昨日梅雨明けが発表された。それとともにショワショワとクマゼミが鳴き始めた。
コロナの方は感染者は増え続けているけど、65歳以上の高齢者の八割以上が一回接種を終えている状態だから、重症化しやすい高齢者と基礎疾患者さえワクチンで守られていれば、若者の間でいくら感染者が広がってもただの風邪という考え方もあるんじゃないかと、最近思えるようになってきた。
50歳以上のワクチン接種が八割超えたなら、イギリスみたいに解除してもいいのかもしれない。もちろんアレルギー体質でワクチン接種が危険な人もいるし、そういう人はどうしても行動が制限されてしまうから、それは問題だ。思想的に拒否ってる奴は勝手にしろだけどね。
緊急事態宣言や蔓延防止法(通称:マンボー)の条件も重症患者数だけにして、新規感染者数はそれほど問題にしなくても良いのではないかと思う。
正直、ここまで早くワクチン接種が進むことは想定してなかった。考え方を変えるべき時が来たように思える。
あと、元禄三年冬の「ひき起す」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは続けて夏の俳諧で、『続猿蓑』所収の「夏の夜や」の巻を読んでみようと思う。
この巻には支考の「今宵賦」という長い前書きが付いている。
「今宵賦
野盤子 支考
今宵は六月十六日のそら水にかよひ、月は東方の乱山にかかげて、衣裳に湖水の秋をふくむ。されば今宵のあそび、はじめより尊卑の席をくばらねど、しばしば酌てみだらず。人そこそこに凉みふして、野を思ひ山をおもふ。たまたまかたりなせる人さへ、さらに人を興ぜしむとにあらねば、あながちに弁のたくみをもとめず、唯萍の水にしたがひ、水の魚をすましむるたとへにぞ侍りける。阿叟は深川の草庵に四年の春秋をかさねて、ことしはみな月さつきのあはいを渡りて、伊賀の山中に父母の古墳をとぶらひ、洛の嵯峨山に旅ねして、賀茂・祇園の凉みにもただよはず。かくてや此山に秋をまたれけむと思ふに、さすが湖水の納凉もわすれがたくて、また三四里の暑を凌て、爰に草鞋の駕をとどむ。今宵は菅沼氏をあるじとして、僧あり、俗あり、俗にして僧に似たるものあり。その交のあはきものは、砂川の岸に小松をひたせるがごとし。深からねばすごからず。かつ味なうして人にあかるるなし。幾年なつかしかりし人々の、さしむきてわするるににたれど、おのづからよろこべる色、人の顔にうかびて、おぼへず鶏啼て月もかたぶきける也。まして魂祭る比は、阿叟も古さとの方へと心ざし申されしを、支考はい勢の方に住ところ求て、時雨の比はむかへむなどおもふなり。しからば湖の水鳥の、やがてばらばらに立わかれて、いつか此あそびにおなじからむ。去年の今宵は夢のごとく明年はいまだきたらず。今宵の興宴何ぞあからさまならん。そぞろに酔てねぶるものあらば、罰盃の数に水をのませんと、たはぶれあひぬ。」
場所は膳所の曲翠亭で、『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によれば閏五月二十二日から六月十五日まで嵯峨の落柿舎に滞在し、この日に膳所へ移り、七月五日まで湖南に滞在した。
「今宵は六月十六日のそら水にかよひ、月は東方の乱山にかかげて、衣裳に湖水の秋をふくむ。」(今宵賦)
これは、落柿舎を出て湖南に着いた翌日の宵ということで、十六夜の月が乱山にかかる。乱山はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「乱山」の解説」に、
「〘名〙 高低入り乱れてそびえ連なる山々。また、重なり合う山々。乱峰。乱嶺。〔日葡辞書(1603‐04)〕 〔儲嗣宗‐小楼詩〕」
とある。具体的には手前に低く信楽高原の山々があり、その向こうに鈴鹿山脈が見え、その上に月が掛かる。手前には琵琶湖南部の湖水が広がる。
「されば今宵のあそび、はじめより尊卑の席をくばらねど、しばしば酌てみだらず。」(今宵賦)
は芭蕉さんが来たというので膳所の連衆が集まってきて、とりあえず飲もうということになったのだろう。酒を飲んでも乱れることはない。
「人そこそこに凉みふして、野を思ひ山をおもふ。たまたまかたりなせる人さへ、さらに人を興ぜしむとにあらねば、あながちに弁のたくみをもとめず、唯萍の水にしたがひ、水の魚をすましむるたとへにぞ侍りける。」(今宵賦)
野を思い山を思い、それを巧みに描写するでもなく、ただその場の興の流れに身をまかす。浮草のように水に漂えば、そこの泥をかき回すこともなく、水を濁らすこともなく、魚も安心して棲める。「すましむる」はこの両方を掛けている。
「阿叟は深川の草庵に四年の春秋をかさねて、ことしはみな月さつきのあはいを渡りて、伊賀の山中に父母の古墳をとぶらひ、洛の嵯峨山に旅ねして、賀茂・祇園の凉みにもただよはず。」(今宵賦)
阿叟は我が翁で芭蕉のことをいう。叟の字もまた「おきな」を意味する。阿叟という言葉を支考は『葛の松原』でも用いている。
芭蕉は元禄四年の十月に江戸に下り、元禄四年、五年、六年、七年と足掛け四年江戸に滞在する。そして七年の五月に江戸を出て伊賀、湖南、嵯峨を経て再び湖南に来る。
「かくてや此山に秋をまたれけむと思ふに、さすが湖水の納凉もわすれがたくて、また三四里の暑を凌て、爰に草鞋の駕をとどむ。」(今宵賦)
このようにして、再度湖南にやってきて、ここに駕籠を止める。芭蕉のこの時の旅は病状の悪化から、駕籠に乗る旅となっていた。
「今宵は菅沼氏をあるじとして、僧あり、俗あり、俗にして僧に似たるものあり。」(今宵賦)
菅沼氏は曲翠のこと。僧は惟然であろう。
俗は臥高で『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)には、
「本多氏、勘解由光豊、膳所藩家老、致仕して五十人扶持。蕉門諸生全伝に、ゼゝ本多氏『隅居シテ画ヲ好、賢才多芸』とある人。本多画好又は画香と同一人と思われる」
とある。俗にして僧に似たるものは支考と芭蕉であろう。支考はお寺で育ち最近になって還俗した。芭蕉に関しては『幻住庵記』に、
「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。」
とあり、支考の『葛の松原』には、
「一回は皂狗となりて一回は白衣となつて共にとどまれる處をしらず。かならず中間の一理あるべしとて」
とある。
当時はまだ未発表だったが、芭蕉の『野ざらし紀行』には、
「僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。」
とあり、『鹿島詣』には、
「いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく」
とあり、『笈の小文』には、
「ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」
とある。
「その交のあはきものは、砂川の岸に小松をひたせるがごとし。深からねばすごからず。かつ味なうして人にあかるるなし。」(今宵賦)
「君子の交わりは、淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴の若し。」という諺があるが、俳諧師の交わりも淡いものではある。砂川の岸の小松の喩えは何か出典があるのか。あまり浅くてもいけないということだろう。
「幾年なつかしかりし人々の、さしむきてわするるににたれど、おのづからよろこべる色、人の顔にうかびて、おぼへず鶏啼て月もかたぶきける也。」(今宵賦)
淡い原因は芭蕉が旅をしていることで、同じところに住んで地域のコミュニティーの属してないため、たまに会うにすぎない所にある。ここにも久しぶりに会った喜びが感じられる。夕方から飲み始めて語明かすうちに夜明けになったことが記されている。
「まして魂祭る比は、阿叟も古さとの方へと心ざし申されしを、支考はい勢の方に住ところ求て、時雨の比はむかへむなどおもふなり。しからば湖の水鳥の、やがてばらばらに立わかれて、いつか此あそびにおなじからむ。」(今宵賦)
魂祭りはお盆で芭蕉翁も伊賀への帰郷を考えていて、支考もまた冬になる頃には伊勢移住を考えている。この興行の後、みんなばらばらでこのメンバーがもう一度揃うことがあるかどうかはわからない。まさに一期一会というところだ。
「去年の今宵は夢のごとく明年はいまだきたらず。今宵の興宴何ぞあからさまならん。そぞろに酔てねぶるものあらば、罰盃の数に水をのませんと、たはぶれあひぬ。」(今宵賦)
一年前は芭蕉は江戸にいて、ちょうど「閉門之説」を書いた頃だった。支考は元禄五年に奥州行脚を行い『葛の松原』を刊行した。そのあと美濃に戻っていたか。
そして来年のことはわからない。芭蕉は周知の通りのこととなった。
「あからさま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「あからさま」の解説」に、
「① 物事の急に起こるさま。卒爾(そつじ)。にわか。たちまち。あからしま。あかさま。あかしま。
※書紀(720)雄略五年二月(前田本訓)「俄にして、逐はれたる嗔猪(いかりゐ)草の中より暴(アカラサマ)(〈別訓〉ニハカニ)出でて人を逐ふ」
※栄花(1028‐92頃)衣の珠「『昔恋しければ、見奉らむ。渡し給へ』とあからさまにありければ」
② 一時的であるさま。ついちょっと。かりそめ。「あからさまにも」の下に打消の語を伴って、「かりそめにも…しない。全く…しない」の意となることもある。
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「あからさまの御ともにもはづし給はず」
※方丈記(1212)「おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども」
[二] (明様) ありのままで、あらわなさま。明白なさま。
※浮世草子・好色一代男(1682)一「亭(ちん)の遠眼鏡を取持て、かの女を偸間(アカラサマ)に見やりて」
[語誌](1)「あから」は元来「物事の急におこるさま」「物事のはげしいさま」を表わすが、次第に「にわか・急」「ついちょっと・かりそめ」などの意に転じていった。しかし、「にわか・急」の意には「すみやか」「にはか」「たちまち」などの語が用いられるため、「あからさま」は「ついちょっと・かりそめ」の意に固定していったと考えられる。
(2)時代が下ってから(二)の用法が出て来るが、これは「明から様」と意識したことによると考えられる。」
とある。この場合は②の意味であろう。今はこの言葉は[二] の意味でしか用いられていない。
明日はどうなるかわからない貴重な時間なので、精いっぱい遊び明かそうではないか、ということで、酔って寝た者には罰として飲まされた盃の数だけ水を飲ませようなどと冗談を言って過ごす。
連衆の遊びふざけている様をこういうふうに描写するのは支考の文章の特徴でもあり、『梟日記』にも何か所か見られる。寺で禁欲的に育った支考にとって、俗世のこういうおふざけも貴重な時間だったのだろう。あるいはそれが支考の俳諧の本質なのかもしれない。
それでは、この興行の発句を見てみよう。
夏の夜や崩て明し冷し物 芭蕉
「冷し物」はコトバンクの「デジタル大辞泉「冷し物」の解説」に、
「水や氷で冷やして食べる物。「夏の夜や崩れて明けし―/芭蕉」
とある。夏の夜は短く、
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月宿るらむ
清原深養父(古今集)
の歌もあるが、それを「崩て明し」という端的でキャッチーな言葉をすぐに思いつくのが芭蕉だ。その夜明けには酔いの眠りを覚ます冷し物がふるまわれたのだろう。
序文で既に夜明けのことまでが語られていて、発句も朝の句だから、俳諧興行はこの後、おそらく六月十七日に行われたのではないかと思う。
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