今日は晴れて暑かった。
東京ではまた少し感染者が増え始めているような気がする。神奈川もなかなか減らない。連休明けの緩みが出てきているのか。
彼岸花咲く土手はひんやり
監督の怒声も遠く秋の風
それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。
初裏。
九句目。
かへるか雲ののこる一むら
晴れくもる雨定めなき秋の空 銭阿
阿と付くから時宗の僧なのだろう。詳しいことはわからない。
秋の空は定めないとはいうが、晴れ、曇り、雨と並べ立てるのはいかにもくどい。
雲はなをさだめある世の時雨哉 心敬
の句は、この興行の少し前の吟か。
十句目。
晴れくもる雨定めなき秋の空
よわき日影ぞ露にやどれる 初阿
これも時宗の僧のようだが定かではない。
定めなき天候だから、雨が上がり薄日が射せば露もきらめくとする。
十一句目。
よわき日影ぞ露にやどれる
篠の葉に虫の音憑む野は枯れて 心敬
一巡して心敬に戻る。「篠」は「ささ」、「憑む」は「たのむ」と読む。
前句の「よわき日影」を野が枯れて晩秋の日が射したからだとする。こうした理詰めのとりなしは心敬の得意とする所で、「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」では多用されている。
心敬はよく「冷え寂びた境地」と言われることが多いが、理屈っぽさも心敬の特徴だ。
先の、
雲はなをさだめある世の時雨哉 心敬
の句も、「世は定めなき」ということを「雲は定めある」と逆説的に言っている。
草が枯れて日が差し込み隠れるところのなくなった虫たちは、常緑の笹の葉を頼りにする。倒置を解消して「野は枯れて篠の葉に虫の音憑む」とすればわかりやすい。
後の『水無瀬三吟』の七句目、
霜置く野原秋は暮れけり
鳴く虫の心ともなく草枯れて 宗祇
の句などと較べても、理屈っぽさが目立つ。死に瀕した虫たちの哀れさと共感は心敬の句には欠けている。
十二句目。
篠の葉に虫の音憑む野は枯れて
まくらおもはぬ夜半の松風 宗祇
虫の音は笹の葉を頼むが、愛しい人を待つこの枕には頼むものもなく松風が寂しげな音を立てる。
理に走る心敬に対し、宗祇は容赦なく心情に切り込んでゆく。
十三句目。
まくらおもはぬ夜半の松風
夢よなど人こそあらめいとふらん 修茂
言いたいことはわかるが、てにはが整理し切れてない感じの句だ。
意味は「夢よなどいとふらん、人こそあらめ」、つまりあの人が夢に出てきて欲しいのに何で夢はそれを拒むの、ということ。
前句の松風の心情を具体的に膨らませるのは、定石とも言えよう。
十四句目。
夢よなど人こそあらめいとふらん
かくても心猶やまたまし 満助
ここで出勝ちになったか、順番関係なく満助が登場する。
夢にすら出てこないあの人を恨んではみても、やはり心はあの人を待っている。
八代亜紀の「雨の慕情」の「憎い恋しい憎い恋しい/めぐりめぐって今は恋しい」(作詞:阿久悠)のような心情か。
十五句目。
かくても心猶やまたまし
このままに哀れといひて出し世に 宗悦
出家しても猶未練があるというふうに展開する。
十六句目。
このままに哀れといひて出し世に
雲にも跡は見えぬ山みち 覚阿
出家はしたものの、山籠りへの道は楽ではない。雲は煩悩を象徴し、山籠りを妨げる。
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