ラーメンズって確か九十年代のあまりぱっとしない芸人で、ネタもどんなのやっていたかほとんど覚えていない。一部でシュールギャグを評価する人たちもいたみたいだが、まあ、印象に残ってないところ見ると、あまり笑えなかったんだろうな。もじゃもじゃ頭の方は何となく覚えているけど、小林の方は印象にない。
ああいうネタが日本人に受けると思われると困るので一応。
小山田といい、オリンピックの開会式を何でこんなマイナーな連中がやっているのかよくわからない。オリンピックに限らず、九十年代のいわゆる「サブカル」と呼ばれた文化を一度総ざらいする必要があるかもしれない。何かいろんなものが出てきそうだ。
ソフトボールのアメリカはアボットに尽きるかな。あの長身でボールの出てくる位置が高い上に、投げる時に尻に隠すようにして球の出る位置を見えにくくしている。まずはアボットを打ち崩せるかどうかだな。カナダも出塁できず、ほとんど足を使う機会がなかった。
日本は危なかったけどかろうじて勝った。リリーフの後藤がよく耐えてくれた。
男子サッカーの方はメキシコが凄いいい動きしてた。強敵だ。
日本・南アフリカ戦は南アフリカがびしっと引いて守った所に、特に攻め手もないままだらだら眠くなる仕合で、ようやく一点取って勝った。何で眠くなるか考えたんだが、支配率が高くてボールがサイドからサイドへ行ったり来たりする場面が少なく、試合がワンサイドになるからだろう。そのあと、ドイツ・ブラジル戦の動画を見てそう思った。
今オリンピックを中止したら、家でテレビ観戦をしようとしていた連中が一気に街に出てくるから、コロナ対策に一番良いのは目いっぱいオリンピックを盛り上げて、みんなをテレビの前に釘づけにして、街を空っぽにすることだ。選手の頑張りに期待する。
あとラノベネタで、今日取り上げるのは白波ハクアさんの『ある日、惰眠を貪っていたら一族から追放されて森に捨てられました〜そのまま寝てたら周りが勝手に魔物の街を作ってたけど、私は気にせず今日も眠ります〜』。
最近は長いタイトルのものが多いけど、タイトルだけでどういう物語が分かるから便利だ。タイトルが紹介文を兼ねている。
ちょうど先日から後追いでアニメの『転生したらスライムだった件』を見始めた所だったので、なるほど、いくつかのアイデアはここから貰っているなというのはわかる。ただ、主人公を大人の転生者ではなくコマリンよりも怠惰な引きこまり吸血鬼にしたというところに、定家の卿なら手柄があるというだろう。(転すらは「不滅のあなたへ」にも影響を与えてると思う。)
この設定の面白いのは、日本の天皇が何なのか考えさせられるからだ。日本人にとって「王」とはどのようなものであるべきなのかという、ファンタジーならではの一つの典型であろう。西田幾多郎が「無」だと言い、和辻哲郎が「空」と呼んだものが何なのか。
開会式で天皇に中止宣言をさせればいいと言ってた馬鹿。日本の天皇が何なのか全くわかっていない。
それでは「ひらひらと」の巻の続き。挙句まで。
二十五句目
なじみの町のちかづきもへる
名月の餅に当たる関東早稲 葉文
早稲田大学のあるあたりもかつては早稲田村と呼ばれてたくらいだから、関東でも早稲の産地というのはあったのだろう。早稲田と名月の餅に間に合う。
前句を町外れの早稲田の広がる地帯としたか。
二十六句目
名月の餅に当たる関東早稲
ことしはいかう渡る安持鳥 仝
安持鳥(あぢどり)はアジガモでトモエガモの異名。ウィキペディアに、
「シベリア東部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国東部、日本、朝鮮半島、台湾へ南下し越冬する。」
とある。
「いかう」はコトバンクの「デジタル大辞泉「厳う」の解説」に、
「[副]《形容詞「いか(厳)し」の連用形「いかく」のウ音便から》はなはだしく。ひどく。非常に。
「ああ、―酒臭い」〈浄・冥途の飛脚〉」
とある。
早稲を作って早く稲刈りが終わると、そのあとにトモエガモがたくさん飛来する。
二十七句目
ことしはいかう渡る安持鳥
萱葺にしつぽりとふる秋の雨
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(世)とあり、安世の句ということになっている。
茅葺屋根のならぶ農村に秋の雨が降り、トモエガモがたくさん飛来する。
二十八句目
萱葺にしつぽりとふる秋の雨
いつ作つても詩は上手也
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(考)とあり、支考の句ということになっている。
陶淵明などの中国の隠士とする。
二十九句目
いつ作つても詩は上手也
女房に只わらわれぬ覚悟して
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(野)とあり、丹野の句ということになっている。
詩を作っては女房に笑われてばかりで、女房に笑われないような詩をつくろうと努力したら詩の名人になっていた。
文学というのは内輪でしかわからないようなものでは駄目で、身近な女房も面白いと思うような作品を作れれば一流になれる。
三十句目
女房に只わらわれぬ覚悟して
尻かれ武士の二番ばへ共
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(龍)とあり、吐龍の句ということになっている。
「二番ばへ」は二番生えで次男のこと。「尻かれ武士」はよくわからないが、女房に尻を叩かれてる武士のことか。
二裏、三十一句目
尻かれ武士の二番ばへ共
土手筋の紫竹は杖にきりたくり 丹野
「紫竹(しちく)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紫竹」の解説」に、
「〘名〙 ハチクの栽培品種クロチクの色素がやや薄いもの。紫竹竹。
※壒嚢鈔(1445‐46)一「昔無き人を恋ふ涙に染りし故に此竹を忌也。今紫竹斑竹と二に云共、同類なるべし」
※仮名草子・竹斎(1621‐23)上「御墓の竹に取付き給ひて、紅の御涙を零し給へば、その涙竹に灑きて染まりける。その時よりも此竹を紫竹と申始まりける」
とある。
土手に植えた竹は水害対策のもので勝手に切ってはいけない。
竹が根が張るとそこの地盤が強くなり、地震や水害に強くなるだけでなく、風除けにもなる。
三十二句目
土手筋の紫竹は杖にきりたくり
田のくさどきにはやる富士垢離
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(文)とあり、葉文の句ということになっている。
「富士垢離(ふじごり)」は旧暦六月一日の山開きに富士山に入るために身を清めることで、ウィキペディアの「村山修験」のところに、
「村山修験は対外的には富士垢離という信仰形態を確立させている。『諸国図絵年中行事大成』によると、富士行者が水辺にて水垢離を行うことにより、富士参詣と同様の意味を持つ行であるという。この富士垢離を取り仕切る集団に「富士垢離行家」というものがあり、大鏡坊が聖護院に取り付け、村山修験先導の下で行われていた。」
とある。
田の草取りに人が必要な時に富士垢離が重なり、みんな富士山に行ってしまう。
三十三句目
田のくさどきにはやる富士垢離
蚊のゐずばあるものでない夏の月
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(翁)とあり、芭蕉の句ということになっている。
蚊がいるから夏の月なんだ、ということ。其角に「春宵一刻値千金」をもじった、
夏の月蚊を疵にして五百両
の句がある。
三十四句目
蚊のゐずばあるものでない夏の月
酒塩と名をつけてのまるる
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(世)とあり、安世の句ということになっている。
塩だけを肴に酒を飲むということか。テキーラにそういう飲み方があったような。
三十五句目
酒塩と名をつけてのまるる
病ぬいて結句まめなる花盛
この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(通)とあり、路通の句ということになっている。
「結句」は漢詩の結びの句だが、「結局」という意味でも用いられる。
病気で今年はのんびりとした花盛りを迎えられると思ったら、思いのほか早く治ってしまい、結局いつも通りに忙しい。
挙句
病ぬいて結句まめなる花盛
どちらへむくも空はのんどり
「のんどり」はのんびりということ。空はのんどりしているのに、どうしてこんなに忙しいのか。
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