そろそろ連休効果の切れる頃だが、新規感染者数が増加に転じる兆候はない。本当に奇跡は起きたのだろうか。
木枯らし寒いレッカー作業
かわいそう日本のひとが叱られる
建設業界では移動式のクレーン車のことをレッカーと呼ぶが、世間一般ではレッカーというと車を牽引する車になってしまうようだ。「吊り上げ作業」とでもした方がよかったか。
それでは「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」の続き。
七十五句目。
霧ふる野里雲の山里
身を安くかくし置くべき方もなし 心敬
雲や霧で里は隠れるが、身は簡単に隠すことはできない。人の噂というのは止めることはできないからだ。
七十六句目。
身を安くかくし置くべき方もなし
治れとのみいのる君が代 心敬
これは応仁の乱で混乱するこの国を憂いての句。品川に逃れてもやはり国全体のことが気になって、落ち着いてもいられない。
七十七句目。
治れとのみいのる君が代
神の為道ある時やなびくらん 心敬
心敬は権大僧都(ごんのだいそうづ)で偉いお坊さんだが、国家に関しては北畠親房の『神皇正統記』以来の神国思想を持っていたようだ。本地垂迹、神仏習合の時代にあって、別に珍しいことではないが。
七十八句目。
神の為道ある時やなびくらん
風のまへなる草の末々 心敬
神国の理想は天皇が強権を持って民を支配することではないし、高慢な理想を示すことでもない。風が吹けば草が自然とひれ伏すように、無為にして治まるのを良しとする。
日本は神ながら言挙げせぬ国で、神道には教義も戒律もない。ただ自然をもって神となし、その力を畏れ身を慎むことを本意とする。
近代の哲学者西田幾多郎は、『御進講草案』で、
「我国の歴史に於ては全体が個人に対するのでもなく、個人が全体に対するのでもなく、個人と全体とが互に相否定して、皇室を中心として生々発展し来たと存じます。」
と言っている。
この西田にとって存在するというのは限定することで、限定は本来の無限なものを否定する事でもある。個人も全体もともに無限のものを反対の方向に否定しあうもので、個人と全体が相互に否定しあう根底には限定されないもの、それは存在するものではなく無と呼ばれる。
皇室はこの「無」あるいは「絶対無」と呼ばれるところに位置する。
いかなる個人によっても限定されることのない、いかなる思想や権力や国家体制によっても限定されることのない、限定されないが故に存在しない絶対無、それが日本人にとっての神であり皇室の場所なのである。
最近のガブリエル・マルクスの言う「多種多様な無数に存在する意味の場」というのは、西田哲学的には様々な限定された「場」だといえよう。図らずも西田も「場」という言葉を使う。
これに対し、すべての多様な意味の場を含む世界は「一つの世界」ではない。無なのである。
無は何も命じない。ただ一人一人の人間がその「無」を自分なりに解釈して限定する。そしてその一人一人が「無」のために行動する時、日本特有の「ソフトな独裁」が生まれる。これは独裁者なき独裁と言った方がいい。間違っても安倍は独裁者などではない。
コロナ対策でも誰も安倍に従うには、あまりに優柔不断で頼りなかった。ただ庶民の一人一人が自分のなすべきことを自分で判断しただけだった。
応仁の乱以降生じた戦国時代を終わらせたのも、皇室を含めた既存のあらゆる権威を否定して自らが神になろうとした織田信長ではなかった。権威の否定者はあくまで伝統的な秩序を守ろうとする明智光秀によって否定された。
そして最終的に、
日の道や葵かたむく五月雨 芭蕉
となった。日の道に葵も傾く。風によって草の末々もなびく。比喩は違うが同じことを言おうとしている。これが日本だ。
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