2021年2月18日木曜日

 森元の後任の東京五輪・パラリンピック組織委員会会長がどうやら決まるのかな。これは馬鹿発見器になるな。森元の発言に比べればベロチューなんて可愛いもんだということをどれくらいの人が理解できてるかな。
 もちろん日本人だけでなく欧米の人も問われている。

 それでは「三冊子」の続き。

 「本歌を用いる事、新式に云ク、新古今已来の作者を用べからずと也。八代集は古今、後撰、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今、是也。後土御門依勅、新勅撰、續後撰二代を加へて、十代集を本哥に取る。又堀川兩度の作者迄の哥は、十代の外の集たりとも、たとひ集にいらぬ哥也とも、作者の吟味有之かと云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89)

 『応安新式』には、

 「本歌付合事は至新古今集用之、堀川院両度百首作者までは、假雖入近代集、猶可為本歌之例、但人のあまねく、しらざる歌をば、付合に不可好用之、彼百首以後作者、近代歌までも、依事證歌には可引用也」

とある。「至新古今集用之」は古今から新古今までの八代集で、万葉集は含まれない。
 「堀川院両度百首」は「堀河百首」と「永久百首」のことで、「堀河百首」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「平安後期の歌集。長治2年(1105)ごろ成立か。堀河天皇の時、藤原公実(きんざね)・源俊頼・源国信らを中心に、当時の代表的歌人の大江匡房(まさふさ)・藤原基俊ら16人が詠んだ百題による百首歌の集成。後代の組題百首の規範とされ、重んじられた。堀河院御時(おんとき)百首和歌。」

とあり、「永久百首」は、

 「平安後期の歌集。2巻。永久4年(1116)鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほか6人が編集。百首の和歌を収録。永久四年百首。堀河院後度百首。堀河院次郎百首。」

とある。この時代までの作者の歌であれば、八代集以降の集にある歌でも用いることができる。但し、有名な哥以外は推奨しない。
 誰も知らないようなマニアックな歌を引いてきてどや顔するのはいかにもありそうなことだが、本来連歌は機知を競うもので、知識を競うものではない。俳諧でも其角流はこの方向に陥りがちだった。
 本歌は歌の趣向を借りるもので、単に使用する語句が雅語であることを証明するために用いられる證歌であれば、それ以降の和歌でもいいとされている。俳諧では特に『夫木和歌抄』(鎌倉時代後期に成立)が多く用いられる。

 「又、新式にいはく、人のあまねくしらざる歌をば、付合に是を好むべからず。事により證哥には引用ゆべしと也。
 本哥と證哥と差別あり。本哥取といふは、古哥の詞を取合て付るをいふ。證哥とは聊違有。或は一句餘情、又名所續合たる物を付るをいふ也。證哥はいづれの集にても可有事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89)

 本歌の場合はその元歌を知らないと意味がよくわからないものが多い。

   蛤もふんでは惜む花の浪
 さつとかざしの篭の山吹      宗因

の句なども、なんで篭の山吹が何を意味するかというと、『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りを知らないとよくわからない。

  「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、
   やまぶきを上にさして書付けて侍りける
 やまぶきをかざしにさせばはまぐりを
     ゐでのわたりの物と見るかな
                 家綱
   返し
 心ざしやへの山ぶきと思ふよりは
     はまくりかへしあはれとぞ思ふ
                 俊頼」

 山吹は元は手紙に添えるかざしで、それを蛤を詰めた籠を贈るのに用いたということだと分かる。
 ただ紹巴の時代の連歌では付合の根拠となるものを本歌と言ってたようなところもある。『連歌新式永禄十二年注』には、

 「たとへば、朝霧と云句に明石の浦と付て、又嶋がくれ行舟と付れば、三句になるなり。
 前の朝霧の一句に雖無本歌心、明石の浦を付れば、ほのぼのと明石の浦の朝霧にといふ歌の心に、朝霧の句もなる也。
 其ゆへは、彼本歌なくは、朝霧に明石の浦付くべきゆへなけらば也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

 これに対して逃げ歌は、

 「逃歌とは、我舟に乗て漕行に、嶋のみえたる体の句はくるしからず。別の歌の心になれば也。
 天ざかるひなの長路を漕くれば明石のとより大和嶋みゆ」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

とある。『三冊子』の「本哥取といふは、古哥の詞を取合て付るをいふ。」も本歌をこういう意味で用いていると思われる。それに対し情をとるのを證歌としている。
 『連歌新式永禄十二年注』には、

 「本歌と証歌との分別の事。本歌と云は、前句の付合也。証歌と云は、詞づかひ・一句のしたて也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20)

とある。ただし付合であっても、

 「本歌といふにも猶心え有べし。たとへば、梅に鶯を付、柳に鶯を付、雪に桜、款冬に蛙、又、卯花・橘、五月雨等に時鳥を付、紅葉・萩等に鹿・鴈を付、萩・薄・女郎花等に虫を付事をば本歌とはいはず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20~21)

とあり、特定の歌に限定される付合は本歌だが、多くの歌に見られる組み合わせは本歌とは言わない。
 「証歌と云は、詞づかひ・一句のしたて也。」とあるのは、文字通り言葉の使い方一句の文章の続き方で、言葉の意味や文法の正しさを証明する歌のことと思われる。
 證歌は貞門や初期談林などまだ雅語を中心にして俗語は一語までというルールでやってた頃はかなり厳しく言われたようだが、それ以降、特に蕉門ではほとんど問題にされなかったのではないかと思う。
 この辺りは連歌書を書き写したような感じで芭蕉の時代の実際の差し合いとはかけ離れているように思える。

 「輪廻の事、新式に薫といふ句に、こがるゝと付て、また紅葉を付べからず。舟にて付べし。こがるゝといふ字かはる故也。夢といふ句に、面影と付て、月花を付る事、面影ものと云て、近代不付之、更無其理、曾以不嫌之。又たとへば、花といふ句に、風とも霞とも付て又不可付也。 數句をへだつといふとも、一座に可嫌之、他准之。又、竹と云句に世と付て、又、竹出る時、夜の字不付也。如此の類、遠輪廻也。あらしと云に、山と付、次に富士など付ば、取なして打越へ歸るなり。是を嫌。他准之。一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89~90)

 輪廻は『応安新式』に、

 「薫物と云句に、こがると付て、又紅葉をつくべからず、船にては是を付べし。こがるといふ字、かはる故也、煙と云句に里とつきて、又柴たくなど薪の類を不可付、他准之」

とある。「新式に薫」以下「かはる故也」まではほぼそのまま書き写している。
 これは同じ「こがる」でも違う意味に取り成してつける分にはかまわないということを言う。
 「薫物のこがる」「紅葉のこがる」はどちらも火によって焦げるという意味で、紅葉の場合も葉が赤くなるのを比喩として焦がると言っているから、同じ意味の「こがる」となる。これに対し「船のこがる」は漕ぐという別の単語への取り成しになるから良しとする。
 煙に里と付けてまた柴たくや薪を付けるのは、「煙りたなびく里」「柴焚く里」「薪こる里」と趣向が似てしまうからで、これも輪廻になる。
 『応安新式』の遠輪廻事には、

 「仮令花と云句に、風とも霞とも付て又付加付之、数句を隔といふとも、一座に可嫌之、他准之。」

とある。「又たとへば、花と」以下「一座に可嫌之」まではほぼこれを書き写している。
 また『新式今案』の遠輪廻事には、

 「花に付、風霞之類、近来不及沙汰、若猶可守新式歟、又竹と云句に世と付て、又夜字不可付之、如此類又遠輪廻也」

とある。「又、竹出る時」以下「遠輪廻也」まではこの後半部分をほぼそのまま書き写している。
 なら残る「夢といふ句に、面影と付て、月花を付る事、面影ものと云て、近代不付之、更無其理、曾以不嫌之。」はというと、「連歌新式永禄十二年注」には、

 「夢と云句に面影と付て、月花を付事、面影物といひて、近代不付之、更無其理、曽以不嫌之。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.15)

とあり、ほぼ一致する。なおこの一文は『連歌新式心前注』にも同じものがあり、古い書に元の文があるのかもしれない。
 「あらしと云に、山と付、次に富士など付ば、取なして打越へ歸るなり。是を嫌。他准之。一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」の部分は宗因の『俳諧無言抄』に、

 「又嵐と云に山と付て、次に冨士なと付は取なして打越へかへる也。是等を嫌也。他准之。」

とある。
 「一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」も宗因の『俳諧無言抄』に「一巻の内、似たる句嫌也」とある。 この辺りもまた古い書物からの書き写しで蕉門独自の論ではない。

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