楊海英さんの『内モンゴル紛争─危機の民族地政学─』(二〇二一、ちくま新書)を途中まで読んだ。タイトルは「内モンゴル」とあるけど、「内蒙古」だとか「内モンゴル」だとか、本当はこの言葉は使わない方がいいようだ。南モンゴルの方がいい。本来一つのモンゴルが中国と旧ソ連に分断されたもので、北モンゴルは独立国となったが、南モンゴルは長いこと漢民族による迫害が続いている。ウイグルやチベットだけでない虐殺の歴史を持っている。
南モンゴルというとego fallは以前来日した時に見に行ったし、他にもTENGGER CAVALRYやNine Treasuresがいる。
それでは「塩にして」の巻の続き。
二表。
十九句目。
在郷寺を宿として春
麦食の𦬇や爰に霞むらん 桃青
𦬇は菩薩の略字。「ささぼさつ」ともいう。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「「菩薩」の2字の草冠を合わせて「𦬇」とだけ書いた字。「菩薩」の略字として、仏書などの書写に多く使われる。片仮名の「サ」を重ねたように見えるのでいう。」
とある。
田舎の寺の菩薩像のお供えは麦飯だったして、忘れ去られたように霞んでいる。
二十句目。
麦食の𦬇や爰に霞むらん
妙なるのりととろろとかるる 春澄
菩薩が説くのは妙なる法(のり)だが、ここでは麦飯に合わせて海苔ととろろをかき混ぜる。
二十一句目。
妙なるのりととろろとかるる
幽霊は紙漉舟にうかび出 似春
「紙漉舟(かみすきぶね)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 紙を漉く原料を入れる長方形の厚板水槽。紙の寸法に応じて大小があり、紙は漉槽の中に水でうすめた原料を入れ漉簀(すきす)で漉き上げる。紙槽(かみぶね)。
※俳諧・江戸十歌仙(1678)一〇「幽霊は紙漉舟にうかび出〈似春〉 さかさまにはひよる浅草の浪〈芭蕉〉」
とある。
前句の海苔から板海苔を作る作業を思い浮べたか、海苔漉きに似た紙漉きの作業をしていると仏の霊験で海苔が現れる。「とろろ」は紙の粘土を高めるためのトロロアオイやノリウツギなど粘液の意味もある。
二十二句目。
幽霊は紙漉舟にうかび出
さかさまにはひよる浅草の浪 桃青
浅草紙はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「江戸時代に、江戸・浅草山谷(さんや)付近で生産された雑用紙。故紙を原料とした漉(す)き返し紙で、普通は色が黒く、黒保(くろほう)とよばれて鼻紙や落し紙に広く使われた。また、漉き返す前に石灰水で蒸解し直したものは色が白く、白保(しろほう)と称して低級本の用紙にも使用された。佐藤信淵(のぶひろ)の『経済要録』(1827)に、「江戸近在の民は、抄(すき)返し紙を製すること、毎年十万両に及ぶ」とあるように、れっきとした製紙産業の一つであった。庶民の日常生活に欠かせないものであったため、江戸時代の川柳などにもよく出てくる。明治以後この地が繁華街となるにつれて、製紙業は周辺の地に分散移転したが、さらに洋式の機械製紙が地方で盛んになるにつれ、手漉きの零細業者はしだいに転廃業して跡を絶った。しかし浅草紙の名は、形や産地が変わってもなお長く庶民に親しまれている。[町田誠之]」
とある。
この頃は一方で紙漉きの技術を用いた板海苔の浅草海苔も生産されていた。ここではどっちなのかよくわからない。
『さかさまの幽霊』というタイトルの本も出ているようだが、江戸時代の幽霊は時として頭が下で足が上のさかさまの姿で現れたようだ。延宝五年刊の『諸国百物語』巻之四「端井弥三郎ゆうれいを舟渡しせし事」の幽霊も逆さの姿で現れる。
二十三句目。
さかさまにはひよる浅草の浪
またぐらから金龍山やみえつらん 春澄
さかさまになりローアングルになると、人の股の間から金龍山浅草寺が見える。金のつく別のものにも掛けていそうだが。
二十四句目。
またぐらから金龍山やみえつらん
聖天高くつもるそろばん 似春
金龍山浅草寺のすぐ裏には待乳山聖天(まつちやましょうでん)があり、小高い山になっている。今日では日本一短いケーブルカーもある。本龍院が本来の名前。
金龍寺はたくさんの人が参詣に訪れて金がたくさんあるから、それが積もって山となったのではないか、ということで、積る算盤となる。
二十五句目。
聖天高くつもるそろばん
帳面のしめを油にあげられて 桃青
帳面の締めで利益が上がるのと白絞油で天ぷらが上がるのとを掛けて、待乳山聖天のように高く利益が積もり積って、天ぷらも積み上げられる。
二十六句目。
帳面のしめを油にあげられて
ながるる年は石川五右衛門 春澄
天ぷらの揚がるところから石川五右衛門の釜茹でを連想したのだろう。ウィキペディアには、
「安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。」
とある。
大年の締めの借金の返済ができなくて質草がながれてしまったため、石川五右衛門に盗まれたかのような損失を出した。
「ながるる年」weblio辞書の「季語・季題辞典」に「年の暮れ」とある。
二十七句目。
ながるる年は石川五右衛門
まかなひをすいたの太郎左いかならん 似春
「まかなひ」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」に、
「1 食事や宴の用意をすること。また、下宿・寮などで作って出す食事や、それを作る役目の人。「寮の賄い」
2 料理人が自分たちの食事のために、あり合わせの材料で作る料理。最近は「まかない料理」と称する、手の込んだ料理を出す店もある。
3 給仕をすること。また、その人。
「御髪 (みぐし) あげ参りて、蔵人ども、御―の髪あげて参らするほどは」〈枕・一〇四〉
4 間に合わせること。
「当座―に金とるだましの空誓文」〈浄・氷の朔日〉
5 費用を出すこと。
「一切わたしらが―で」〈人・梅児誉美・三〉」
とある。今では2の意味で用いられることが多いが、かつては金を賄うの意味で用いられていた。「賄」という字は賄賂(わいろ)の賄でもある。
「まかなひをすいた」の「すいた」は好いたとも取れるし「吸い」と掛けたともとれる。要するに「吹田の太郎左」という人物はすぐに金を要求する人物なのだろう。モデルになった人がいたのかどうかはよくわからない。
二十八句目。
まかなひをすいたの太郎左いかならん
既に所帯も軍やぶれて 桃青
「所帯」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「[一]名詞
身に付けているもの。地位・官職・領地・財産など。
出典平家物語 三・御産
「しょたい・所職を帯(たい)する程の人」
[訳] 財産・官職を持つほどの人。
[二]名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる
一家を構え、独立した生計を立てること。
出典仁勢物語 仮名
「伊勢(いせ)の国にてしょたいしてあらん」
[訳] 伊勢の国で一家を構え、独立した生計を立てて住もう。」
とある。今日では[二]の意味で用いられるのがほとんどだが、ここでは[一]の意味であろう。
軍(いくさ)に破れて地位や財産も失い、あの賄いの好きな吹田の太郎左はどこへいったやら。
二十九句目。
既に所帯も軍やぶれて
軒の月横町さして落給ふ 春澄
「落給ふ」は「軍やぶれて」と「月」の両方を受ける。ただ、舞台が横町(横丁)だから本当の軍ではなく、多分夫婦げんかで[二]の意味での所帯を失うということだろう。
三十句目。
軒の月横町さして落給ふ
後家を相手に恋衣うつ 似春
「恋衣」は、元禄二年『奥の細道』での「残暑暫」の巻十五句目、
さざめ聞ゆる國の境目
糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも 北枝
や「凉しさや」の巻の七句目、
影に任する宵の油火
不機嫌の心に重き恋衣 扇風
などの用例がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① (常に心から離れない恋を、常に身を離れない衣に見立てた語) 恋。
※万葉(8C後)一二・三〇八八「恋衣(こひごろも)着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」
② 恋する人の衣服。
※風雅(1346‐49頃)恋二・一〇六五「妹待つと山のしづくに立ちぬれてそぼちにけらし我がこひ衣〈土御門院〉」
とある。
後家さんの所に通って衣を打っていると、横丁の軒に月も落ちて行く。
月と砧の縁は李白の「子夜呉歌」。
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
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