まあ、都議会選も終わり、一応都民の審判も下ったので、もうこれ以上世界中のスポーツファンの夢を醜い政争で汚さないでくれ。
デリック・ベルさんの「人種主義の深い淵」の続きだが、「最後の黒人ヒーロー」は切ないラブストーリーだが、やはり寓意があるんだろうな。黒人解放運動がと黒人に理解があると称する白人女性によって乗っ取られてゆくという、今のBLMの流れが予見されてたのだろう。日本人とのハーフの女性というのも結構向こうでは微妙なのかもしれない。
白人女性には女性解放というテーマがあるから、その戦いを有利にするために黒人問題を利用したいというのもあるんだろう。これにまたLGBTや障害者団体やら様々なマイノリティーが相乗りしてゆくうちに、「革命」で一括解決なんて方向にいっちゃうんだろう。
批判的人種理論が今アメリカで問題になっているのも、多分この共産主義につながり危険性が一番の理由なのだろう。人種主義(レイシズム)か共産主義かの二択のように思われるのが一番怖い。多分日本の左翼もあたかも他の選択肢がないかのように誘導するだろう。普通に生活していた人をレイシスト認定して精神的に追い詰めるやりかたは洗脳の手口と一緒なので気をつけよう。
「人種的現実論」のところで白人ヒーローを登場させているのは、黒人のが暴力にさらされた時、白人でなければ守れないという事情を述べたものではないかと思う。確かに、白人団体が白人極右団体に暴力をふるっても人権派の英雄的行為だが、黒人がやったらただの暴動で片づけられちゃうんだろうな。武器持ってるだけで警察に殺されそうだし。
「人種的立場のルール」も黒人の声を白人の姿で語らなくてはならないという問題提起になっている。
黒人がどんな声を上げようが無視されるだけだが、同じことでも白人が言えば脚光を浴びるし、本にもなって世界で翻訳されてゆく。黒人のグラフィックアートにどんなメッセージが込められようが、ただの落書きで消されていくが、白人のバンクシーが白人の様式で絵を描けば世界が注目するし、とんでもない高値が付くのと同じようなものだろう。
今まで筆者が感じてきた「黒人の声が聞こえてこない」というのは、日本の翻訳者だけの問題ではなく、むしろアメリカの問題でもあり、世界の問題なのかもしれない。
まあ、逆に考えれば世界の人が日本のことを知ろうとした時も、西洋崇拝(白人崇拝)の左翼文化人を介在してしか日本の声が伝わってないという問題があるんだろうな。日本の文化に興味を持って、もっと研究したいと思って日本に来ても、日本の大学は西洋崇拝者ばかりだし。
多分ネットの発達でみんなそれに気付けるようになって、外国の声を紹介するマスコミや文化人などの既存の権威に疑いがもたれるようになってきているから、本当の声が聞きたいと思うようになったのだろう。
「ある法律学者の」のところでようやく「人種論批評派」という訳語が出てきたが、これがそのいわゆる「批判的人種理論」のことか。この雰囲気だとベルさんは本来ここに含まれるべき人ではなかったのではないか。
世界を一つにすればいいというのは一見聞こえがいいが、実際にそれをやれば世界征服になる。同じように、世界から人種というものがなくなればいい、肌の色の違いはあっても誰もがそれを意識しない世界になればいいというのは、徹底した同化政策かホロコーストかどちらかだ。
人類は民族的多様性から逃れることはできない。やるべきことは均一化ではなく相互理解だ。
そもそも論だが生物学的な意味での人種は存在しない。ただ、ある地域で遺伝子上の変異が蓄積され地方形を形成するのと並行して、文化的遺伝子(ミーム)もその変異が蓄積され、その地方独自の文化が独自の血縁と密接に結びついた形で発展する。こうして世界中に様々な民族が形成される。人種というのはその無数の民族を大雑把に白と黒と黄色に分けただけのものだと言われればそれまでだ。
一般に言う白人はその中でも古代ギリシャ・ローマの遺産を引く継ぐ文化集団だが、中東や北アフリカやインドや中央アジアにも非西洋系の白人はたくさんいる。日本人から見ると区別がつかないから、フレディ・マーキュリーもみんな普通に西洋人だと思っていた。
民族の多様性は人類の進化に欠くべからざるものであり、また同時に保険でもある。それをも抹消する思想は右であれ左であれ容認してはならない。
それでは古麻恋句合の続き。
述懐恋
寐もやらで浪人猫の日陰かな 入松
夜は寝ないで昼間は日陰でじっとしている猫は、人間で言えば牢人のようだ。
墨染と思ひはてけり烏ねこ 紫紅
黒猫は烏猫と呼ばれていたのだろう。出家して墨染の衣を着て、恋の思いを断つ。
寄月恋
白玉か問来るねこを朧月 毎閑
白猫の元へ通ってくる猫がいたのだろう。白猫は闇の中に白玉のように見えて朧月のようだ。
『源氏物語』の朧月夜の俤であろう。
寄日恋
思ひのみ日にむく腹は布袋猫 序令
思いはつのっても毎日食ってばかりで太っていって、布袋さんのような猫になっている。
序令は「『焦尾琴』に載る作家」に、「石内氏・魚問屋」とある。
後朝恋
あつ灰をかへる朝のふとんかな 百里
百里は「『焦尾琴』に載る作家」に、「高野氏・魚問屋」とある。
昼恋
昼はねて衛士と並ぶや火傷猫 心水
これは百人一首でも有名な、
御垣守衛士のたく火の夜はもえ
昼は消えつつものをこそ思へ
大中臣能宣(詞花集)
の歌で、昼は寝て、夜に雌猫の所に通うが、衛士に火で追払われて火傷する。
心水は「『焦尾琴』に載る作家」に、「禅僧か」とある。
夜恋
煮こごりや猫の白波夜半に行 午寂
煮こごりは魚の煮汁の冷えて固まったもの。夜中に猫が舐めて白波のようになる。
春の世をいつか帰りてよごれ猫 堤亭
牡猫は発情期になるとメスを求めてふらっといなくなってしまう。何日も経って帰ってくると泥だらけになっている。
思他恋
たが猫ぞ棚から落す鍋の数 沾徳
筑摩祭の鍋であろう。
君が代や筑摩祭も鍋一ツ 越人(猿蓑)
の句もある。コトバンクの「デジタル大辞泉「筑摩祭」の解説」に、
「滋賀県米原(まいばら)市の筑摩神社で5月8日(古くは陰暦4月1日)に行われる祭礼。古来、御輿(みこし)に従う女性がひそかに関係をもった男性の数だけ鍋をかぶったというが、現在は少女が作りものの鍋をかぶって供をする。鍋祭り。つくまのまつり。《季 夏》「君が代や―も鍋一つ/越人」
とある。たくさんの鍋を棚から落として、何人と関係を持ったんだ、
沾徳はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「沾徳」の解説」に、
「江戸中期の俳人。水間(みずま)氏。合歓堂(ごうかんどう)と号す。江戸で生まれ、同地に没。享年65歳。1678年(延宝6)18歳のおりの沾葉(せんよう)号での言水(ごんすい)編『江戸新道』入集が初見。内藤風虎(ふうこ)・露沾(ろせん)父子の寵愛(ちょうあい)を受けるが、1685年(貞享2)風虎没後、其角(きかく)に親炙(しんしゃ)し、洒落(しゃれ)風の俳諧(はいかい)を習得、享保(きょうほう)期(1716~36)江戸俳壇の中心的人物となる。沾徳が、芭蕉(ばしょう)から時鳥(ほととぎす)二句の評を請われ「物定(さだめ)のはかせ」となったエピソード(荊口宛(けいこうあて)芭蕉書簡)は有名である。1692年(元禄5)刊の『誹林一字幽蘭集(はいりんいちじゆうらんしゅう)』が処女撰集(せんしゅう)。ほかに『文蓬莱(ふみよもぎ)』『余花千句(よかせんく)』『橋南(はしみなみ)』『後余花千句(のちよかせんく)』などの編著がある。1718年(享保3)成立の『沾徳随筆』は、彼の俳諧観をうかがうのに欠かせない資料である。門人に沾洲(せんしゅう)がいる。
うぐひすや朝日綱張(つなはる)壁の穴(橋南)
[復本一郎]」
とある。
飯くへば君が方へと訴訟ねこ 其角
訴訟はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「訴訟」の解説」に、
「① うったえること。公の場に訴え出て裁決を願うこと。うったえ。公事(くじ)。
※十七箇条憲法(604)「五日〈略〉明辨二訴訟一。其百姓之訟」
※平家(13C前)一「後日の訴訟を存知して、木刀を帯しける用意のほどこそ神妙なれ」
② 要求、不平、願いなどを人に伝えること。嘆願すること。うったえ。
※米沢本沙石集(1283)七「訴訟可レ申事候て、一門列参仕れり」
※浮世草子・世間娘容気(1717)一「思ひ切て亭主に訴詔(ソセウ)し、笄曲の髪を切て、二つ折に髩(つと)出して」
③ 詫びて、とりなすこと。
※咄本・楽牽頭(1772)三人兄弟「もふ親父どのに知れても、そせうはせぬ」
とある。この場合は②であろう。つらい気持ちを訴えるんだけど飯の方が大事。
恋病
こよひもや風呂屋へ通ふ疝気猫 大町
「疝気」は下腹部の痛み。猫が風呂で疝気を癒すわけでもなかろうに。それにこれは特に恋の病というわけでもない。
大町は「『焦尾琴』に載る作家」に、「中西氏・伊勢屋七兵衛」とある。
蜥くふ食傷つらしやつれ猫 昌川
「食傷」は食あたりのこと。蜥蜴を食って腹を壊したか、やつれた猫がいる。恋の病ではなさそうだ。
被棄恋
西行のおもひすててや銀座ねこ 白獅
「西行銀猫」の故事で、文治二年(一一八六年)、頼朝が鶴岡八幡宮で西行に会い、歌道と兵法のことを尋ね、西行に銀の猫を送るが、西行はこんなものはいらないということで、近くにいた子供にやったという話。
恋に破れた猫は、まるで西行に捨てられた銀猫のようだ。
寄床恋
塗箱をふす緒に成て春の夢 口遊
塗箱は漆塗りの重箱か硯箱か何かだろう。猫は箱があるとそこにすっぽりと収まって眠る。スヤー。
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