東京のコロナの新規感染者数が500人どころか400人を切った。まあ、月曜はいつも少ないから今日は500人を切ると予想したのだが。
死者の方は今がピークだろう。今週中には6000人越えるだろうな。
それでは「あら何共なや」の巻の続き。
三裏。
六十五句目。
森の朝影狐ではないか
二柱弥右衛門と見えて立かくれ 信章
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『野宮(ののみや)』の、
「夕暮の秋の風。森の木の間の夕月夜。影かすかなる木の下の。黒木の。鳥居の二柱に立ちかくれて失せにけり跡たちかくれ失せにけり。」
を引用している。伊勢斎宮の精進屋とされた野の宮に『源氏物語』の六条御息所の霊の現れる物語だ。
句の方は言葉だけ用いて朝の神社に弥右衛門が現れたのを狐ではないかとする。
『校本芭蕉全集 第三巻』の注には大蔵弥右衛門のこととする。狂言の大蔵流はウィキペディアに、
「大藏流の歴史は、流祖玄恵法印(1269-1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く。
猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える能楽狂言最古の流派で、代々金春座で狂言を務めた。大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。
江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大藏彌右衛門家。分家に大藏八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大藏彌太夫家、大藏彌惣右衛門家があった。」
とある。
六十六句目。
二柱弥右衛門と見えて立かくれ
三笠の山をひつかぶりつつ 信徳
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、謡曲『春日龍神』の、
「月に立つ影も鳥居の二柱御社の誓いも気色かな
御社の誓いもさぞな四所の。神の代よりの末うけて。澄める水屋の御影まで塵に交わる神心。三笠の森の松風も。枝を鳴らさぬ気色かな枝を鳴らさぬ気色かな」
を引いている。三笠山は春日神社だから鳥居はあってもおかしくはない。
春日神社には拝殿がなく、三笠山自体が御神体だという。鳥居をくぐる弥右衛門の上に三笠山が見えれば、あたかも三笠山を被ったかのように見えるが、句自体は巨大な山を頭に被るというシュールな印象を与える。
六十七句目。
三笠の山をひつかぶりつつ
萬代の古着かはうとよばふなる 桃青
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、『和漢朗詠集』の、
萬代と三笠の山ぞよばふなる
あめがしたこそたのしかるらむ
の歌を引用している。当時新品の着物はオーダーメイドで高価だったため、庶民は古着屋を利用するのが普通だったっという。
六十八句目。
萬代の古着かはうとよばふなる
質のながれの天の羽衣 信章
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『呉服(くれは)』とある。応神天皇の時代に摂津住吉で御衣を織ったという呉織(くれはとり)漢織(あやはとり)を尋ねてゆく話で、そこで「君が代は天の羽衣まれにきて。撫づとも盡きぬ巌ならなん。」とある。「拾遺集」よみ人しらずの和歌。
神代にも近い時代ということで「萬代の古着」を「天の羽衣」とする。
六十九句目。
質のながれの天の羽衣
田子の浦浪打よせて負博奕 信徳
『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『富士山』を引く。謡曲『羽衣』でもいい。
三保の松原の有名な羽衣伝説で、天の羽衣を拾った漁師が田子の裏で博奕に負けて、それが後に質に流れたとする。
謡曲でも白竜という漁師は家の宝にしようと持ち帰ろうとする。天女の羽衣だといわれても、今度は国の宝にと持ち帰ろうとする。それがなければ天に帰れないといわれても、かえって増長して隠して持ち帰る。
七十句目。
田子の浦浪打よせて負博奕
不首尾でかへる蜑の釣舟 桃青
博奕に負けて海人は帰って行く。『校本芭蕉全集 第三巻』の注が引用する、
さして行く方は湊の浪高み
うらみて帰る蜑の釣舟
よみ人しらず(新古今集)
は證歌になる。
七十一句目。
不首尾でかへる蜑の釣舟
前は海入日をあらふうしろ疵 信章
「入日をあらふ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、
なごの海のかすみのまよりながむれば
入日をあらふ沖つ白波
藤原実定(新古今集)
を引く。ここでは入日(の頃)にうしろ疵を洗う、になる。
「うしろ疵」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 身の後部に受けた傷。特に、逃げるときに後ろから切られた逃げ傷。これを恥とした武士の倫理感を受け継いで、一般に卑怯(ひきょう)な、不名誉なものとされた。⇔向こう傷。
※浄瑠璃・曾我扇八景(1711頃)十番斬「手おひぶりはあっぱれ見事、見ごとなれ共うしろきづ、にげきづなりとぞ」
とある。仇を討とうとして返り討ちにあったのだろう。沈む夕日が哀愁を誘う。
七十二句目。
前は海入日をあらふうしろ疵
松が根まくら石の綿とる 信徳
石綿はここではアスベストではなく「ほこりたけ(埃茸)」の異名だという。ウィキペディアに、
「漢方では「馬勃(ばぼつ)」の名で呼ばれ、完熟して内部組織が粉状となったものを採取し、付着している土砂や落ち葉などを除去し、よく乾燥したものを用いる。咽頭炎、扁桃腺炎、鼻血、消化管の出血、咳などに薬効があるとされ、また抗癌作用もあるといわれる[6]。西洋でも、民間薬として止血に用いられたという。
ホコリタケ(および、いくつかの類似種)は、江戸時代の日本でも薬用として用いられたが、生薬名としては漢名の「馬勃」がそのまま当てられており、薬用としての用途も中国から伝えられたものではないかと推察される。ただし、日本国内の多くの地方で、中国から伝来した知識としてではなく独自の経験則に基づいて、止血用などに用いられていたのも確かであろうと考えられている。」
とある。松の根を枕にして休み、怪我したからホコリタケで血を止める。
謡曲『葛城』に、「袖の朝霜起臥の、岩根の枕松が根の」とある。
七十三句目。
松が根まくら石の綿とる
つづれとや仙女の夜なべ散紅葉 桃青
「つづる」は縫い合わせること。
前句を「松が根枕」という枕の種類として、綿の代わりに石が入っていて、仙女が夜なべして落葉を縫い合わせて作る。
七十四句目。
つづれとや仙女の夜なべ散紅葉
瓦灯の煙に俤の月 信章
「瓦灯(かとう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「がとう」とも)
① 灯火をともす陶製の道具。方形で上がせまく下が広がっている。〔文明本節用集(室町中)〕
※俳諧・毛吹草(1638)五「川岸の洞は蛍の瓦燈(クハトウ)哉〈重頼〉」
② 「かとうぐち(火灯口)①」の略。
※歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)四「見附の鏡戸くゎとう赤壁残らず毀(こぼ)ち、込入たる体にて」
③ 「かとうびたい(火灯額)」の略。
※浮世草子・好色一代女(1686)四「額際を火塔(クハタウ)に取て置墨こく、きどく頭巾より目斗あらはし」
④ 「かとうまど(火灯窓)」の略。
※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「つづれとや仙女の夜なべ散紅葉〈芭蕉〉 瓦灯(クハトウ)の煙に俤の月〈信章〉」
とある。
④だとするのは『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「漢の武帝が反魂香を焚いて」とあり、、ウィキペディアに、
「もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという。」
とある。白居易の『李夫人詩』には
又令方土合霊薬 玉釜煎錬金爐焚
九華帳深夜悄悄 反魂香反夫人魂
夫人之魂在何許 香煙引到焚香処
とあるから、この故事を付けたというのだろう。
ただ、これだと前句との関連がよくわからない。①の意味だと紅葉散る季節に仙女が夜なべして繕い物をし、瓦灯が煙に霞んで月のように見える、となる。
七十五句目。
瓦灯の煙に俤の月
我恋を鼠のひきしあしたの秋 信徳
「あしたの秋」は秋の朝。後朝(きぬぎぬ)だけど鼠も逃げてゆく貧しさで、瓦灯の煙に去っていった人の俤の月を見る。
七十六句目。
我恋を鼠のひきしあしたの秋
涙じみたるつぎ切の露 桃青
「つぎ切(ぎれ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「つぎきれ」とも) 着物などのつぎに使う小ぎれ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※浄瑠璃・心中天の網島(1720)中「有りたけこたけ引出しても、つぎぎれ一尺あらばこそ」
つぎ切で涙の露をぬぐう。
七十七句目。
涙じみたるつぎ切の露
衣装絵の姿うごかす花の風 信章
「衣装絵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「押絵のこと」とある。エキサイト辞書には、
「押絵. 布細工の一種で,人物や花鳥の形を厚紙でつくり,裂(きれ)を押しつけて張り,その間に綿を入れて高低を ... そのほか手箱のふたや壁かけ,絵馬などにも用いられ,江戸時代には家庭婦人の手芸の一つとしておこなわれた。 ... 諸(もろもろ)の織物をもて,ゑを切抜(きりぬき),これをつくる〉とあり,衣装人形とか衣装絵とも呼ばれていたが,江戸時代中期には押絵と呼ばれるようになった。」
とある。
衣装絵を縫うときの情景。風が花を散らし、それに何か悲しいことを重ね合わせたかつぎ切で涙をぬぐう。
七十八句目。
衣装絵の姿うごかす花の風
匂ひをかくる願主しら藤 信徳
前句の衣装絵を願掛けの絵馬とする。願主は「しら藤」、源氏名だろうか。
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