2020年4月23日木曜日

 今日は天気はよかったが午後ににわか雨が降った。昔だったら「ひと村雨」というところか。すぐに晴れてきて、新緑が眩しく輝く。
 まあ、頭の良い人というのはえてして、問題をどうしようもなく複雑にしてしまうもので、その挙句、いろいろ不満を政治にぶちまけているが、コロナの問題というのは本当は単純なもので、新たな感染者を減らしさえすれば、すべての問題はあーら不思議、魔法のように解決するという、そういうものではないかと思う。
 医者を増やすのには何年もかかるが、感染者の数は日々増え続けている。だから感染しても医者にかかれなくなるのは当たり前だ。誰が悪いのでもない。感染者を減らす以外に問題の解決はない。
 そもそも感染者が増えるから自粛が必要なので、感染者がいなくなれば自粛は必要ないから補償も必要ない。簡単なことだ。
 感染者がいなければマスクが不足することもないし、手洗いだって適当でいい。
 だから、コロナの問題は新たな感染者を減らすにはどうすればいいかと、それに尽きると思う。
 ゴールデンウィークはとにかくどこへも行くな。最低限必要な外出が何なのかは各自で考えれば良い。

   歩こう会の口は休まず
 七十年過ぎてから言う好きだった

 さて、旧暦の卯月に入るということで、卯月の俳諧をと探したところ、元禄三年刊珍碩(洒堂)編『ひさご』にありました。
 珍碩、乙州など近江膳所の連衆六人+主筆が集まり卯月の初めに興行したものと思われる。
 『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)に所収されているものを読んでいくことにする。

 発句。

 鐵砲の遠音に曇る卯月哉     野徑

 『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)の中村注に、「昔鉄砲の稽古は四月から始めたという。」とある。
 ネット上にあった『近世の武士における武芸の位置づけ』(工藤栄三)には、

 「武芸上覧は,鉄砲,弓鉄砲,小筒,大筒,弓の飛道具が多く,鎗と切合(剣術)がこれに続く。鉄砲類は,藩の軍団の演技であり,足軽鉄砲隊を主流とし,恒常的な稽古が行われていた。例えば安永三年(1774)の町触に
 「覚
  鉄炮星稽古金鉛・筒薬其外ともに年々召放之
  分被渡候処,御財用向甚御差支に付今年より…」
とみられるのは,鉄砲の的打ち稽古の為,鉛・筒薬その他を召放つ分だけ充分に与えていたが,財政上差しつかえるので今年よりその数量を減らす,との布告である。翌安永四年(1775)の町触では
 「例年鉄炮四月朔日より明置候処,今年格別吟味之訳有之,来月十五日より星稽古可致候」
 鉄砲稽古は,春先四月一日から例年恒常的に七月十五日迄稽古していたものである。それを一ケ月半おくらせて,その分の財政を浮かそうとしたもので,藩が毎年直接この軍団の稽古に関わっていたことを示す。」

とある。
 足軽の鉄砲隊の演習が行われたなら、さぞかしパンパンと景気よく大きな音を立てていたことだろう。
 その音は遠くなると高周波成分がカットされ、低い曇った音になり、折からの四月の曇り空にどんよりと響いていたのだろう。
 「卯月曇(うづきくもり)」という言葉もあり、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「卯の花曇とも。陰暦4月,陽暦ならほぼ5月のころの変わりやすい天候。これがもう一まわり悪天となると卯の花くたしが降る。」

とある。
 野徑は近江膳所の人。
 脇。

   鐵砲の遠音に曇る卯月哉
 砂の小麥の痩てはらはら     里東

 鉄砲の演習は砂浜で行われることが多かったのだろう。近くには麦畑があるが、そこも砂地で麦は痩せている。
 第三。

   砂の小麥の痩てはらはら
 西風にますほの小貝拾はせて   泥土

 「ますほの小貝」というと西行法師が敦賀の種(いろ)の浜で詠んだという、

 汐そむるますほの小貝拾ふとて
   色の浜とはいふにやあるらむ
              西行法師

の歌が知られている。芭蕉も『奥の細道』の旅で訪れている。
 ますほの小貝の生物種としての名前はよくわからない。
 ここでは「ますほ(増す穂)」に掛けて小麦を導き出す、連歌で言う「掛けてには」が用いられている。
 小貝にはらはらと落ちた麦の穂が混ざるというのは、

 浪の間や小貝にまじる萩の塵   芭蕉

の句を意識して、萩を麦に変えたか。

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