2020年5月4日月曜日

 今日は午前中雨が降った。一日籠城。
 午後にサンクトガーレンのアマビエエールが届いた。
 「鈴呂屋書庫」の方、この前から 「いと涼しき」の巻、「此梅に」の巻、「実や月」の巻、 「海くれて」の巻、「杜若」の巻、 「温海山や」の巻、「忘るなよ」の巻、「文月や」の巻、「枇杷五吟」といったところをアップしているのでよろしく。

   これじゃまるでボーイズラブの女キャラ
 黙っておこうカミングアウト

 「枇杷五吟」は前に「この興行も元禄二年の冬だったのかもしれない。」と書いたが、鈴呂屋書庫にアップした分には、

 「元禄三年の日付欠落で十二月頃とおもわれる加賀の句空に宛てた書簡で、

 「次郎助其元仕舞候而上り可レ申旨、智月も次第に老衰、尤大孝候。則さも可有事被存候。早々登り候と御心可被付候。」

と次郎助(乙州)に大津への帰還を促しているところから、この頃北枝・牧童らとともに大津に来たのかもしれない。となると、この興行は元禄三年十二月ということになる。」

と、元禄三年説を取ることにした。
 それでは「かくれ家や」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   かすめる谷に鉦鼓折々
 あるほどに春をしらする鳥の声   素蘭

 「あるほど」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① いる間。また、生き長らえている間。
  ※和泉式部集(11C中)下「ある程はうきをみつつもなぐさめつ」
  ② そこにある限り。あるだけ。
  ※二人比丘尼色懺悔(1889)〈尾崎紅葉〉奇遇「あるほどの木々の葉〈略〉大方をふき落したれば」

とある。①の意味で隠遁者の風情だろう。
 山奥に身を潜め、こうして生きながらえている間は鳥の声が春を知らせてくれる。谷の底の方からはお遍路さんの鉦の音が聞こえてくる。
 二十句目。

   あるほどに春をしらする鳥の声
 水ゆるされぬ黒髪ぞうき      等躬

 この時代では水で髪を洗うということは滅多になかった。遊郭ですら月二回だったと『色道大鏡』(藤本箕山著、延宝六年刊)にあるという。庶民は年に数回という状態だったようだ。
 この場合「黒髪」だからまだ若い、多分女性であろう。それが「あるほどに」というから病弱なのだろうか。
 とすると、「水ゆるされぬ」は男が通ってくるでもない駕籠の鳥状態のことをいうのかもしれない。
 二十一句目。

   水ゆるされぬ黒髪ぞうき
 まだ雛をいたはる年のうつくしく  須竿

 これは言わずと知れた『源氏物語』の若紫。
 もっとも若紫の場合は「水ゆるされぬ」ではなく、髪を梳くのを嫌がっていて、長い髪の毛が扇を広げたようになっていた。それを源氏が切ってあげる場面がある。

 「いとらうたげなるかみどものすそ、はなやかにそぎわたして、うきもんのうへのはかまにかかれるほど、けざやかにみゆ。
 きみの御ぐしは、わがそがんとて、うたて、所せうもあるかな。いかにおひやらんとすらんと、そぎわづらひ給(たま)ふ。
 いとながき人も、ひたひがみはすこしみぢかくぞあめるを、むげにおくれたるすぢのなきや、あまり情なからんとて、そぎはてて、ちひろといはひきこえ給(たま)ふを、少納言、あはれにかたじけなしとみたてまつる。

 はかりなきちひろのそこのみるぶさの
  おひ行(ゆ)く末(すゑ)はわれのみぞみん

ときこえ給(たま)へば、

 ちひろともいかでかしらむさだめなく
  みちひる潮ののどけからぬに

と、ものにかきつけておはするさま、らうらうじき物(もの)から、わかうをかしきを、めでたしとおぼす。」

 (可愛らしい髪の先の方の毛をばっさりとそぎ落として、浮紋の礼装用の袴にはらりと落ち、鮮やかに広がります。
 「君の髪は私が梳く。」
とは言うものの、
 「それにしても凄いボリュームだ。
 どんな風に伸ばして整えればいいのやら。」
と梳ぎながら悩んでしまいます。
 「思いっきり長く伸ばしている人でも、前髪はやや短めに切ることが多いし、全部梳いて短く切りそろえてしまうのはいかにもダサいな。」
ということで、髪を梳き終わると、
 「千尋にながくなあれ。」
と呪文を唱えたので、少納言の乳母(今では乳母ではないが)はありがたいやら申し訳ないやらです。

 果てしない千尋の海の底のミル(海松)
     どこまで伸びて行くか俺は見る

と歌い上げると、

 千尋なんて深さかどうか知りません
     満ちたり引いたり潮は気まぐれ

と紙に書いてよこす様子がけなげなので、若くて可愛いというのはいいもんだなと思いました。)

 こういう名場面を思い出させてくれるのは、本説付けの一番の効用だ。
 二十二句目。

   まだ雛をいたはる年のうつくしく
 かかえし琴の膝やおもたき     芭蕉

 この場合の「琴」は七弦琴で膝に乗せて演奏する。源氏の君も得意としていた。
 膝に乗る幼い紫の上と膝に乗せる七弦琴の重さをつい較べてしまったのだろう。
 『源氏物語』から離れてはいないが、特に原作にはない場面なので良しとする。
 二十三句目。

   かかえし琴の膝やおもたき
 轉寐の夢さへうとき御所の中    須竿

 これは「邯鄲の夢」。須竿の本説はわかりやすい。「轉寐」は「うたたね」と読む。
 明智光秀の『天正十年愛宕百韻』五十八句目の、

   賢きは時を待ちつつ出づる世に
 心ありけり釣のいとなみ      光秀

の太公望ネタのように、いかにも覚えたての本説付けという感じだ。
 二十四句目。

   轉寐の夢さへうとき御所の中
 朴をかたる市の酒酔        等雲

 「朴」は「こはだ」と読む。コノシロの小さいのをそう呼ぶ。
 本当は「この城」のことを語りたいのだろう。自分がいつかお城に行って偉くなるんだと夢を語っても、どうせ「この城」まで行かないコハダ止まりだというわけで、ましてや御所なんぞ夢の夢だ。

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