ヨーロッパの方は水害で大変なことになっている。ドイツやベルギーの映像はテレビでも流れているし、ロンドンでもブライアン・メイさんの家が浸水したとか。水害対策の先進国でもこういうことが起きるのか。恐るべし気候変動。
ひさびさにラノベの話をすると、夜ノみつきさんの『〜首狩り姫の突撃! あなたを晩ご飯!〜』はタイトルほど怖くなくて、たけのこさんの『ジェノサイド・オンライン』を読んだ後だとほのぼのとしている。アニメで見た『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』を戦闘系ではなく狩猟系にした感じ。
それでは「夏の夜や」の巻の続き。
脇。
夏の夜や崩て明し冷し物
露ははらりと蓮の椽先 曲翠
「椽」は垂木の意味だが、この頃は「縁」の字を使うべき所を「椽」の字を当てることが多い。
縁側のすぐ前にある蓮から朝露がはらりと落ちる。前句を受けて朝のすがすがしい景色で応じる。
第三。
露ははらりと蓮の椽先
鶯はいつぞの程に音を入て 臥高
「音を入れる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「音を入れる」の解説」に、
「鳥、特に鶯(うぐいす)が鳴くべき季節が終わって鳴かなくなる。鳴きやむ。〔俳諧・増山の井(1663)〕
※浄瑠璃・丹波与作待夜の小室節(1707頃)夢路のこま「いなおほせ鳥もねをいれて野辺のかるかや軒端のおぎ馬のまぐさに飼ひ残す」
とある。いつの間にか鶯も鳴かなくなって、今は蓮の華が咲いている。
四句目。
鶯はいつぞの程に音を入て
古き革籠に反故おし込 維然
革籠(かはご)はコトバンクの「デジタル大辞泉「皮籠」の解説」に、
「竹や籐(とう)などで編んだ上に皮を張った、ふたつきのかご。のちには、紙張りの箱、行季などもいう。」
とある。
今まで書き散らしたものを捨てられずにとっておこうというのだろう。春の終わった淋しい気分に匂いで応じる。
五句目。
古き革籠に反故おし込
月影の雪もちかよる雲の色 支考
前句を冬籠りの準備とする。冬籠りと言わずにその季節を付ける。
六句目。
月影の雪もちかよる雲の色
しまふて銭を分る駕かき 芭蕉
夕暮れで明日は雪になりそうだというので、今日は早めに仕事じまいにして相方に銭を配分する。
初裏、七句目。
しまふて銭を分る駕かき
猪を狩場の外へ追にがし 曲翠
駕籠が狩りの邪魔になるというので店じまいさせられたか。駕籠かきからすれば猪に襲われたくないから、大声を出したりして猪を追い出す。
八句目。
猪を狩場の外へ追にが
山から石に名を書て出す 臥高
お城の石垣などに見られる石垣刻印だろうか。どの大名が切り出したものかわかるように単純な記号などを記す。
九句目。
山から石に名を書て出す
飯櫃なる面桶にはさむ火打鎌 維然
飯櫃はここでは「いびつ」と読むがいひびつ、めしびつのことだろう。面桶は「めんつ」でコトバンクの、
「① 一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物。後には乞食の持つもの。べんとう。めんつ。
※正法眼蔵(1231‐53)洗面「面桶をとりて、かまのほとりにいたりて、一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく」
※仮名草子・古活字版竹斎(1621‐23頃)下「くゎんとうのじゅんれいと打ち見えて、めんつう荷たわら、そばに置き」
② 茶道で曲げ物の建水(けんすい)のこと。①の形を模してある。曲水翻ともいう。めんつ。
※宗及茶湯日記(他会記)‐永祿一三年(1570)一二月四日「備前水下 面桶」
とある。
火打鎌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「火打鎌」の解説」に、
「〘名〙 (古くは、鎌の破片などを用いたところから) 火打金のこと。主に、関東地方で用いた語。
※俳諧・続猿蓑(1698)上「山から石に名を書て出す〈臥高〉 飯櫃(いびつ)なる面桶(めんつ)にはさむ火打鎌〈惟然〉」
とある。
面桶の弁当に火打ち鎌を添えて、山で適当な石を見つけて火を起こすように書いておく。
十句目。
飯櫃なる面桶にはさむ火打鎌
鳶で工夫をしたる照降 支考
「照降(てりふり)」は晴れたり雨が降ったりする天気をいう。
鳶は上昇気流に乗って滑空するところから、高く飛ぶと晴れて、低く飛ぶと雨が降ると言われている。
前句を用意周到な人としての付けであろう。
十一句目。
鳶で工夫をしたる照降
おれが事哥に讀るる橋の番 芭蕉
我を「おれ」ということは、この頃の口語でもあったのだろう。橋の番を詠んだ歌というと、近江という場所柄を踏まえれば、
にほてるや矢橋の渡りする船を
いくたび見つつ瀬田の橋守
源兼昌(夫木抄)
の歌だろうか。琵琶湖の上の鳶を見ては天気を判断する。雨だと矢橋の船が止まって橋の方に人が押し寄せる。
十二句目。
おれが事哥に讀るる橋の番
持佛のかほに夕日さし込 曲翠
宇治の橋守通円の持仏であろう。通円はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「通円」の解説」に、
「狂言の曲名。舞狂言。平等院参詣(さんけい)を思い立った旅僧が宇治橋までくると、茶屋に茶湯(ちゃとう)が手向けられている。不思議に思い所の者に尋ねると、昔、宇治橋供養のおり、通円という茶屋坊主があまりに大茶を点(た)て、点て死にした命日だと語る。そこで旅僧が供養していると、通円の亡霊(シテ)が現れ、橋供養のため都から押し寄せた300人の道者(どうしゃ)に1人残らず茶を飲ませようと孤軍奮闘、ついに点て死にした最期のありさまを謡い舞い、回向(えこう)を願って消え去る。能『頼政(よりまさ)』のパロディーで、最期を述べる部分は詞章ももじりになっている。通円は宇治の橋守が世襲した実在の名で、この曲のモデルは豊臣(とよとみ)秀吉に愛顧されたという中興の通円であろうか。平等院には「太敬菴通円之墓」が残っている。[小林 責]」
とある。
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