2020年5月9日土曜日

 今日は朝は晴れていたが次第に曇ってきた。
 家の近くの桜の木が伐採されて切り株だけになっていた。染井吉野の時代は終りつつある。次は何を植えるのだろうか。

   向こうの岸は霧に閉ざされ
 フレコンの黒きを見れば肌寒く

 それでは「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」の続き。

 初裏。
 九句目。

   行く人まれの岡ごえの道
 冬籠る梺の庵は閑にて       心敬

 岡の道が行く人稀なら、その岡の麓の庵も静かだ。
 十句目。

   冬籠る梺の庵は閑にて
 こほるばかりの水ぞすみぬる    心敬

 庵に棲むは縁語で水に「澄む」に掛ける。
 「澄む」は水だけでなく心まで澄んでゆくようだ。心敬のいわゆる「冷え寂びた」境地といえよう。
 十一句目。

   こほるばかりの水ぞすみぬる
 打ちしをれ朝川わたる旅の袖    心敬

 前句の凍るような澄んだ水を川の水とし、そこを徒歩で渡る旅人を付ける。
 十二句目。

   打ちしをれ朝川わたる旅の袖
 棹のしづくもかかる舟みち     心敬

 袖が打ちしをれるのを棹を雫がかかったせいとし、「朝川わたる」を船での渡りとする。
 十三句目。

   棹のしづくもかかる舟みち
 求めつつよるせもしらぬ中はうし  心敬

 舟に「寄る瀬も知らぬ」とし、心の遣る瀬なさの比喩とし、求めても報われない恋の憂鬱へと展開する。
 十四句目。

   求めつつよるせもしらぬ中はうし
 別れの駒は引きもかへさず     心敬

 「よるせもしらぬ」はそのまま「遣る瀬無い」という慣用句として舟から切り離すことが出来る。
 男は馬に乗って去っていった。
 十五句目。

   別れの駒は引きもかへさず
 移りゆく時をこよひの恨みにて   心敬

 前句の「駒は引きもかへさず」を時の流れの後戻りしないのの比喩とする。今宵の別れはもう引き返すことが出来ない。
 十六句目。

   移りゆく時をこよひの恨みにて
 契りにわたる有明の月       心敬

 前句の「移りゆく時」を長い二人の過ごした年月ではなく、宵から明け方までの時にする。
 契った人は来ずに、月だけが現れては西へ渡り、帰ってゆく。
 十七句目。

   契りにわたる有明の月
 世の中や風に上なる野べの露    心敬

 西に渡る月をこの世の無常とし、風の上の露を付ける。「世の中は風に上なる野べの露や」の倒置で、「や」は疑いつつ比喩として治定する。
 金子金次郎注は、

 うつりあへぬ花のちぐさに乱れつつ
   風のうへなる宮城野の露
            藤原定家(続後撰集)

を典拠として挙げている。

 十八句目。

   世の中や風に上なる野べの露
 迷ひうかるる雲きりの山      心敬

 この世は諸行無常、すべては儚い夢だとは言っても、この自分はそんな悟った気分にもなれず、いつも迷ったり浮かれたりしながら五里霧中で生きている。
 宗祇の連歌論書『宗祇初心抄』には、

 一、述懐連歌本意にそむく事、
   身はすてつうき世に誰か残るらん
   人はまだ捨ぬ此よを我出て
   老たる人のさぞうかるらむ
 か様の句にてあるべく候、(述懐の本意と申は、
   とどむべき人もなき世を捨かねて
   のがれぬる人もある世にわれ住て
   よそに見るにも老ぞかなしき
 かやうにあるべく候)歟、我身はやすく捨て、憂世に誰か残るらんと云たる心、驕慢の心にて候、更に述懐にあらず、(たとへば我が身老ずとも)老たる人を見て、憐む心あるべきを、さはなくて色々驕慢の事、本意をそむく述懐なり、

とある。この世は無情と知りつつも迷っているというのは術懐の基本ともいえよう。

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