2021年2月16日火曜日

  マクドナルドのある国同士は戦争しないとかつてトーマス・フリードマンは言ったが、これにはとんでもない逆説があったわけだ。つまり、マクドナルドのある国はどんな虐殺をやっても他国は介入できない。市場を失うのが怖いから、目をつぶってしまうわけだ。
 もともと国から追い出そうとしている人を引き受けてくれる国があるなら、それこそ願ったりだろう。国を失う民がこれ以上出ないようにすることが第一で、難民の受け入れはその次だ。
 それと、子宮を持つものはペニスを持つ者の脅威から守られなくてはならないと前に書いたが、その逆はありえない。性的非対称性をきちんと理解すべきだ。
 コロナの新規感染者数はだいぶ減ったが死者は七千人を越えた。阪神・淡路大震災の死者数は6434人。これで何も思わない人はどうかしている。

 それでは「三冊子」の続き。

 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

 「詩歌連俳」の詩は漢詩、歌は和歌、連は連歌、俳は俳諧で、いずれも風雅に属する。
 風雅は『詩経』大序の「変風変雅」からきた言葉で、

 「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。」
 (為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)

とあり、

 「故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。」
 (故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。)

という考え方は『古今和歌集』仮名序の、

 「力をもいれずして、あめつちを動かし、目に見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなの仲をもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、歌なり。」

に受け継がれている。「力をもいれずして、あめつちを動かし」「たけきもののふの心をもなぐさむる」は大序で述べられた政治的な側面で、「をとこをむなの仲をもやはらげ」は小序「關雎」の詩に関する部分を引き継いでいる。
 風雅の政治的側面では古代には山上憶良の「貧窮問答歌」のようなものもあったが、八代集以降の和歌ではそれほど前面に出ることはなかった。連歌では、

   罪をもしらで勇むもののふ
 後の世につるぎの山のあるものを  良阿
   はかなきものはもののふの道
 たが為の名なれば身より惜しむらん 宗祇

のような反戦的な句や、

   身を安くかくし置くべき方もなし
 治れとのみいのる君が代      心敬
   唐土も天の下とやつらからん
 すめば長閑き日の本もなし     宗祇
   山川も君による世をいつか見む
 危き国や民もくるしき       宗祇

などの応仁の乱に荒れた国を憂う句が詠まれてきた。
 俳諧では特に宗因法師によって庶民の生の声が解放されて以来、庶民の本音を読む句も増えてきた。為政者の間でも民の心を知るための手段として、積極的に俳諧に参加するものもいた。特に宗因の時代から俳諧を好んだ磐城平藩の風虎、露沾などの名も挙げられる。
 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。」というのは、ともすると形骸化した漢詩、和歌、連歌の変風変雅の精神が、俳諧では余すところなく行われているという自負を込めているのではないかと思う。
 花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ」は、元禄五年の、

 鶯や餅に糞する縁の先       芭蕉

の句、「水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり」は言わずと知れが貞享三年の、

 古池や蛙飛び込む水の音      芭蕉

の句をいう。
 ここには神聖な鏡餅に糞をするとは不謹慎ななんて制約もない。暗に世俗の権威何ぞ糞くらわせてやれといった反抗心も匂わせている。だが、それを露骨に言うことなく、正月の「あるある」の中に隠し込んでいる。
 古池の句も時代の変化によって没落した家の古池などが放置されているところに、水音に驚き、在原業平の「月やあらぬ」や杜甫の「鳥にも心を驚かす」の心を表している。
 単なるあるあるネタで人を笑わす俳諧師はいくらもいるが、そこに変風変雅の心を隠し込む所までできたのは芭蕉をおいて他にいなかったといってもいい。『去来抄』で論じられた、

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

に欠けてたのは、まさにそこだった。
 その境地に達してこそ、「見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」になる。

 「俳諧の式の事は、連哥の式より習て、先達の沙汰しける也。連哥に新式有。追加ともに二條良基摂政作之。今案は一條禪閤の作、この三ッを一部としたるは肖柏の作と也。連に三と數ある物は、四とし、七句去ものは五句となし、万俳諧なれば事をやすく沙汰しけると也。今案の追加に、漢和の法有。是を大様俳諧の法とむかしよりする也。貞徳の差合の書、その外その書、世に多し。その事をとへば、師信用しがたしと云り。その中に俳無言といふ有。大様よろしと云り。差合の事もなくては調がたし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

 「式」は連歌のルールで、連歌が本来多くの連衆が即興で機知に富んだ句を付けるのを競うゲームであり、賞品が出たりした。機知は中世から近世前半においては科学的な論理の未発達と不確かな情報を補う重要な能力で、硬直した論理で対応できない現実に的確に対応するには、機知が最高の能力とされた。
 与えられた前句により的確に面白く句を付ける能力は、政治においても領主的経営においても、宗教界においても有能さの証となるものだった。
 近代であれば科学知識と正確な情報に基づいた判断が要求される。しかし、それが得られなかった時代は何に基づいて判断しなくてはならなかったかというと、ひたすら状況判断あるのみだった。それもいかに素早く時流に合った判断をするかが大事だった。そのため宮廷でも武家でも寺社でも機知を養うことだ必要だった。
 (余談だが今日のコロナに関しては未知のウイルスだったため、従来のコロナウイルスに関する科学的な知識では対応できず、情報も中国側の隠蔽などがあって不十分だったため、各国政府が機知によって対処せざるを得なかった。こうしたことは中世の政治であれば日常だったのだろう。)
 ゲームということになると、より面白く長く遊ぶためには適度な難易度が要求される。難易度が低くて誰でもできるものだと、実力を見せることができない。難易度が高くて誰もできないようなものだと、ゲームとして成立しない。スポーツなどでもしばしばルールの細かい部分が修正され、いかにゲームを面白くするかに注意を払っている。野球のストライクゾーンが変わったりするのも、ストライクゾーンが広すぎると誰も打てなくてゲームが動かなくなるし、ストライクゾーンが狭すぎると簡単に打ててしまってゲームが荒れてしまう。
 連歌の式目も後鳥羽院の頃に五十韻百韻などの長連歌が生まれて以来、ルールが建てられては何度となく修正されてきた。そして、その一つの成果として生まれたルールが二條良基による『応安新式』(応安五年、西暦一三七二年成立)だった。ルールの主なところは去り嫌いであり、似たような趣向の句が連続することを避け、より素早く発想の転換を行うかが重視されていた。
 それから八十年後、一条兼良によって一部修正がなされたのが『新式今案』(享徳元年、西暦一四五二年)だった。その後肖柏によって和漢連歌(漢詩句を交えた連歌)のルールが追加されたのが『連歌新式追加並新式今案等』(文亀元年、西暦一五〇一年)だった。
 俳諧の連歌も基本的には連歌の式目を受け継ぐが、去り嫌いの規則はかなり緩和されている。「貞徳の差合の書」は『俳諧御傘』などであろう。たとえば『応安新式』では同季(春と春、夏と夏など)は七句去り(七句間に別の季か無季の句を挟まなくてはならない)だったがそれを五句去りにしている。蕉門の俳諧もおおむねこれに基づくが、新しい季語を追加したりしているし、俳言が一句に一語という制限も撤廃して俗語だけでも俳言なしでも良しとしている。
 細かい部分は絶えず修正されるため、実際に芭蕉同席の俳諧に参加して直に学ぶことも大事だった。

 「師の門にその一書あれかしといへば、甚つゝむ所也。法を置と云事は重き所也。されども花のもとなどいはるゝ名あれば、其法たてずしては、其名の詮なし。代々あまた出侍れど、人用ひざれば何ンが為ぞや。法を出して私に是を守れとは恥かしき所也。差合の事は時宜にもよるべし。先は大かたにして宜と也。たヾこゝろざしある門弟は、直に談じて信用して書留るもの、蜜にわが門の法ともなさずばなすべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87~88)

 蕉門に式目の書はないのかと言われれば「甚(はなはだ)つつむ(慎む)」となる。スポーツでもローカルルールはあるが、公式ルールとなるとしかるべき統括する競技団体が十分議論して行わなくてはならない。俳諧の場合も全国に様々な師匠がいて、大まかにいうと貞門、談林、蕉門ということになるが、それぞれが勝手にルールを作ったのでは収拾がつかなくなる。蕉門といえども全国を統括できるだけの勢力はない。特に大阪は最後まで取りこぼし、大阪談林が主流を占めていた。
 連歌の式目にしても二條良基は摂政、一条兼良は関白、肖柏も内大臣中院通秀の弟で皆立派な官位を持つ貴族で、式目はいわば皇室の権威に於いて基礎づけられていた。芭蕉はもとより松永貞徳ですらこうした権威に匹敵するものではない。残念ながら俳諧は大名クラスまでは広まっても皇族を巻き込むには至らず、今日に至るまで俳諧の公式ルールともいうべき式目は存在しない。現代連句もそれぞれ勝手にルールを立てて行われている。
 「差合の事は時宜にもよるべし」とあるように、特に俳諧に権威のあるルールがない以上、ルールはその場の状況に応じて臨機応変に適用しなくてはいけない。まあ、国の法律だって杓子定規になってはいけないし、スポーツのルールでも特にサッカーなどの接触プレーの判定は線引きが難しく、審判の勘によるところも多い。今ではVARも導入されているが、その判断も結局は複数審判の協議によるもので、むしろ些細な判定で試合が頻繁に止まることを懸念する声もある。俳諧の差合はそこまでの厳密さもなく、むしろプロレスの判定に近いかもしれない。

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