昨日の地震はこちらでは特に物が落ちたりということもなかった。時間が深夜な上に緊急事態宣言下で出歩いている人が少なかったのも幸いだった。
それでは「三冊子」の続き。
「夫俳諧といふ事はじまりて、代々利口のみにたはむれ、先達終に誠を知らず。中頃難波の梅翁、自由をふるひて世上に廣しといへども、中分いかにしていまだ詞を以てかしこき名也。しかるに亡師芭蕉翁、此道に出て三十余年、俳諧初て實を得たり。師の俳諧は名むかしの名にしてむかしの俳諧に非ず。誠の俳諧也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84~85)
さて、これまでは俳諧という言葉の説明で、ここからが蕉門の俳論となる。
俳諧は中世の連歌の盛んな時代に既に始まり、宗鑑・守武により連歌から独立し、松永貞徳によって多くの門弟を得て一つの大衆文化として確立された。
ただ、そこまでは巧みに話を作り、笑わすというところに留まっていて「誠」を知らなかった。
談林の祖宗因もまた、貞門の基本的に雅語で俗語は一句一語といった窮屈な制限を破り、謡曲や物語、その他様々な言葉を取り入れて、季語を本意本情と切り離して形式的に用いたり、字数においても破調を認めたりして、絵空事の古典風雅だけでなく、庶民のリアルな世界を自由に描き出す道を開いたが、風雅の「誠」には至らなかった。
芭蕉翁だけが初めて俳諧に「誠」を得た。芭蕉の俳諧は名前は従来通りの「俳諧」の名称を用いてはいるが、中身の違う「誠の俳諧」として区別されねばならない、という。
ならばその「誠」とは何かということになる。これは朱子学の概念で、人の感情の喜怒哀楽その場限りに移ろいゆく情に対して、その根底にある情、孟子のいう四端に属するものを「誠」という。
これは朱子学の理と気に二元論から李退渓の四端七情説を通じて日本の朱子学に持ち込まれた考え方だった。芭蕉は『奥の細道』の旅の際に曾良こと岩波庄右衛門を経由してこれを学んだと思われる。
これによって『猿蓑』の頃の芭蕉の俳諧は古典に通じる不易の情と流行の現象とを区別し、流行の現象を以て不易の情、風雅の誠を表現するものとなった。
土芳の『三冊子』は『去来抄』とともにこの『猿蓑』の頃の不易流行説を記した貴重な書となった。これ以降の「軽み」の頃の芭蕉の説を知るには、許六の『俳諧問答』や支考の『俳諧十論』の方が重要になる。
「されば俳諧の名有て、其物に誠無が如く代々むなしく押移る事いかにぞや。師も此道に古人なしと云り。又、故人の筋を見れば、求るにやすし。今おもふ處の境も此後何もの出て是を見ん。我是たヾ来者を恐ると、返々詞有。むかしより詩哥に名ある人多し、皆その誠より出て誠をたどるなり。我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。誠に代々久しく過て、此時俳諧に誠を得る事、天正に此人の腹を得る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.85)
笑いやもっと広い意味での娯楽、あるいはエンターテイメントといったものは誰もが求めるものだしどこの国にもある。そして、それが多くの人の心を満たし、平和な暮らしに貢献していることは理解できるだろう。
ただ、こうしたもののしばしば政治的に利用されたりするし、反政府的なもの、それも戦争をやろうとしている国家が非戦的という理由で弾圧したりするのもまたよくあることだ。弾圧まではされなくても、低俗だとか子供向けだとか言って蔑まれ、教育制度から排除しようとするのは今でも続いている。サブカルチャーという言葉も左翼が革命に利用できるという観点から与えた名称だ。
近代の芭蕉研究も低俗な大衆芸能から西洋文学にも劣らぬ立派な芸術に高めたという視点で行われている。そして西洋文学に比する理由として「写生説」が今でも芭蕉研究の主流となっている。写生説に反対するなら象徴詩として扱うかという二択になっている。
「俳諧の名有て、其物に誠無が如く代々むなしく押移る事」というのはそうした脆弱さを嘆いて言っているのではないかと思う。「無が如く」は無かったのではなく、有るのに自覚されてなかった、と見た方がいい。
芭蕉が「此道に古人なし」というのは俳諧にまだ「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」という『笈の小文』の言葉に対して、俳諧にそれに匹敵する人物があらわれてないという意味で言ったのだと思われる。貞徳・宗因も傑出した人物ではあるが、彼らと並べるには不足だった。それはこうした芸能の根底にある何かが自覚されてなかった、ということだろう。
それは不易に通じる何かだから、「又、故人の筋を見れば、求るにやすし。今おもふ處の境も此後何もの出て是を見ん。我是たヾ来者を恐る」と、一時の流行で終わって何も残らないことを恐れていた。
「むかしより詩哥に名ある人多し、皆その誠より出て誠をたどるなり」と芭蕉が見つけたのは「誠」だった。それは西洋哲学でいう「理性」とも似ているが、東アジアの誠はよりメンタルな方に重点が置かれている。
西洋哲学が人間だけが動物的な肉体に霊魂が宿り、それが人間らしさを与えているとするが、その霊はロゴス(言葉を意味すると同時に論理を意味する)という言葉に封じ込められている。それは肉体を制御する理論であり、理性を持つものが真の文学とされた。カントは理性を理論理性、実践理性、判断力に分け、芸術における理性を判断力として論じた。
ただ、西洋のこの霊肉二元論だと、人間の感情は肉体の方に押しやられ、その結果「感動は芸術ではない」という理論になってしまった。大衆芸術がいくら世界中の人を感動させても、芸術はそういうものではなく、一部のマニアックな人間に支持された作品が賞をもらうようにできている。そこでは哲学(形而上学)を学んだ批評家が大きな権威を持っている。そして芭蕉研究もそのやり方を踏襲して行われている。
西洋の伝統的な形而上学は一方に機械的な欲望があり、一方にそれをコントロールする理性があるというだけで、その中間にある恋愛や友情や日常の喜怒哀楽がそっくり欠落してしまう。そのため大衆芸術が世界を席巻していても、芸術評論家は誰も知らないような無味乾燥な作品を賛美し続けている。(人権問題にしても、人間の肉体は差別する機械であり、理性による立法とそれを行使する警察力だけが抑止できると考えている。)
ただナチズムや共産圏で起きた数々の虐殺の前に、理性による非情な殺人に対してのカント的な実践理性の無力さを見せつけられ、カミュの不条理哲学をはじめ、実存主義、構造主義、ポストモダンなどの新しい哲学が起こり、西洋理性の伝統そのものが反省されるようになった。ただ、それ喉もと過ぎれば熱さ忘れるで、若い世代の中からマルクス・ガブリエルのようなのが現れている。
風雅の誠は朱子学のいう「理」ではあるけど、西洋の理性のようなロゴスとして解釈されるようなものではない。朱子学には経緯という考え方がある。理は経であり経糸であり、気は緯であり横糸になる。横糸は空間であり、経糸は時間を意味する。空間は様々なものが並置されている場所でお互いを認識しないが、経糸はそれら全体を見通すことができる。経糸は意識であり、理はこの世界の経糸になる。
現代の物理学で言うなら横糸は時間を含んだ多次元の時空であり、経糸はその中で生じた特殊な量子的な場ということになるだろう。今はそれ以上のことは言えない。ただ、そこには西洋的なロゴス以上のものが含まれている。
李退渓の四端七情説は人間の感情の根底に四端に通じる性理を見出す。風雅の誠はその場所に存在する。感情は性理の発露であり、西洋的に言うなら理性から生じる。感情は理性が肉体化されたものであり、機械的な欲望ではない。そのため、感情は理性によってコントロールされるべきものではなく、むしろ理性は感情そのものなのである。ただ、それが発露するときに現実の世界の様々な状況にさらされ、不完全で間違ったことをしているにすぎない。
西洋哲学も基本的にはこの性理から生み出されたもので、純粋に論理的なものではなく、実際にはこの世界の現実の前で様々な感情や衝動に突き動かされている。思想家は時としてヒステリックに見えるのもそのせいだし、理性の名のもとに虐殺が行われるのもそのせいだ。
たとえどんな善意思で生み出された思想であろうとも、それがこの現実の世界に直面した時には凶器に変わる。それを防ぐには常にそれが発せられた場所に立ち返るしかない。
善意思で生じたはずの思想や感情が現実の世界で裏切られ、それが終わりのない争いのなかで朽ち果ててゆくとき、そこに恨みと後悔が起こる。芸能もまた一時の游興騒動を離れて最初の衝動に立ち返った時、風雅の誠はそこにある(Es ist Da)。
芭蕉はこの不易流行説を説いた時点では、この反省は古典の心を学ぶことによって達せられると考えていた。だが、後に「軽み」を説く頃には、直接自身の初期衝動に求めるようになった。
余談だが韓国の「恨(한)」も七情から四端へ立ち返る時に生じる恨みであり、単なる怨恨と区別されねばならない。
「我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。」とあるように、この芭蕉の行きついた風雅の誠を近代的に翻訳するなら、現代の世界を席巻する大衆芸術のうねりもここに基礎づけることが可能だろう。
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