今日は昨日よりも車も多く、人通りも増えたような気がする。早くも緊張感が薄れ始めたか。
どうやら日本は医療崩壊の前に政治崩壊が起きてしまったようだ。
一月にようやくコロナが知られるようになった頃、武漢で大変なことになっているという情報がある一方、日本の専門家たちは「コロナは風邪のようなもので春になれば自然と収まる」というコロナ安全神話を広めてしまった。
そこから右翼左翼問わず、一方にこれは日本も大変なことになると危機感を持つ人たちがいて、一方では放っておいても大丈夫と能天気な人たちがいた。
左翼系の能天気は安倍が安全なコロナなのに恐怖を煽って、コロナ対策に便乗して独裁者になろうとしていると危機感を煽り、右翼系の能天気は中国や欧米は恐怖に駆られて失敗したが日本は冷静に対応し、この調子で経済を犠牲にせずに乗り切れると確信している。
この二つの能天気が噛み合わない論戦を続けているうちに、どうにも訳のわからないことになってしまった。
とにかくコロナそっちのけの議論ばかりで、コロナ対策が一歩も進まない。
まあとにかく我々にできるのは「行かない」ことだけだ。店を開くのは勝手だが、行かないのは我々の自由だ。営業を続けてもどのみち感染者が出れば二週間は休業になるのだし、国民が行動を誤らなければ、政治がどんなに滅茶苦茶でも切り抜けられる。切り抜けなくてはならない。
知らず年賀の遠方の友
名を聞いて下の名前と付け加え
それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。挙句まで。
九十七句目。
手足をみればかよげなりけり
拍手打風呂の吹でと聞くよりも 兼載
ウィキペディアには、
「明治以前の日本には大勢の観衆が少数の人に拍手で反応するといった習慣はなく、雅楽、能(猿楽)、狂言、歌舞伎などの観客は拍手しなかった。」
とあるが、『能楽史事件簿』(岩波書店)によると、
「能の褒め役というのは、室町時代初期からあったのです。つまり、観世太夫が将軍の前で能をやるときには近江猿楽の日吉とか田楽の役者が必ず舞台の前に褒め役で座っているのです。しかるべき場所で手を叩いたり褒めたりする、そういう役目が昔から制度としてあったのです。」
というように、室町時代には拍手の習慣があり、将軍の前で能をやる時はサクラがいて拍手させてたようだ。
温泉が湧き出て拍手したというのであれば、前句の「かよげ」はむしろ何か力強い感じがする。
九十八句目。
拍手打風呂の吹でと聞くよりも
うしろむきてぞせをかがめける 兼載
これは前句の「風呂の吹で」を「風呂吹(ふろふ)き」に取り成す。
「風呂吹き」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 風呂にはいった者の体の垢をかくこと。また、その人。
※俳諧・野集(1650)二「あまりあつさにかがみこそすれ 風呂ふきのこころも夏はかなしくて」
② 輪切りにした大根やカブなどをゆでて熱いうちにたれ味噌をつけて食べる料理。《季・冬》
※俳諧・枯尾花(1694)下「夜半(なか)夜あるき母の気遣〈氷花〉 あたたかに風呂吹煮ゆる冬の月〈東潮〉」
とある。
手を叩いて風呂吹きを呼んで垢すりをしてもらう。そのために「うしろむきてぞせをかがめける」。
九十九句目。
うしろむきてぞせをかがめける
こかづしき流石に道をしりぬ覧 兼載
「こかづしき」は小喝食(こかっしき)か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 年若い喝食僧。禅寺で、食事を給仕することにたずさわった。
※足利本論語抄(16C)雍也第六「小喝食が茶碗を打破て云ことは」
② 能面の一つ。若い喝食をあらわす面。前髪がやや小さく、「東岸居士」「自然居士」「花月」などに用いる。→喝食。〔八帖花伝書(1573‐92)〕」
とある。
ところで「喝食」の所を見ると、「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「「かつじき」ともいう。禅寺で規則にのっとり食事する際、食事の種別や進行を唱えて衆僧に知らせること、またその役名。喝食行者(かっしきあんじゃ)ともいう。『勅修百丈清規(ちょくしゅうひゃくじょうしんぎ)』や『永平清規(えいへいしんぎ)』に記載があるが、後の日本の禅林では、7、8歳から12、13歳の小童が前髪を垂らし袴(はかま)を着けて勤めるのが一般の風習となった。室町時代には稚児(ちご)の別名となり、本来の職責と異なって、公家(くげ)や禅僧の若道(にゃくどう)の相手役となった。[石川力山]」
とある。つまり若い稚児さんのことで、道とは男色の道、後を向いて背をかがめるのが何のポーズなのかは言うまでもあるまい。
挙句。
こかづしき流石に道をしりぬ覧
寺もお里もおさまれるとき 兼載
お寺の若いお稚児さんですら仏道を心得ている。よってお寺も里も天下泰平と、目出度く一巻は終了する。
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