2021年2月27日土曜日

 今日は旧暦だと一月十六日。満月も心なしか霞んでるように見えるがやはり寒い。
 それでも昼間は雪柳が咲き始めているのを見た。

 それでは「三冊子」の続き。

 「第三は師の曰、大付にても轉じて長高くすべしとなり。或書に、留りの事、むかし沙汰なし。宗祇よりの格式也。常用る通りなり。疑の切字のほ句は、第三はね字にとめずと古來云り。うたがひの句二句去故也。覧はうたがひのはね字なり。句中に押へ字あり。〽や〽か〽いつ〽何などの類也。又句によりて押字なくてはねるあり。一字はね也。をらん、ちらんの類也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.96)

 「大付(おおつけ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「② 俳諧でおおまかな付け句の仕方。
  ※俳諧・三冊子(1702)白双紙「第三は、師の云く『大付にても、転じて長(たけ)高くすべし』と也」

とある。
 興行の際、発句は事前に主人に渡されていて、脇までは興行開始時に既に用意されている場合も多い。第三からは即興で付けるとなると、最初にあまり時間を費やしたくないのであまり細かく趣向を凝らしたりせず、大付けでもかまわないとされていた。ただ、発句の情を去り、「転ずる」ということは大事だった。
 第三というと、「て」留か「らん」留になることが多いが、式目で決まっているわけではない。ただ、て留らん留は宗祇の時代より古くから習慣化していた。脇の時にも引用した宗砌の時代の『千句連歌集 二』(古典文庫 405、一九八〇)の三千句を見ても、

 文安月千句 第一 発句「哉」脇「秋風」第三「て」
       第二 発句「哉」脇「雲井路」第三「て」
       第三 発句「月」脇「露」第三「て」
       第四 発句「かな」脇「明仄」第三「にて」
       第五 発句「清し」脇「漣」第三「て」
       第六 発句「都鳥」脇「友」第三「て」
       第七 発句「哉」脇「頃」第三「て」
       第八 発句「顔」脇「枕香」第三「て」
       第九 発句「秋」脇「大空」第三「て」
       第十 発句「哉」脇「て」第三「らん」
 文安雪千句 第一 発句「深雪」脇「ころ」第三「て」
       第二 発句「かせ」脇「こほれる」第三「て」
       第三 発句「雪」脇「ころ」第三「らん」
       第四 発句「かな」脇「て」第三「らん」
       第五 発句「雪」脇「空」第三「にて」
       第六 発句「雪」脇「らん」第三「て」
       第七 発句「山」脇「たふる」第三「て」
       第八 発句「はな」脇「竹」第三「て」
       第九 発句「なし」脇「しく」第三「て」
       第十 発句「哉」脇「かさなる」第三「にて」
 顕証院会千句第一 発句「柏」脇「声」第三「て」
       第二 発句「松」脇「葉かくれ」第三「て」
       第三 発句「枝」脇「霧」第三「て」
       第四 発句「哉」脇「露」第三「て」
       第五 発句「薄」脇「来る」第三「て」
       第六 発句「かな」脇「ころ」第三「らん」
       第七 発句「草」脇「秋風」第三「て」
       第八 発句「朝ねかみ」脇「秋」第三「に」
       第九 発句「秋」脇「覧」第三「て」
       第十 発句「哉」脇「本」第三「て」

 三十句中二十五句が「て」四句が「らん」一句が「に」で留まっている。
 ちなみに宗因判『大阪独吟集』十百韻は「らん、て、らん、て、て、て、らん、て、て、て」松意編『談林十百韻』は「て、て、し、らん、らん、に、らん、て、て、て」で「らん」が三割を占めている。
 本来第三はあまり迷わずに付けた方がいいので、判で押したようにて留にする傾向にあったのだろう。それ以外のはあえて変化を求めた結果ではないかと思う。
 「うたがひの句二句去」も式目ではない。確かに『千句連歌集 二』のて留四句は皆発句に治定の「かな」が用いられている。ただ、宗因判『大阪独吟集』の最初の幾音の独吟は、

 去年といはんこといとやいはん丑のとし
   庄屋のそののうぐひすの聲
 青柳も殿にやこしをかがむらん

で発句に疑いの言葉がある。

 「哉留りのほ句の第三にて留メせずとむかしより云り。是治定の哉にせずと也。花のさかり哉、月の光哉の類也。盛リにて、ひかりにてといふにかよふ也。先師のいはく、にてになるに留メくるしからず。にて留は嫌ふべしとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.96)

 これのいう昔は宗砌や宗祇の昔ではなく紹巴の時代の昔ではないかと思う。紹巴の『連理秘曲抄』に、

 「一 発句かな留、にて かよひらる句の事
     梅遠く香を遣る水の流れかな
     水浅く根深芹の野沢哉
  右の発句、ながれ哉、野沢哉、治
  定したる句也。か様の句の類にては、
  第三にて留せぬ物也。又、発句
  のがらにより、たぐひ哉とも御入候はゞ、
  にて御座候故也。能々吟味して、第
  三の事肝要也。」

とある。『千句連歌集 二』のて留のうち三句が「にて」だが、そのうち二句の発句が「哉」で留まっている。跡一句は「か」という切れ字が用いられているが「か」は「哉」に適う。
 芭蕉は「にて」になるところを「に」迄で留めるのはいいが、「にて」で留めるのを嫌うという。
 芭蕉同座でにて留の第三は、貞享二年の、

 おもひ立木曾や四月のさくら狩  はせを
   京の杖つく岨の夏麦     東藤
 牛の子の乳をのむ日かげ閑にて  桂楫

 元禄三年「木の本に」の巻の、

 木の本に汁も膾も桜哉      はせを
   明日来る人はくやしがる春  風麦
 蝶蜂を愛する程の情にて     良品

 同じく元禄三年冬の、

 ひき起す霜の薄や朝の門     丈草
   柿の落葉をさがす焚付    支考
 月にまつ狸の糞をしるしにて   芭蕉

 元禄七年正月の、

 年たつや家中の礼は星月夜    其角
   筆紅梅をたたむ国紙     介我
 春も雪茶通の手前ゆたかにて   岩翁

 同五月の、

 世は旅に代かく小田の行戻リ   芭蕉
   水鶏の道にわたすこば板   荷兮
 草むしろ煙草を廻す斗にて    巴丈

の五例がある。このうち「木の本に」の巻が「哉・にて」で、あとは「や・にて」が三例、最後のは「に」で切れている。「にて」留自体の頻度が低く、避ける傾向にはあったのだろう。とはいえ厳密なものではなかったと思われる。

 「文字留、手爾葉留、自然にあり。古法口傳有事也。一説、古書にあるは、脇の句韵字留リゆへ、懐紙に文字留リならばざるやうに留也。若、脇、手爾葉にて留メば第三文字留にて留るとも云り。かくの事は達人に有。常の留をよしとす。是此道の習也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.96~97)

 韵字のことは、

 「一、韻字事
 物の名と(朝夕の字同之、他准之)詞の字と是を不可嫌、物の名と物の名打越を可嫌、詞の字つつ、けり、かな、らん、して如此類、打越可嫌之、他准之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.298)

と式目にあるが、『連歌新式古注集』(木藤才蔵編、一九八八、古典文庫)の「連歌新式永禄十二年注」に、

 「韻の字といふは、上句下句のとまりの字也。詩にはすこしかはりたり。連歌には、手尓於葉の字をも、韻の字といへり。又、歌に韻をふみてよめる時は詩におなじ。定家卿の歌に、繊の字にてよめる、
 面影のひかふる方にかへりみる都の山は月ほそくして
 してといふは、てにをはなればなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.10)

とある。
 たとえば、水無瀬三吟の表八句、

 雪ながら山もと霞む夕べかな   宗祇
   行く水遠く梅匂う里     肖柏
 川風にひとむら柳春みえて    宗長
   船さす音もしるき明け方   宗祇
 月やなほ霧渡る夜に残るらん   肖柏
   霜置く野原秋は暮れけり   宗長
 鳴く虫の心ともなく草枯れて   宗祇
   垣根をとへばあらはなる道  肖柏

の場合だと、「かな」「里」「て」「方」「らん」「けり」「て」「道」が韻字になる。打越、つまり「かな」「て」、「里」「方」、「て」「らん」、「方」「けり」、「らん」「道」など、同じ音の重複がなければ良しとする。
 「若、脇、手爾葉にて留メば第三文字留にて留るとも云り」というのも、第三の体言止めは見たことがない。「常の留をよしとす。是此道の習也。」つまり普通にみんながやっているように留めればいいと、これに尽きる。

 「第三は轉ずるを事とすれども、脇の句によるべし。違付取なし付等の句の時は、第三にて轉ずるにおよばざる事なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97)

 これも違付取なし付等の脇は滅多にないので、あまり意味はない。

 「ほ句、戀、神祇等のものにて、脇是に應ずる時、第三に至り必是を轉じ、はなれてすべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97)

 これも第三は転じるものと覚えておけば、自然にそうなる。

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