今日は暑い一日になった。とはいえ、まだ飲み物をがぶがぶ飲むほどではない。これから先は下痢にも気をつけないとな。トイレも閉鎖されているし。
学生の頃読んだアルビン・トフラーの『第三の波』に、そういえば今で言うテレワークが予言されてたのを思い出した。もう四十年も前のことだ。その頃の学生も定年を迎える頃となっている。
今思うと一体何をしていたかという所だ。何のためにみんな四十年も満員電車に揺られてたのか。
結局職場でも教育でも、誰も何も変えようとしなかった。惰性のように古いシステムを引きずって今に至ったいる。その付けを今払うことになるのか。
君の気を引くにも炭に火は着かず
焼けぼっくいを横目で眺め
それでは「かくれ家や」の巻の続き。
初裏。
七句目。
秋しり㒵の矮屋はなれず
梓弓矢の羽の露をかはかせて 素蘭
矮屋の主を源平合戦時代かそれ以前の武将とした。
もののふの矢並つくろふ籠手の上に
霰たばしる那須の篠原
源実朝
のような世界を感じさせる。
八句目。
梓弓矢の羽の露をかはかせて
願書をよめる暁の声 芭蕉
願書というと今では入学願書のイメージだが、本来は神に祈願する時の文書で願文ともいう。
コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」によると、
「(1)平曲の曲名。《木曾願書》とも称する。伝授物。読物(よみもの)13曲の一つ。木曾義仲が挙兵して越中の砥波山(となみやま)まで来て埴生(はにゆう)に陣を取ったとき,林の間に見える社が八幡宮と知り,連れていた大夫房覚明に命じて願書を書かせた。覚明は儒家の出身で,〈帰命頂礼八幡大菩薩は日域の本主……〉と見事な文章の願書をしたためた。これを八幡宮に納めたところ,山鳩3羽が義仲軍の白旗の上を飛び回ったので,義仲は冑を脱いで礼拝した。」
というのがあったという。
平曲にはこの外にも『平家連署願書』というのがあるという。こちらの方は平家一問が比叡山を味方につけるために書いた願書のようだ。
多分芭蕉がイメージしていたのは木曾願書の方だろう。芭蕉は木曾義仲の大ファンで、『奥の細道』の旅の後、上方にいた頃にはしばしば近江の義仲寺に滞在し、死後もここに埋葬された。
九句目。
願書をよめる暁の声
松歯朶に吹よはりたる年の暮 栗斎
松は門松の松、歯朶(しだ)も正月飾りに用いられる。
江戸時代には今のような初詣の習慣はなく、正月の飾りつけの際に神事が行われたのであろう。
元禄三年の年末の、
半日は神を友にや年忘れ 芭蕉
雪に土民の供物納る 示右
の発句と脇にもそれが感じられる。
十句目。
松歯朶に吹よはりたる年の暮
酒の遺恨をいふ心なし 等躬
「酒の遺恨」は酒乱で滅茶苦茶なことをやってしまったということか。年の暮れになると、今年もいろんなことがあったなという話になり、心なくも古傷が蒸し返される。
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