今日は金曜日で明日から五連休の人も多いのか、車は多かった。先週の金曜ほどではないが。
九月入学を批判するなら代案を出しておかないとね。
これからの教育はネットを中心とするとことで人を一所に集める必要がなくなり、時間や空間から自由になるのではないかと思う。ネットで年齢に関係なくいつでも世界中の授業が受けられるようになれば、いつでも入学し、卒業できるようになる。
年齢や時空を超越した教育、それが四月入学や九月入学に取って代わるようになる。
すぐに過ぎてくたまの休日
君の気を引くにも炭に火は着かず
それでは「かくれ家や」の巻の続き。
第三。
まれに蛍のとまる露草
切崩す山の井の名は有ふれて 等躬
「山の井」は浅香山の山の井で、『奥の細道』に、
「等窮が宅を出て五里計(ばかり)、檜皮(ひはだ)の宿(しゅく)を離れてあさか山有り。路より近し。此のあたり沼多し。」
とある。
安積山影さへ見ゆる山の井の
浅き心をわが思はなくに
陸奥国前采女『万葉集』巻16 3807
の山の井だが、この頃にはもう切り崩されて存在しなかったのだろう。名前だけは有名で季吟の撰集の名前にもなっている。
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ
藤原公任(拾遺集)
の歌にも通じるものがある。
今はない山の井もすっかり有名になってしまったから、稀に蛍のような尊い客人がやってくる。
四句目。
切崩す山の井の名は有ふれて
畔づたひする石の棚橋 曾良
「棚橋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 板を棚のようにかけ渡した橋。欄干(らんかん)がなく、板を渡しただけの橋。
※万葉(8C後)一〇・二〇八一「天の河棚橋(たなはし)渡せ織女(たなばた)のい渡らさむに棚橋(たなはし)渡せ」
とある。
この句は倒置で「石の棚橋(を)畔づたひする」という意味で、山の井は今はなく田んぼなっている、となる。
五句目。
畔づたひする石の棚橋
把ねたる真柴に月の暮かかり 等雲
前句の「畔づたひ」から、山奥の農村で柴刈りから帰る農民の姿につきを添える。
六句目。
把ねたる真柴に月の暮かかり
秋しり㒵の矮屋はなれず 須竿
「矮屋」はここでは「ふせや」と読むようだが、コトバンクだと「わいおく」という読みで、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 低く小さい家屋。矮舎。また、自分の家をへりくだっていう語。
※蕉堅藁(1403)山居十五首次禅月韻「放歌長嘯傲二王侯一、矮屋誰能暫俯レ頭」 〔開元天宝遺事‐巻上〕」
とある。
前句の柴刈る人を隠遁者として、いかにも秋の悲しさを知り尽くしているような顔をしている、とする。
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