今日は朝からいい天気だった。
一度買い物には出たが、公園なんかも結構人が多かった。
尺八習う和風ゴシック
時節柄ユーチューバーを目指そうか
それでは「傘に」の巻の続き。
十三句目。
おこしかねたる道心の沙汰
金払ひ名月までは延られず 凉葉
月は「真如の月」という言葉もあるように、道心に一点の迷いもないと言いたい所だが、それまでに遅滞した借金を返さなくてはならないから、出家の沙汰はそれまで待って、ということになる。
七月十五日に決済の所を一月猶予してもらったのだろう。
十四句目。
金払ひ名月までは延られず
のぼり日和の浦の秋雁 曾良
前句を商売人の位として、都まで船で商品を運びそれを売って借金を返そうとする。
「浦の秋雁」は港の景色と見ても良いし、これから都へ上る自分の比喩としても良い。
十五句目。
のぼり日和の浦の秋雁
秋もはや升ではかりし唐がらし 芭蕉
京へ上る商人を唐辛子売りとした。江戸の薬研掘の七味唐辛子は寛永のころの創業で、唐辛子売りは江戸の名物となった。新藤兼人監督の『北斎漫画』でも緒形拳扮する葛飾北斎が「とんとんとん、とんがらし」とうたいながら唐辛子を売る場面があった。
京都では明暦の頃、清水寺の門前で唐辛子が用いられるようになったという。
十六句目。
秋もはや升ではかりし唐がらし
清涕たらす子の髪結てやる 宗波
「清涕」は百度百科に「透明而稀薄的鼻腔分泌液,即水样鼻涕。」とある。鼻水のことで、ここでは「清涕(はな)たらす」と読む。昔は青っ洟(ぱな)を垂らす子が多かった。ティッシュのなかった時代は袖で拭いたりしてそでがカピカピになったりした。「はなたれ小僧」という言葉にその名残がある。
そのはなたれ小僧というと江戸時代では芥子坊主だが、成長してようやく髪を結うまでになったのだろう。芥子坊主が唐辛子頭になった。
十七句目。
清涕たらす子の髪結てやる
在所から半道出れば花咲て 利牛
「在所」は近代では被差別部落の意味で用いられるが、江戸時代は普通に田舎の集落の意味で用いられていたようだ。
コトバンクの「世界大百科事典内の在所の言及」に、
「江戸時代以降,都を離れたいなかを意味するようになるが,さかのぼって《塵芥集》の〈在所〉は門・垣をめぐらし,竹木で囲まれた家・屋敷でアジール的機能をもつと解しうるので,中世の所についても,同様の性格を備える場合が少なからずあったと見てよかろう。」【網野 善彦】
とあり、門や垣によって閉ざされた集落のイメージがあったのだろう。
「梅が香に」の巻の六句目に、
宵の内ばらばらとせし月の雲
藪越はなすあきのさびしき 野坡
の句の江戸後期の注釈、『俳諧古集之弁』に、
「在所の気やすきさまならん。夜も又静になりけらし。」
とあり、藪によって仕切られたというイメージがある。
「在所」という言葉に単なる集落ではなく、閉ざされた一角というイメージがあったあたりに、後に被差別民部落の意味に転用されるもとがあったのだろう。
この句でも在所の中に桜の木があるわけでなく、そこから出てちょっと行った所に桜の木がある。そこへ行くために普段髪を結わない子供の髪を結っているのだろう。
十八句目。
在所から半道出れば花咲て
瓢の煤をはらふ麻種 濁子
桜の咲く頃は麻の種まきの時期でもある。納屋で煤をかぶっていた瓢(ひさご)の煤を払い、種を撒いたら水をやる。
成長すると麻は二メートルを越える高さになるから、
つかみ逢ふ子どものたけや麦畠 去来
に対し「凡兆曰く、是麦畠は麻ばたけともふらん」(去来抄)というのは無理がある。
0 件のコメント:
コメントを投稿