界になる。
社会には階層があり、狭い学校の中ですらカーストがある。これは何ら実力によって定められたものではない。スポーツの徳の一つは人間の能力を正当に評価するということだ。
今は体力だけに偏っているが、知力もまた正当に評価するには昔から囲碁将棋などがあったし、eスポーツもまた体力だけではない能力評価を可能にする。
君主制では実力は隠されなくてはならない。なぜなら君主がすべてにおいて一番でなくてはならないからだ。
社会主義者がなぜスポーツに順位をつけたがらないかも、そこから推して知るべしであろう。勝敗もなく順位もないなら、それはスポーツではなくただの鍛錬だ。独裁者は鍛錬には意味を見出すが、スポーツはただの国威発揚の手段にすぎず、だからドーピングなどの不正な勝利を暗黙の裡に奨励する。
ドーピングの次は男子アスリートを強制的に性転換させたりしないかが心配だ。女子に男性ホルモンを注入するよりも簡単かもしれない。まあ今のところ中国とロシアは同性愛を認めていないからやらないだろうけど。
要するに、順位を付けるのは本来悪いことがだ、革命の役に立つなら認めてやるという、サブカルの論理だ。サブカルも本来文化から排除すべき低俗な芸術を、革命の役に立つならカルチュアーより一段劣るサブカルチャーの位を与えてやろう、というものだ。
勝負をつけ順位をつける最大の意味は、現実世界の階層や序列を相対化することだ。現実の階層や序列が動かしがたいものだとしても、ゲームというシミュレーションの世界では全く別の順位が存在する。そしてそれは一つではなく、競技の数だけ一番がいて、競技の数だけ順位がある。現実の順位だけがすべてではないというところに現実の順位を越える可能性を見出せるからだ。
それは謡曲『蝉丸』の逆髪のように、現実とはさかさまの世界を生み出す。
「いかにあれなる童どもは何を笑ふぞ。なにわが髪の逆さまなるがをかしいとや。げにげに逆さまなる事はをかしいよな。さてはわが髪よりも、汝等が身にてわれを笑ふこそさかさまなれ。
面白し面白し。これらは皆人間目前の境界なり。それ花の種は地に埋もつて千林の梢にのぼり、月の影は天にかかつて万水の底にむ。これらをば皆いづれが順と見逆なりといはん。
われは皇子なれども、庶人に下り、髪は身上より生ひのぼつて星霜を戴く。これ皆順逆の二つなり面白やな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置41374-No.41390). Yamatouta e books. Kindle 版. )
勝負を競い、順位をつけることを禁じれば、現実世界の序列が絶対的なものになる。それこそ独裁者の夢だ。
そしてこの逆転した順位の世界は現実とは違って公平なものでなくてはならない。近代スポーツは社会における「法の下の平等」の精神と並行したもので、「ルールの下の平等」という理想の下の形成されていった。オリンピックが何なのかもそこから理解しなくてはならないが、その辺はまた明日。
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