昨日の首相官邸のホームページでは七月八日の時点でのワクチン接種者数が57,350,224回と一日二百万人を越えるペースで加速している。ワクチン不足はやはりデマだったか。
二回目の接種を優先させているせいか、二回接種を終えた65歳以上が43パーセントになっている。
オリンピックの開会式だが、全員の入場行進なんてだらだら時間食うだけで、せいぜい代表三十人くらいまで絞った方が良いのではないか。有名選手だけテレビに映してくれればいい。
あと来賓の挨拶はせっかく新国立にハイビジョンがあるんだから、リモートの方が安全でいいんじゃないかな。
とにかく競技を無事に終えることが第一だ。旧弊を廃して次の時代のオリンピックへの道筋をつけられたなら、それが我々の勝利だ。
それでは久しぶりに『西華集』の方を。
筑前
博多
朝顔に留守をさせてや鉢ひらき 舎鷗
夜雨に月の残る深草 昌尚
鶉にも何にもならぬ恋をして 支考
うきを身につむ奉公の金 雲鈴
菖蒲湯に明日の節句をささめかし 正風
約束したる物とりに来る 一知
じだらくに人の傘指まはり 一風
團子であそぶ庚申の宵 和水
第一 流行の行也朝顔に寐過て見さらんは我宿のならひ
もあるに鉢ひらきの朝霧わけ出てはむなしきかき
ねにのみさかせたらんは花もさこそとおもひやら
るれ
第二 其場也身を深草のあたりときけばまづしくて住め
るもあらん又富にあきてわびたるもあらんけだし
貧富のさかひにはをらで佛のみちまねびたらん今
の世はいさしるまじ
第三 曲也ただにあだなる一夜のちぎりに名もしらぬ人
の恋しくて夜雨の月のみながめ残したるしののめ
さまいとしるべしただ深草のうつつとおもひよせ
たるなり
伊勢物語
野とならば鶉となりて啼をらん
かりにだにやは君はこざらむ
発句は、
朝顔に留守をさせてや鉢ひらき 舎鷗
で、「鉢ひらき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鉢開」の解説」に、
「〘名〙 (「はちびらき」とも)
① 鉢の使いはじめ。
※咄本・醒睡笑(1628)七「今日の振舞は、ただ亭主の鉢びらきにて候」
② 鉢を持った僧形の乞食。女の乞食を鉢開婆・鉢婆という。鉢坊主。乞食坊主。
※菅浦文書‐(年月日未詳)菅浦惣村掟法「堂聖・鉢ひらき除レ之事」
とある。
朝早く托鉢に出る鉢坊主は朝顔を見る暇もないが、それを「朝顔に留守をさせて」と逆説的に言う。
鉢坊主の生活への共鳴を笑いを交えて表現する手合いは見事だし、「流行」という評価は「面白い」と言い換えても良いのではないかと思う。
舎鷗は『西華集』坤巻に、
其銭で米買にけり菖蒲売 舎鷗
秋の蚊の聲遠さかる出船かな 同
の句がある。
脇。
朝顔に留守をさせてや鉢ひらき
夜雨に月の残る深草 昌尚
鉢坊主の家を出た辺りの情景であろう。其場也になる。「月」には真如の月の見守る風情があり、雨は降るけど負けるなというメッセージが感じられる。
昌尚は『西華集』坤巻に、
鶯や聲より先に尾のはつみ 昌尚
我宿を腰につけたし富士の雪 同
の句がある。
また、宝永元年刊去来・卯七編の『渡鳥集』に、
乗懸の見廻し寒しつるの聲 昌尚
の句がある。
第三。
夜雨に月の残る深草
鶉にも何にもならぬ恋をして 支考
深草に鶉が付く。前句を後朝のこととして恋に転じる。「曲」には取り成しの意味もあるのか。
鶉の野の恋は『伊勢物語』百二十三段の、
野とならば鶉となりて鳴きをらむ
かりにだにやは君は来ざらむ
の歌が證歌になる。
四句目。
鶉にも何にもならぬ恋をして
うきを身につむ奉公の金 雲鈴
奉公で得られる金ではとても所帯は持てないな、という嘆きであろう。
五句目。
うきを身につむ奉公の金
菖蒲湯に明日の節句をささめかし 正風
前句を菖蒲湯につかりながらの風呂屋での世間話とする。「ささめく」はひそひそ話をすることで、現代でも用いられる「さざめく」は大きな声でがやがやすることを言う。
正風は『西華集』坤巻に、
盃や蛍にかした宵のまま 正風
苞柿に寺の名を聞飛脚かな 同
の句がある。
六句目。
菖蒲湯に明日の節句をささめかし
約束したる物とりに来る 一知
節句のついでに何か約束した物を取りに来る。
「怠け者の節句働き」という諺もある。普段怠けている奴に限って、みんなが休んでいる時に忙しいアピールをする。
一知は『西華集』坤巻に、
河骨の花に夕日や水の泡 一知
落栗に追付かたし下り坂 同
の句がある。
七句目。
約束したる物とりに来る
じだらくに人の傘指まはり 一風
人の唐傘を借りっぱなしの奴が、何か約束した物を取りに来たが、だったらどうでもいいから傘をまず返せよ、というところだろう。
八句目。
じだらくに人の傘指まはり
團子であそぶ庚申の宵 和水
傘を借りっぱなしにする横着な奴は庚申待ちでも団子ばかり食っている、ということか。酒は眠くなるから、庚申待ちは団子だったのだろう。
仝
秋風の渡る葉かけや瓜の皺 晡扇
雀ちらはふ里の粟稗 舎六
朝月に愛宕のお札くばらせて 支考
降なともいふ照なともいふ 自笑
板に挽く堤の松を伐たをし 東有
旅せぬ人の村でとし寄 自來
此夏を暮しかねたる身のふとり 萬袋
夜のふくるほどはてぬさかもり 雲鈴
第一 不易の行也秋風は物のかなしきといふなれば葉か
けの瓜も老やしぬらんと風物に情をつけたる作意
也
第二 其場也此所人里遠きにもあらず又近きにもあらず
初秋の風情を句の中にさだめたり
第三 其人の一轉也げにその比の山里ならばあたごの札
もおさめがちに粟稗の初穂も手ぢかなるべし
発句は、
秋風の渡る葉かけや瓜の皺 晡扇
で、「葉かけ」は「葉陰」か。瓜に皺が寄っているのを見て、自らの顔に皺が寄っているのを老いの兆候として、秋風の情に托す。
人事風俗などではなく、景物を詠んだものはおおむね不易に分類される。
晡扇は『西華集』坤巻に、
目一ぱい正月したる野梅かな 晡扇
菅笠の推も簸習ふ山路かな 同
の句がある。
また、宝永元年刊去来・卯七編の『渡鳥集』に、
墨染や衣の下の衣がえ 哺川
の句がある。
脇。
秋風の渡る葉かけや瓜の皺
雀ちらはふ里の粟稗 舎六
「ちらはふ」はちらちらと見える、散らばってあちこちにいるという意味だろう。前句の畠の瓜に粟稗の実る貧しい里を付ける。其場也になる。
舎六は『西華集』坤巻に、
鉢ひらき朝仕合やけしの花 舎六
棚経や小僧おぼえてあそこ爰 同
の句がある。
また、宝永元年刊去来・卯七編の『渡鳥集』に、
いがみあふ中にうき名や猫の妻 舎六
の句がある。
第三。
雀ちらはふ里の粟稗
朝月に愛宕のお札くばらせて 支考
京の愛宕神社は山の中にある。住所は嵯峨になる。「天正十年愛宕百韻」は光秀の「時は今」の発句で有名だ。
愛宕神社のお札といえば「火迺要慎(ひのようじん)」のお札で、京の人にはなじみのある物だ。千日詣りは新暦では七月三十一日の夜から八月一日の早朝だが、旧暦ではいつだったのかよくわからない。多分お札を配るのそのあとで秋だったのだろう。
前句を嵯峨の辺りとしたのだろう。ただ、この場合は其場也ではなく、嵯峨の辺りにはこういうお札を配る人がいるという其人の一轉也としている。
四句目。
朝月に愛宕のお札くばらせて
降なともいふ照なともいふ 自笑
前句が火事除けのお札なので、晴れてほしいけど乾燥しすぎて火事が起こるのを心配する。
自笑は『西華集』坤巻に、
稲こきの寐ざめもやはり筵哉 自笑
言伝を又おもひ出す火燵哉 同
の句がある。
五句目。
降なともいふ照なともいふ
板に挽く堤の松を伐たをし 東有
堤防の松の木を切り倒してしまうと保水力が低下して、水害が心配だ。だからといって日照りも困る。
東有は『西華集』坤巻に、
柿の葉にかくれて暑し蝉の聲 東有
の句がある。
六句目。
板に挽く堤の松を伐たをし
旅せぬ人の村でとし寄 自來
堤の松を伐り倒したのは堤の道を旅することのない人で、生まれた村で一生を終わる年寄りだった。
七句目。
旅せぬ人の村でとし寄
此夏を暮しかねたる身のふとり 萬袋
前句の年寄りを肥満で夏が辛いとした。
萬袋は『西華集』坤巻に、
膝抱て食焼キさびし秋の霜 萬袋
お袋はそばに湯漬や鰒汁 同
八句目。
此夏を暮しかねたる身のふとり
夜のふくるほどはてぬさかもり 雲鈴
前句を裕福で毎晩酒盛りして太ったとする。
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