今日は晴れたが北風が強かった。北風のせいか、まだ桜はそんなに散ってはいない。夕暮れには半月が見えた。
安倍も麻生もあいかわらず五月終息説を前提にしてるのか、経済対策といっても、コロナが去った後の復興政策しか考えてないようだ。コロナが一年二年と長期化した際の、大量に生じると思われる失業対策とか遺族の救済とか、そういうのは聞こえてこない。
まあ、日本は強力な指導者を必要としない国だし、政治家が脳内お花畑でも賢明な国民が結局何とかしちゃうんじゃないかな。
政府が緊急事態宣言を出さなくても、国民一人一人が自分自身に緊急事態宣言を出せば、むしろそっちの方が効果絶大だったりする。
秋薔薇のようやく揃う作業小屋
思えば辛いSEの頃
それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。
五十七句目。
ねぶればやがてまなこあきけり
とく法を思へばやすき物なれや 兼載
前句を「開眼」のこととしたか。
悟りを開くことを開眼(かいげん)というが、ただ目を明けるだけなら眠ってて目を覚ますときに誰でもやっている。
五十八句目。
とく法を思へばやすき物なれや
出家をみればおなじ耳鼻 兼載
仏法の理解には差があるが、どの出家僧も顔で区別することはできない。
五十九句目。
出家をみればおなじ耳鼻
かくせどもむすこや隠れなかるらん 兼載
その出家僧には隠し子がいて、隠し子というとおり自分の子ではないと言い張っているが、耳や鼻を見ればそっくりで隠しようがない。
六十句目。
かくせどもむすこや隠れなかるらん
つぼねの角になく声ぞする 兼載
「つぼね(局)」はウィキペディアに「宮殿における女官・女房などの私室として仕切られた部屋のこと」とある。
公家と女房の間の隠し子だろうか、つぼねの隅で赤子のなく声がする。
六十一句目。
つぼねの角になく声ぞする
うがの神びんぼう神にあてられて 兼載
「うがの神」は宇賀神で蛇の姿で描かれることが多いが弁才天とも習合し、女性の姿をとることもある。穀霊神・福徳神で人に福をもたらす神だが、貧乏神に毒されれば部屋の隅っこで泣くことになる。
六十二句目。
うがの神びんぼう神にあてられて
かたのうへよりかるくなりけり 兼載
ウィキペディアに、
「竹生島宝厳寺に坐する弁天像のように、宇賀神はしばしば弁才天の頭頂部に小さく乗る。その際、鳥居が添えられることも多い。」
とある。竹生島宝厳寺の弁天像は1565年浅井久政奉納で、この俳諧百韻よりも半世紀以上も後だが、兼載の時代にもこういう像があったのかもしれない。
頭の上に載った宇賀神がいなくなれば、確かに肩の上が軽くなる。
六十三句目。
かたのうへよりかるくなりけり
打太刀に甲をぬいで持せつつ 兼載
「打太刀(うちだち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 実戦用の太刀。打ち物の太刀。
※浄瑠璃・栬狩剣本地(1714)一「赤銅作(しゃくどうづくり)の打太刀」
② 剣道で、腕前が上の人に打ちかかって練習すること。また、その打ちかかっていく人。太刀打ち。〔日葡辞書(1603‐04)〕
③ 攻め込む立場になること。
※内地雑居未来之夢(1886)〈坪内逍遙〉九「総て Defensive 〔受太刀〕と Offensive 〔打太刀(ウチダチ)〕とは、大して其便宜が違うもので」
とある。この場合は②の「打ちかかっていく人」だろうか。
剣の練習が終って、打たれ役(仕太刀)が甲を脱いで打太刀に持たせると、頭が軽くなる。
六十四句目。
打太刀に甲をぬいで持せつつ
降参に来る敵ぞめでたき 兼載
投降する敵将は甲を脱いで従者に持たせる。
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