今日は旧暦の六月四日。梅雨は明けそうでなかなか明けず、今朝もどんより曇り、雨が降った後がある。白雨がもう三日続いている。
戦後の左翼を考えるうえで避けて通れないのは日本国憲法、特に第九条の問題だ。
昨日書いた、日本は早かれ少なかれ消滅するから、今の内に日本人を捨てて白人に成り切ることを選んだ左翼にしてみれば、この憲法はまさに日本が他国から侵略された時にいかなる暴力による抵抗もしてはならず、速やかに併合され、一つの世界の成立に貢献すべきだということを意味する。
この背後に戦争の恐怖があるのは別に隠すようなことではない。あの大戦で日本は230万人の軍人と80万人の民間人が死んだとされている。主要都市はことごとく焼け野原になり、広島と長崎や沖縄戦の惨劇は忘れることはできない。戦争はそれ自体が悪であり二度とやってはいけない。
この時、日本の敗北は日本そのものの敗北と同一視された。吉田松陰の侵略思想や日本の明治以来の侵略主義が否定されるならわかる。左翼は日本の敗北を日本の文化・伝統・習慣を含めたあらゆるの物に関して日本そのものが敗北し、これから世界を統一するであろう文化に書き換えることを選んだ。
日本国憲法がどのようなプロセスで制定され公布されたかは、左翼の中では長いこと口にすることもタブーとされてきたから、筆者も左翼の家庭で育ち、この件に関しては大学に入るまで何も知らないままだった。
筆者が日本国憲法が進駐軍によって起草されたことを知ったのは大学に入ってからだったし、まして八月革命説についてはほんのつい最近知ったことだった。
日本国憲法は表向き国会を開き、明治憲法に規定された改正手続きを踏まえて誕生した。しかし、これが認められるなら、日本国憲法も日本国憲法で規定された手続を経れば当然改憲できるはずだ。しかし、左翼にとっては憲法の他の条項はともかく、憲法九条だけは死守しなけらばならなかった。それも文字通りの意味で、他国の侵略があった時にそれにいかなる抵抗もせず受け入れ、一つの世界に貢献するための条項だったからだ。(それが中国であってもイスラム国であっても抵抗するなということだ)。
そのため憲法を守れと言いながら、憲法に規定された改正の手続きについては一切無視しようとしてきた。
歴史観という点では作家の司馬遼太郎の唱えたいわゆる司馬史観と呼ばれるものが左翼の間で今も根強い。これは西洋化=善という極めて単純な視点によるもので、そのため信長秀吉の侵略思想が肯定されたばかりか、西洋文明の積極的な吸収という点で英雄視されるようになった。吉田松陰にしても侵略思想については一切沈黙して、西洋化の英雄とされている。それどころか日露戦争の勝利に至るまでの日本の近代史は西洋化の坂道を登る輝かしい歴史とされ、日本が間違えたのは昭和の軍国主義からだとする。
この歴史観だと日本が一つの世界を作るために、天下統一の戦いに参加したのは善とされ、戦争がいけないのは敗北したからだという論理になる。日本がもっと早く徹底的に日本の文化を消し去って西洋に同化していれば勝てたかもしれないという論理だ。実は一方で憲法を守れと言いながら、過去の侵略戦争は否定しない。その根底にあるのは「世界史は一つの世界を作るためのものだ」という論理だ。
左翼の一番の根にあるのはこの「一つの世界」という理想だ。すべての民族が一つの文化に同化され、民族も人種もすべて均質化される世界だ。ただ奴らは日本人として自分たちの理想を掲げることはない。日本をどこに吸収させるかで日和見を続けるだけだ。日和らなければ日本は再び悲惨な戦争を繰り返す、というわけだ。
例えていえば、いじめにあいたくなければいじめる奴らの腰ぎんちゃくになれ、それもできるだけ強い奴につけ、ということだ。こういう根っからの下僕体質が実は一番日本的であることを和辻哲郎は見抜いていた。
まあ、昔話はこれくらいにして、風流の方に戻ろう。
あと、元禄三年春の「種芋や」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
水無月に入り、夏の俳諧を読んでいこうかと思う。
今回は元禄七年五月二十二日から六月十五日までの京都落柿舎滞在中の興行で、
夕㒵や蔓に場をとる夏座敷 為有
を発句とする巻を読んで行こうと思う。
為有というと支考の『梟日記』の旅で長崎で去来に会った時にも噂になっていた人物でだが、支考はここでは同席していない。為有はなぜかいつも「嵯峨田夫」という称号が付いている。
ただ、為有は発句のみで、この後二十四句目までは芭蕉、惟然、野明の三吟になる。そしてそのあとは去来、之道、野明、惟然の四吟になる。
夕顔は棚を組んで蔓を這わせてたのか、夕顔の下は日陰になり涼しい夏座敷が出来上がる。
脇は芭蕉で、
夕㒵や蔓に場をとる夏座敷
西日をふせぐ薮の下刈 芭蕉
夕顔が西日を防いでくれてますし、薮の下も綺麗に刈られていてすっきりしていますと庭を褒めて応じる。
第三は、
西日をふせぐ薮の下刈
ひらひらと浅瀬に魦の連立て 惟然
「魦」はここではハゼと読むが、琵琶湖のイサザのことか。ウィキペディアに、
「イサザ(魦・鱊・尓魚・魚偏に尓(𩶗)、学名 Gymnogobius isaza )は、スズキ目ハゼ科に分類される魚の一種。ウキゴリに似た琵琶湖固有種のハゼで、昼夜で大きな日周運動を行う。食用に漁獲もされている。現地ではイサダとも呼ばれる。」
とある。
薮に西日の遮られた辺りにハゼの魚影が見える。
四句目。
ひらひらと浅瀬に魦の連立て
馬の廻りはみな手人なり 野明
手人(てびと)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手人」の解説」に、
「〘名〙 (古くは「てひと」)
① 履(くつ)を縫ったり機を織ったり、技芸にたずさわる者。朝鮮半島から渡来した技術者。才伎。
※古事記(712)中「又手人(てひと)韓鍛、名は卓素」
② てのもの。配下。てした。部下。」
※浄瑠璃・自然居士(1697頃)二「我意をふるまひ給ふによって、お手人共も我ままに」
とある。時代的には②の手下の方であろう。
ハゼの群立ちに人の群立ちが呼応する。
五句目。
馬の廻りはみな手人なり
一貫の銭で酒かふ暮の月 芭蕉
銭一貫ならそれなりの量の酒が買えただろう。手人みんなで酒盛りができる。
六句目。
一貫の銭で酒かふ暮の月
稗に穂蓼に庭の埒なき 惟然
「埒なき」はごちゃごちゃだということ。稗は植えたのだろうし、穂蓼もおつまみになる。しばらくは酒を飲みながら暮らせそうだ。
初裏、七句目。
稗に穂蓼に庭の埒なき
松茸も小僧もたねば守られず 野明
山寺の庭とする。小僧がいなければ庭もとっちらかっているし、山も手入れが行き届かないから松茸も生えてこなくなった。
八句目。
松茸も小僧もたねば守られず
ほたゆる牛を人に借らるる 芭蕉
「ほたゆる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ほたえる」の解説」に、
「〘自ヤ下一〙 ほた・ゆ 〘自ヤ下二〙
① あまえる。つけあがる。
※箚録(1706)「ほたへる者は日にほたへて、奢(おごり)の止ことも無れば」
② ふざける。たわむれる。じゃれる。
※俳諧・望一千句(1649)二「をどりはねつつめづる夜の月 ひき来るはさもほたへたる駒むかへ」
とある。
今でも熊本天草方面では方言として残っているという。
牛も使う人がいないから他所の人が勝手に使っている。
九句目。
ほたゆる牛を人に借らるる
台所の続に部屋の口明て 惟然
台所の奥にも部屋があって、そこに住んでいる人が牛を借りている。
十句目。
台所の続に部屋の口明て
旅のちそうに尿瓶指出す 野明
台所の奥の部屋に泊まっている旅人は年老いているのか病気なのか、尿瓶が必要になる。
十一句目。
旅のちそうに尿瓶指出す
物一ついふては念仏唱へられ 芭蕉
老いた旅人は乞食僧で、一言挨拶したかと思ったら、延々と念仏を唱える。
十二句目。
物一ついふては念仏唱へられ
今のあいだに何度時雨るる 惟然
「今のあいだ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「今の間」の解説」に、
「① 今こうしているあいだ。現在のところ。また、この瞬間。
※続日本紀‐天平宝字八年(764)一〇月一四日・宣命「今乃間(いまノま)此の太子を定め賜はず在る故は」
※和泉式部集(11C中)上「いまのまに君やきませやこひしとて名もあるものをわれ行かめやは」
② (「に」を伴うことが多い) たちまち。またたく間に。見ているうちに。
※狂歌・新撰狂歌集(17C前)下「いまの間にほとけは二躰出来たりばうずはやくし我はくはんをん」
とある。②の意味であろう。
前句を空也忌の空也念仏とする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「空也忌」の解説」に、
「〘名〙 空也上人光勝の忌日。陰暦一一月一三日に、京都空也堂で修する法会(ほうえ)。高らかに念仏を唱え、鉦(しょう)をたたき、竹杖で瓢箪(ひょうたん)をたたきながら京都の内外を回る。上人の入寂(にゅうじゃく)は「元亨釈書」には天祿三年(九七二)九月一一日とあるが、上人が康保二年(九六五)一一月一三日京都を出て東国化導に赴く際、この日を忌日とせよといったのに起こるという。《季・冬》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」
とある。この空也念仏の僧がやってくると、瞬く間に時雨が降ってくる。
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