今日はいい天気になったが気温はそれほど上がらなかった。
新たな感染者数が休日やその翌日でもないのに減っている所を見ると、どうやらピークアウトが見えてきたと言っていいのではないかと思う。
ただ、死者は増えていて、まだ病床に余裕がないのがわかる。今月何とか千人以内に抑えられれば初戦は勝利と言っていいだろう。感染爆発(オーバーシュート)なしに乗り切ったといっていい。
おそらくコロナは当初考えられていた以上に感染力が強く、発症率が低かったのではないかと思う。
それともう一つ、想像以上に体の中の働く細胞たちがいい仕事をしてくれたのではないかと思う。
日本はPCR検査数が極端に少ないということがしばしば問題になってきたが、ただそれでも感染爆発を防げたのは、発症し、ある程度重症化した者だけをPCR検査し、無症状や軽症患者を取りこぼしたとしても、それほど問題はなかったということではないかと思う。
それは体内の免疫系でしっかりと封じ込められていて、感染力がほとんどなかったということではないかと思う。
ただ、抗体検査をすると、そうした人たちは陽性反応をするし、日本でも欧米でも信じられないほどの高率で陽性反応が出る。
無症状の人は感染したことにすら気付かぬまま日常生活を続けてしまうし、軽症でもちょっと風邪引いたかなくらいで医者にも行かず治ったら、そのまま何の疑問もなく生活を続ける。
どんなにPCR検査の数を増やしても全員というわけには行かず、欧米でもかなりの取りこぼしがあったのだと思う。ただ、そうした人たちは感染の拡大にはほとんど関係がなかったのではないか。
ただ、コロナウイルスは消えたのではない。一度は終息したかのように見えても、感染症対策が緩めば再びゲリラ的にまだ感染してない人を相手にクラスターを起すと思うし、体の中でも何らかの原因で免疫系が弱まれば時限爆弾のように発症する可能性もある。油断は大敵だ。
日本は欧米や中国韓国で一ヶ月程度の間に起きたことを三ヶ月に引き伸ばしたようなもので、この引き伸ばしのおかげで医療崩壊を免れ、死亡率を低く抑えることに成功した。あと一ヶ月頑張れば、ある程度かつての日常が取り戻せるのではないかと思う。
ただ、出口戦略を誤って、あまり急激に経済を回復させようと欲張ると、コロナに付け入る隙を与えてしまう。
月を背に漁火遠い日本海
向こうの岸は霧に閉ざされ
それでは「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」の続き。
四句目。
月清き光によるは風見えて
夢おどろかす秋のかりふし 心敬
「かりふし」は仮伏しで仮寝のこと。仮の宿での旅寝で羇旅になる。
「風」に「おどろかす」は、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
藤原敏行朝臣(古今集)
で、歌てにはのように付いている。
雲のない澄んだ月の夜の野宿で、一陣の風が草木を動かし、ハッと目が覚め夢が破られる。
五句目。
夢おどろかす秋のかりふし
置き増る露や舎に更けぬらん 心敬
野宿から宿での旅寝に変り、その宿には夜も遅くなって気温が下がると露が降りる。当時は畳ではなく板床に御座か筵を敷くので露が降りやすい。
この場合の「や‥らん」は疑いで、露が降りてひんやりとしてくると、その寒さでハッと目が覚める。もう夜明けも近いのかと思う。
六句目。
置き増る露や舎に更けぬらん
虫のねよはき草のむら雨 心敬
草のむら(草叢)と村雨を掛けている。
雨が降ると虫もあまり鳴かなくなる。前句の「置き増る露」を雨のせいにする。
七句目。
虫のねよはき草のむら雨
萩がえの下葉のこらずくるる野に 心敬
金子金次郎注には「くるる」は「かるる」の間違いではないかという。
「暮る」には終わりになるという意味があり、夕暮れは昼間の終わり、秋の暮れは秋の終わり、年の暮れは年の終わりと考えればわかりやすい。だとすると萩が枝の暮るるも萩の枝が終るという意味になる。
実際には枯れるということだが、「くるる」だと「萩がえの下葉のこらず、暮る野に」と区切って読んで、「下葉は残らず枯れてしまい、日も暮れる野に」という取り成しが可能になる。
虫の音が弱るのは雨のせいだけでなく、萩の枝の下葉が枯れてしまったからだとする。
後の『湯山三吟』に、
露もはや置きわぶる庭の秋の暮
虫の音ほそし霜をまつころ 宗長
の句がある。
八句目。
萩がえの下葉のこらずくるる野に
行く人まれの岡ごえの道 心敬
前句の「くるる」を日の暮れるとすると、萩も咲いてなく夕暮れなので人がいない、という意味になる。
岡ごえは山越えのような旅路ではなく、生活空間の中の移動になる。『応安新式』では岡は非山類とされている。
どこか、後の俳諧の、
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
を髣髴させる。
芭蕉の同じ頃の、
此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉
の句と、
わが心誰にかたらん秋の空
荻に夕風雲に雁がね 心敬
の類似も偶然だろうか。
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