2021年2月22日月曜日

 今日も晴れて暖かかった。
 今日は猫の日だが、猫のいる家は毎日が猫の日なので、今日は猫の日の中の猫の日。
 それでは「三冊子」の続き。

 「句合判の事、衆義判と云は、連中の打寄詮儀批判するを云也。蛙合は衆義判の格也。故に判者もしかとなし。ほん判といふ時は、判者奥に跋にても又序にて書なり。句引までも付る也。哥に哥合有、即座の判、兼而の判もあり。即座の判は左右に文臺を立て判者あり。難陳あつて判者是を聞、それにもかゝはらず判を書也。巻頭は多くは持のもの也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.92~93)

 仙化撰『蛙合』(貞享三年刊)は芭蕉の古池の句を発表するために企画されたような句合で、二十番四十一人が参加している。その跋に、

 「頃日會深川芭蕉菴而群蛙鳴句以衆議判而馳禿筆青蟾堂仙化子撰焉乎」

と「衆議判(しゅぎはん)」が明記されている。
 これに対し宗房撰『貝おほひ』(寛文十三年刊)は宗房(後の芭蕉)判、不卜撰『續濃原』(貞享五年刊)は「判者四人、春素堂、夏調和、秋湖春、冬桃青」とある。
 「ほん判」は本にしたときということで跋に記すとあるが、『續濃原』では巻頭に記されているから必ずしもこの限りではない。
 即座の判はその場にみんなで集まっての判で『蛙合』は即座の判と思われる。『續濃原』は芭蕉の跋に、

 「猶其しげき林に入て、左右にわかちて積て四節となす。判士よたりに乞て我其一にしたかふ」

とあるので、兼而(かねて)の判だったと思われる。
 「巻頭は多くは持のもの也。」というのは確かに『蛙合』『續濃原』、それに嵐蘭撰『罌粟合』もそうなっている。
 衆議判が今日の俳句で行われる互選と違うのは、敗者の句も発表されるという点で、これは重要だと思う。勝ち負けはあくまでゲームであり、句の発表権とは何ら関係ない。この点は今日の近代俳句も見習うべきで、互選で句の勝ち負けを決めるのは別に悪いことではないが、落選句も公開しないと選考が公正かどうか第三者がチェックすることができない。

 「懐紙の事は、 百韵本式也。五十韵哥仙みな略の物也。連歌の古式は、表十句、名残の裏六句、月七句去、花裏表に一本宛、表の内名所必一有。今も清水連哥此如しとなり。師のいはく、古法表十句の例を守て、八句の後二句過る迄、表に嫌ふものゝ類、連歌に今にせず。俳にはくるしからず。連哥に龍虎鬼女さし出たる類、表の内嫌。俳諧にも鬼女はなりがたし。龍虎はくるしからず。その外人を殺す、切る、しばるなどの類は用捨すべし。百韵一所に過べからず、と師の云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.93)

 連歌の古式はよくわからない。二条良基の時代には表八句、名残の裏八句になっていたと思う。
 早稲田大学図書館所蔵の伊地知鉄男文庫『明応二年三月九日於清水寺本式何人』は確かに初表十句、名残裏六句になっている。
 コトバンクの「連歌本式」の「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 連歌の式目で、「連歌新式」以前に定められた式目をいう。制定者に関しては、藤原為氏あるいは善阿(ぜんな)、道生を当てる説がある。現存の最古のものは一五世紀末に猪苗代兼載の定めたもの。」

とある。
 猪苗代兼載の定めたものについて金子金次郎著『連歌師兼載伝考』(一九七七、桜風社)には、「明応元年十二月 兼載作之云々」と奥に記した全部で十三項という簡単な連歌本式を制定しているとある。ただ、その制定の理由はわからないという。

 「すでに今日的意味を持たないはずの本式を、なんの必要があって制定したのかがわからないのである。もっとも、翌明応二年三月に、清水寺において、宗祇等と本式連歌の興行をしているから、そのためとも考えられるが、それでは充分な説明にならない。その本式連歌興行をも含めて、懐古的関心の所産といえば、説明は一応ついてしまうが、はたしてそれだけか、あるいはより積極的理由がありはしなかったか。たとえば、新式連歌のマンネリズムを打破するためとか、そこまでいわないにしても、なんらかの新味を求めたためとか、そういった理由がなかったかということであるが、今のところ不明という外はない。」(『連歌師兼載伝考』金子金次郎著、一九七七、桜風社p.99)

 上野白浜子著の『猪苗代兼載伝』(二〇〇七、歴史春秋社)には、「兼載は連歌本式の終りに『右の外応安新式の如し』と断り書を添えているから」(p.97)と書いているから、本式とはいっても新式に十三項目の本式要素を復活させただけのものだったのだろう。
 それで一つ謎が解けたのは貞享二年六月二日東武小石川ニおゐて興行の「賦花何俳諧之連歌」で、出羽尾花沢の清風をゲストに迎え、其角、嵐雪、素堂、才丸、コ齋といったこの頃の江戸を代表する豪華なメンバーをそろえての興行だったのだが、花の定座の位置が二句後ろにずれているのが気になっていた。この百韻に限って何らかの理由で「本式」を採用してたなら理解できる。ここでは「花裏表に一本宛」が裏表両方に花と解されている。
 『三冊子』に「今も清水連哥此如し」とあり、芭蕉も一度はこの方式を取り入れたとするなら、本式は兼載の時代に突発的に復活したのではなく、新式制定後もローカルルールとして清水寺をはじめとしてあちこちに残っていて、清水寺で興行する際に新式との妥協案として、兼載が新式に付け加えるような形の本式を作ったのかもしれない。
 『応安新式』には月は七句可隔物だが、花は一座三句で似せ物の花このほかに一句で懐紙をかふべしとある。表裏一本というのは表裏合わせて一本の意味なら「懐紙かふべし」と一致するが、小石川での「賦花何俳諧之連歌」を見る限りでは表に一句裏に一句になっている。
 紹巴の『連歌初学抄』には式目篇とは別に「一、近代一懐紙、引返之第二句マデハ恋・述懐・名所等猶如面不可付之」とある。新式にはこのルールはないが、本式があちこちでローカルルールとして残ってたとすれば、それを取り入れたとも思われる。春秋を三句以上、恋を二句以上続けるというルールも、新式に取り入れられなかったものの、本式の名残で守られていたのかもしれない。
 「連哥に龍虎鬼女さし出たる類、表の内嫌。俳諧にも鬼女はなりがたし。龍虎はくるしからず。」とあるのは、前にも述べた雅語ではない言葉だからで、古代の物語類には登場するし、「女」は八代集の詞書には頻繁に登場する言葉だが歌には用いられていない。恋を表十句まで避けるのと同様、こうした言葉を避けているが、俳諧では龍と虎はよしとする。とはいえ、俳諧は俗語のものだから発句にこうした言葉が使われることも多い。
 「人を殺す、切る、しばるなどの類は用捨すべし。百韵一所に過べからず」というのは一種の暴力シーン規制のようなものと考えた方がいい。発句では、

 切られたる夢は誠か蚤の跡    其角

のように用いられることもある。この場合は夢落ちで救われる。
 「殺す」は延宝六年の「塩にしても」の巻の三十二句目の、

   去男かねにほれたる秋更て
 鶉の床にしめころし鳴ク     春澄

があり、「切る」は元禄五年の「青くても」の巻二十五句目の、

   我が跡からも鉦鞁うち来る
 山伏を切ッてかけたる関の前   芭蕉

の例がある。前者は本当に殺すのではなく「絞め落とし」のこととも取れる。後者は謡曲『安宅』による。
 鬼に関しては天和二年の「詩あきんど」の巻四句目に、

   干鈍き夷に関をゆるすらん
 三線○人の鬼を泣しむ      其角

の例がある。

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