ついに家の近所のコープからも感染者が出た。コロナは確実にひたひたと背後に忍び寄ってきている。這い寄るコロナ。
コロナ安全神話の論拠の一つに、インフルエンザや自殺者や交通事故死に較べて死者が少ないというのがある。
ただ、これはあくまで今の時点での話で、これから先どこまで死者の数が増えるか予想つかないから恐い。
インフルエンザや自殺者や交通事故死の数は毎年多少の変動はあっても安定していて、極端に増えることはない。いわば想定内の死だ。これに対し想定外の死に関しては人はどんなに人数が少なくても恐怖を感じる。自動車事故よりも飛行機事故を恐がったり、インフルエンザで死ぬよりも通り魔に刺されることを恐れる。
鰒で死ぬことは恐れても、餅で死ぬことはあまり恐れないが、鰒よりも餅で死ぬ人のほうが多い。
単純に数の比較という意味では、森友事件の死者は2人。それでも野党はコロナを差し置いてでも森友事件を追及している。決してインフルエンザより少ないとは言わない。
コロナは想定外であるとともに、数もこれからどこまで膨れ上がるかわからない。前にも計算したが、日本の人口は1億2595万人。この6割が感染したなら7557万人になる。致死率が1パーセントとしても75万人は死ぬことになる。イタリアのように医療崩壊で8パーセントということになったら、6百万人が死ぬことになる。
また、それを食い止めるためのコストも問題だ。インフルエンザはそれほど特別な対策を立てなくても、大体一定の数の死者で収まる。これに対しコロナの死者の拡大を食い止めるには莫大なコストがかかる。
与党も野党もこのコストをあまりにも軽く見ている。今の生活を守りながらコロナと戦いたいという気持ちはわかるが、それで本当に防げるかどうか、もうすぐ答が出るだろう。
名を聞いて下の名前と付け加え
月の宴の門も開いて
さて、コロナのこともあるし、ひょっとしたら人生既に残り少ないかもしれない。だからといってこの時勢で旅に出るわけにもいかないから、せめては俳諧を読み続けることにしよう。
春の今時分のということで、先月は「水音や」の巻を読み、以前「八九間」の巻を読んでいるが、それと同時期、元禄七年春の、
両吟
五人ぶち取てしだるる柳かな 野坡
日より日よりに雪解の音 芭蕉
の巻を読んでみようと思う、発句と脇については既に「芭蕉脇集」の時に読んでいるので、2019年11月15日金曜日の鈴呂屋俳話を参照してください。
第三。
日より日よりに雪解の音
猿曳の月を力に山越て 芭蕉
「月を力に」は月を頼りにという意味もあるし、月に励まされながらという意味にもなる。『去来抄』「同門評」に、去来の直した、
夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋 風国
の句がある。
猿曳、猿回しの芸人は被差別民で、近代でも周防猿回しの会の創始者村崎義正は全国部落解放運動連合会の山口県副委員長でもあった。
猿曳は正月の風物でもあるが、都会から田舎へと回って行くうちに時も経過し、いつの間にか小正月の頃になり、月も満月になる。
山里は万歳遅し梅の花 芭蕉
という元禄四年の句もある。
あまり正月も遅くなってもいけないということで、夜の内に月を頼りに移動してゆく。雪解けの頃で、山道には所々雪も残っていたのだろう。
四句目。
猿曳の月を力に山越て
そこらをかける雉子の勢ひ 野坡
ウィキペディアによると雉は、
「飛ぶのは苦手だが、走るのは速い。スピードガン測定では時速32キロメートルを記録した。」
という。
猿曳きのゆっくりとした歩みにすばやく走り回る雉とを対比させた向かえ付けともいえよう。
五句目。
そこらをかける雉子の勢ひ
暖ふなりてもあけぬ北の窓 野坡
前句を家の裏側(北側)の風景とし、そこには暖かくなっても閉ざされたままの北の明かり取りの窓が見える。
年寄りなのか無精なのか、あまり動きたくない人なのだろう。そんな人だから、雉も恐れず長閑に遊んでいる。
六句目。
暖ふなりてもあけぬ北の窓
徳利匂ふ酢を買にゆく 芭蕉
徳利下げて買いに行くといっても、酒ではなくお酢だった。健康的な生活で長生きしているのだろう。
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