今日のネット視聴はトライアスロンから始まった。そのあとは昨日と同様にサーフィンを見たが、台風の接近で波が荒れていた。
女子のスケボは体操と一緒で子供が有利になるのかな。年少でオリンピックということになると幼いころからの英才教育ということになって、ストリートではなくなるな。次回は英才教育のロシア・中国に独占されてたりして。
ソフトボールの日本・アメリカ戦は最後の方だけちょっと見た。消化試合になってしまったが。
結局午後もサーフィンを見ていた。あんな波の中ですごいなと思った。あと、ヨットも少し見た。何か今回は水系ばかり見ているように気もする。でも会場になっている江の島ヨットハーバーは工事の資材を運んだことがあるから、無関係でもない。
昨日の自転車ロードレースは、普段見ないから選手の名前も何も知れなかったのでわからなかったが、あれって物凄い番狂わせだったんだ。自転車ってずっと集団を組んで走って駆け引きしながら、最後のスパートが勝負というのが定石だとは聞いていたが、マラソンは結構途中で飛び出して逃げ切るパターンもあった。
それでは昨日の続き。
原始的なスポーツはそれぞれの地域で独自のルールがあって統一されてなかったから、村で一番になってもそれ以上の価値はなかったといってもいい。連歌は摂政関白の名に於いてルールが定められたが、それはかなり例外的なものだった。
囲碁将棋に関してはそれほどローカルルールが生じなかったのか、囲碁では近代になってコミという後手のハンディを付けるようになり、それが時代によって変化するくらいだった。
三十三間堂の通し矢も一種のスポーツだったが、御三家だけでの争いで一般化されなかった。
近代スポーツが画期的だったのは、まず第一にルールの統一だった。競技ごとに競技団体があって、そこで統一ルールが定められ、すべての国の人たちが同じルールの下で競われるようになったということで、それまでの個々の国や地域の祭りで行われた競技と明らかに一線を引くものとなった。
このことは近代社会の「法の下での平等」の理念を拡大し、より厳密かつ公正なものにした。そして、統一ルールにおいて国際大会が開かれ、世界中の人が同じルールの下で競争できるようにしていった。オリンピックはその理想の頂点に君臨し、主導してきた。
もちろん最初から完全ではなかった。民主主義がそうであるように、最初は下層階級、女性、有色人種を排除していた。これらは民主主義国家が改善されてゆくのと並行して、徐々に出場資格が認められるようになっていった。
戦後になってローマ大会でパラリンピックが誕生することで、こうした世界共通ルールによる近代スポーツは障害者にまで拡大された。
こうして今日二百を越える国や地域の人々が人種の隔てもなく競技に参加できるようになったし、障害者も健常者と別組ではあるが国際大会が開かれている。オリンピック反対派はこれのどこに異議を唱えているのだろうか。そもそも順位をつけること自体がいけないということで、スポーツそのものを否定し、ただ個々の人々の鍛錬あるのみの世界を作ろうというのだろうか。
オリンピックがなくなり、各競技団体が独自にルールを定め、独自に興行するような世界になると、今日のプロレスのような世界になる。今のオリンピックの問題点が改善されないまま世界的に反オリンピック運動が起きてくると、多分未来のスポーツはプロレス化する。世界の人が一堂に会することはなくなり、ネット上にそれぞれマニアックな世界が構成されてゆくことになる。
あと一応断っておくが、「スポーツ」のような日常的な概念は厳密に定義することはできない。だから必ずスポーツなのかどうなのか曖昧な境界線領域があって、反論をするときはそこを突くのが定石でもある。あるいはスポーツの定義を要求するというのも、いわゆるソクラテス流のやりこめ術ではおなじみのパターンだ。
勝負を競わなくてもジョギングは多くの人がスポーツだと思っているだろう。筋トレもスポーツに含まれるだろうか。試合に出ることを目的とせずにバッティングセンターやゴルフの打ちっぱなしに通う人も、スポーツといえるかもしれない。本来は競技のためのトレーニングだったものが、実際には競技と無関係に行われているのも普通のことだ。こうしたものも一般的にはスポーツに含まれている。
スポーツの本来持っている競技性が一番わかりやすいのはeスポーツの概念で、ウイイレが競技種目になってたにしても、無数にいるウイイレプレーヤーをスポーツマンと呼ぶ人はいない。
あと、スポーツチャンバラなる競技もあるが、これもルールを決めて競技をするということで「スポーツ」の名を冠している。
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