2021年2月12日金曜日

  今日は中国では春節、日本では旧正月という。あけおめ~。
 昨日のこっくりさんの喩えは、日本の社会を変革しようとするときも、何か目に付く象徴を決めてそこを集中的に叩くというこれまでの左翼のやり方では駄目だということも言っている。そんなことをやってもこっくりさんのコインが新しくなるだけで、動かしている人はいつまでも古いままだからだ。
 コインを動かしている人は一人ではない。誰か陰のドンがいて世界を操っているような陰謀説は、いくら大衆扇動のための方便と言っても無理がある。世界は無数の人間のそれぞれに異なる思惑のバランスで動いている。世界を変えたいならそのバランスをほんのちょっとでも動かさなくてはならない。
 思想や教条では人は変えられない。変えられるのは経済だ。市場に新たなトレンドを作れば世の中は動く。
 高度成長期の言葉だが「戦後強くなったのは女とストッキングだ」というのがあった。この二つは無関係ではない。女性が消費社会に加わり、市場の重要な部分に食い込んできたことが女性を強くしたのではないかと思う。出遅れたLGBTや障害者が消費社会のカギを握るようになれば、彼らもまた強くなるだろう。そして女性を含めてより強くなるには投資への参加と起業ではないかと思う。
 左翼に分かりやすく言うなら、上部構造の変革ではなく下部構造にマイノリティーが進出することが大事だ。マイノリティーを搾取される側に封じ込めて、その怒りを革命の原動力にしようという発想だと、永久にマイノリティーは悲惨だ。
 そういうわけで労働市場への参加だけでは何も変わらないばかりか永遠に悲惨だ。だが労働・消費・資本の三点がそろえば可能だと思う。BLMの問題も黒人の資本参加と起業によって黒人市場を拡大すれば、自ずと黒人の雇用も増えるし待遇も改善されると思う。
 あと、鈴呂屋書庫の方に「わすれ草」の巻「塩にして」の巻、それに俳話にはなかった貞享二年の「ほととぎす」の巻「牡丹蘂深く」の巻をアップしました。

 さて旧暦では年も改まり今日から春ということで、ちょっと俳諧を読む方は一休みして、俳論の方を少し見ていこうかな。
 『去来抄』と『俳諧問答』をこれまで読んだので、次はを土芳の『三冊子』を読んでみようと思う。基本的には『奥の細道』の旅を終えた猿蓑調の頃の不易流行論の頃の芭蕉の論理が強く反映されていると思う。
 『三冊子』はその名の通り「しろさうし」「あかさうし」「くろさうし」の三冊からなる。まずは「しろさうし」から読んでいこう。

 「俳諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。陰神陽神(めがみをがみ)磤馭慮島に天下りて、まづめがみ、喜哉遇可美少年との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれども、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83)

 連歌書では連歌の起源を日本武尊に求めるものはあるが、このように歌の起源を記紀神話に即して語ることはありそうでなかった。もっとも神話はいわゆる「信仰」ではない。世界の起源なんて誰も見たものがいないのだから、基本的には「噂」と言っていいだろう。
 俳諧は「噂」を基礎とする。噂と言っても流言飛語のことではない。人と人との間に和をもたらすための共通認識の形成であり、多様なものを相互に理解し合い、正すべきものを正す。それが俳諧における「噂」だ。
 記紀神話は噂であり、仏教や儒教や道家などの様々な世界観と共存できる一つ「故実」にすぎなかった。故実は原理主義者の言うような信じるべきたった一つの説ではない。様々な故実を照らし合わせる中から整合性を見出して部立てしてゆく素材だった。そして部立てされた故実はそこで終わるのではなく、日々変わりゆく現実の中で柔軟に適用する機知に至る所で学問は完成する。これが平安末期から江戸中期までの日本のエピステーメだった。
 こういう柔軟性が神仏習合の世界の基礎になっていて、同じ基礎の上で儒教や道家も共存していた。日本神話を他のものと切り離して排他的な物としたのは本居宣長の非だった。
 「俳諧は哥也」というのも特に目新しいものではない。二条良基の『連理秘抄』に「連歌は歌の雑体也」とあり、宗砌の『初心求詠集』には「夫謌道は、花になく鶯、水にすむ蛙にいたるまでもその器と申侍れば、人の心じゃらむ如何でか是を翫事なからむ哉、殊連歌は三十字あまりの言の葉を上下にわけて、是に深き心あり」とある。
 宗祇の『長六文』にも、

 「抑連歌と申事は只歌より出来事候、又貫之が詞に人の心を種としてよろづ言葉とぞなれりけると侍れば、連歌も心の外を尋べき事にも侍らず、然共歌と連歌との替目少侍るべきにや、歌には五句を云くだして終に其理を述べ、連歌には上句と云ひ下句といひ別々に取分侍れば、分々に其理なくては不叶事也」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.22)

とある。
 宗長の『連謌比况集』にも「夫連歌は歌より出て其感情歌より深し」とある。
 俳諧は「俳諧の連歌」であり、歌を上句下句に分けたものを更に俗語を交えて行うものをいう。

 「哥は天地開闢の時より有」以下は記紀神話に見られる和歌の起源を述べる。記紀神話の国生み神話に関しては、ここでくだくだ述べることでもないので、手っ取り早くウィキペディアを引用しておこう。

 「『古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。
 伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の二神は、漂っていた大地を完成させるよう、別天津神(ことあまつがみ)たちに命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐、伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした地上を掻き混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。
 二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。」

 「二神は男女として交わることになる。伊邪那岐は左回りに伊邪那美は右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った所で、伊邪那美が先に「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやし、えをとこを。意:ああ、なんという愛男〈愛おしい男、素晴らしい男〉だろう)」と伊邪那岐を褒め、次に伊耶那岐が「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやし、えをとめを。意:ああ、なんという愛女〈愛おしい乙女、素晴らしい乙女〉だろう)」と伊邪那美を褒めてから、二神は目合った(性交した)。しかし、女性である伊邪那美のほうから誘ったため、正しい交わりでなかったということで、まともな子供が生まれなかった。」

 「悩んだ二神は別天津神の下へと赴き、まともな子が生まれない理由を尋ねたところ、占いにより、女から誘うのがよくなかったとされた。そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性である伊邪那岐のほうから誘って再び目合った。」

 この時の「阿那迩夜志愛袁登古袁」「阿那邇夜志愛袁登売袁」が歌の初めとなる。
 『古今和歌集』の仮名序にも

 「このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。あまのうきはしのしたにて、め神を神となりたまへる事をいへるうたなり。」

とある。やまとうたが色好みの道と言われるのもそこから来ている。
 若干民俗学的なことを言うなら、歌の起源は江南系の民族に広く見られる、男女が結婚相手を探すために催される「歌垣(うたがき、かがい)」の際に交わされる歌にあったといえよう。

 「神代には文字定まらず、人の世と成て、すさのをの尊よりぞ三十一字となれる。
  八雲たつ出雲八重垣つまごめに
   やへがきつくるその八重垣を
 此歌より定れると也。和國の風なれば和哥と云。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83)

 「人の世と成て」は『古今和歌集』の仮名序の、

 「ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。」

をそのまま受け継いでいる。
 神代と人の世は、今日では「中つ巻」の神武天皇の登場で区切り、それ以前の「上つ巻」を神話と見なす。神武天皇の東征は歴史とは言えないまでも何らかの実在した過去にかかわる伝承として扱われるが、スサノヲ神話を実在した過去の伝承とすることはない。もっとも、ひところ六十年代くらいだったか、天孫降臨神話を騎馬民族征服説に結び付ける人たちはいたが、今となってはすっかり過去のものとなっている。
 もっとも、アマテラス・スサノヲ神話以降を「人の世」とすることに根拠がないわけではない。伊弉諾尊の黄泉の国から帰る所で伊弉冉尊が「ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり」と言っている。この人数が神でないなら、生み出されたばかりの島々に人が住むようになったと解釈できる。そのあとの五穀の起源の神話も、神が食べるものでなく、人の食べるものが生じたと考えられる。
 そして出雲の国に須賀の宮を作った時、

 八雲立つ出雲八重垣妻籠みに
     八重垣作るその八重垣を

と五七五七七の和歌を詠む。この宮は神様だけの世界にあったのではなく、人の住む世界にあったはずである。
 古今集でいう神代は天地開闢までをいい、その後神と人とが共存する時代があり、神武天皇の時代になって人だけの世界になった。

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