今日も暑かった。夕方に少し雨が降った。
制限をゆるめると感染者が増えるのは、当たり前といえば当たり前のことだ。他の国でも起きているようだし。
たとえ一国でコロナウイルスを消滅させたとしても、またどこかの国から入ってくる。全世界でコロナウイルスを撲滅できればそれが理想だが、それが出来ないとなると、できる限り緩やかに時間をかけて感染を広め、死者を最低限に食い止めながら集団免疫をめざすということになる。
どちらの選択をするにしてもすべきことは同じだ。とにかく爆発的に感染者が増加して医療崩壊する事だけは防がなくてはならない。
このどさくさに香港の一国二制度はほぼ消滅した。あとは独立(二国二制度)か併合(一国一制度)かの選択肢しかない。一国二制度を守るための戦いなら中国の内政上の問題だが、独立闘争なら独立を支持するという形で国際社会も関与できる。香港の人たちが覚悟を決めて独立政府を作るなら国際社会も動くことができる。
ところで安倍はやはり動かない。いまだに習近平の国賓来日に未練があるのか。そんなに日本を中国人のレジャーランドにしたいのか。いろいろ利権があるから引くに引けないのだろうけど。
ぱよちんも静かなもので、こういう時こそ500万ツイットをやってほしいんだが、やらねーだろうな。
監督の怒声も遠く秋の風
ゾンビ四五人世間話を
それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。
十七句目。
雲にも跡は見えぬ山みち
せはしなき柴の庵に年を経て 長敏
柴の庵というとあこがれのスローライフかと思いきや、何でもかんでも自分でやらなくてはいけないから、慣れぬうちは結構せわしない。いつになったら道が見えてくるのか。
十八句目。
せはしなき柴の庵に年を経て
時雨かなしき冬の暮がた 幾弘
幾弘は初めて登場するが、『心敬の生活と作品』には、「幾弘、栗原入道、千葉被官」で「暴走の千葉氏に仕えた武人作者」とある。
前句の「年を経て」を一年が終ろうとしてるという意味にして時雨を付ける。
十九句目。
時雨かなしき冬の暮がた
袖ぬれぬ月の旅ねもいかがせん 宗祇
袖を濡らさないような貴族や武家の仕事での移動などの旅であっても、時雨くる冬の暮れ方の悲しさには袖を濡らす。
二十句目。
袖ぬれぬ月の旅ねもいかがせん
かへる都ぞ秋をわするる 銭阿
前句の袖を濡らさない旅を、晴れて都へ帰れる旅だからだとする。心も浮かれて秋だということすら忘れる。
二十一句目。
かへる都ぞ秋をわするる
野を遠み手おりし草の花散て 心敬
前句の浮かれた雰囲気から一転して、都へのはるか長い道のりに、手折りし草の花も散ってしまい、旅立ったときが秋だったのもわすれる。
「野を遠み」は武蔵野のイメージが反映されていると思われる。
後世なら花の定座の位置だが、五句目に「桜花」が出ているし、ここでは「草の花」なので単なる偶然。
二十二句目。
野を遠み手おりし草の花散て
かはるやどりぞとふ人もなき 宗悦
前句の「手おりし草の花散て」を時間の経過とし、毎回違う宿に泊るので尋ねてくる人もいない、とする。
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