今日も晴れていい天気だった。近所の梅も咲いていて春もやや景色ととのうだね。今年はは年内立春だから春だけど春でないって微妙だけどね。
男でも女でもLGBTでも、人間の持って生まれた性質や成長過程で獲得した性質って(三つ子の魂百までというくらいで)そうそう変えられるもんではない。大事なのは変えなくてもみんながうまくやっていけるようにすることだ。
西洋のような形而上学による解決は、結局哲学者の数だけ哲学があるという状態で分断と内ゲバを繰り返すだけで、それを無理に一つにしようとすると強大な権力が必要になる。日本人はその道は行かない。よりよい共通認識(江戸時代の俳諧師の言葉で言うと「噂」)を作り上げ、俗を正す。大衆文化だけがそれを作り上げることができる。
そういうわけで鈴呂屋は変わりません。日本人で男でノンケのままです。
それでは「塩にして」の巻の続き。
初裏。
七句目。
高う吹出す山の秋風
ふらすこのみえすく空に霧晴て 桃青
フラスコというと今の日本では理科の実験に使うガラス容器だが、本来は実験に関係なく、ポルトガル語でガラス容器一般をさす言葉だった。
透き通ったガラスの珍しかった時代、山の秋風に霧が晴れてフラスコのように向こう側が見えるようになった、とする。
八句目。
ふらすこのみえすく空に霧晴て
油なになに雲ぞなだるる 春澄
「なだる」は口語の「なだれる」と同じで、weblio辞書の「デジタル大辞泉」に、
「1 (雪崩れる)斜面などに降り積もった大量の雪や土砂などが、急激にくずれ落ちる。
「去年は大雪だったよ。よく―・れてね」〈康成・雪国〉
2 一度にどっと動く。
「前後左右に―・れ出した見送り人の中へ」〈芥川・路上〉
3 斜めにかたむく。傾斜する。
「西へ―・れたる尾崎(=麓)は、平地につづきたれば」〈太平記・二〇〉」
とある。倒れた瓶から油がこぼれるように、霧が晴れてゆくとともに雲が傾いて崩れて行く。
九句目。
油なになに雲ぞなだるる
浦嶋や櫛箱あけてくやむらん 似春
浦島太郎が玉手箱を開けると煙が出て、という場面を雲の崩れてゆく様に喩える。『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもあるように、謡曲『海士』の、
「夜こそ契れ夢人の、あけて悔しき浦島が、親子の契り朝汐の波の底に」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.87362-87365). Yamatouta e books. Kindle 版.)
の一節を踏まえている。謡曲の方は「開けて」をさらに「夜が明けて」に掛けている。
十句目。
浦嶋や櫛箱あけてくやむらん
鼠あれゆく与謝の夕浪 桃青
与謝の海は天橋立の外側の海をいう。謡曲『大江山』にも「天の橋立与謝の海」とある。ここには与謝神社があり、浦島太郎の伝説の地とされている。
前句の櫛箱を開けたのを鼠がひっくり返して開けたとして、どたどたと鼠の走り回る音があたかも与謝の夕浪のように聞こえる。
十一句目。
鼠あれゆく与謝の夕浪
捨小舟米蛇の跡さびて 春澄
「米蛇(こめくちなわ)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「米蔵に居て米を食う白蛇で鼠をとる。」とある。米を食われたら困る。これは「米蔵に居る白蛇で米を食う鼠をとる。」の間違いではないかと思う。アオダイショウのアルビノは日本では古くから信仰の対象になっていた。特に岩国のシロヘビは国の天然記念物にも指定されている。
白蛇様がいなくなれば米蔵は鼠の天下で荒れ放題。米を運ぶための小舟も捨て置かれたままになっている。
十二句目。
捨小舟米蛇の跡さびて
蔵も籬も水草生けり 似春
米蔵が荒れ果てたのを洪水や川の移動などで浸水したためとする。
『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、「蔵も籬(まがき)も」は、
里はあれて人はふりにし宿なれや
庭もまがきも秋の野らなる
僧正遍照(古今集)
「水草(みくさ)生(おひ)けり」は、
わが門の板井の清水里遠み
人し汲まねば水草生ひにけり
よみ人しらず(古今集)
を證歌とする。
十三句目。
蔵も籬も水草生けり
今朝みればゐてこし女は貧報神 桃青
『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「ゐてこし女」は『伊勢物語』第六段「芥川」の「見れば率(ゐ)てこし女もなし」を引いている。いなくなった女は鬼に食われたということになっている。
ここではその言葉だけを借りて、蔵が荒れたのを女が貧乏神だからだとする。
このように和歌、物語、謡曲の言葉などをつなぎ合わせて作ってゆくのがこの頃の俳諧で、共通言語のなかった時代に、多くの俳諧師たちによって俳諧の言葉を作ってゆく過程にあった。都市部を中心にある程度共通の口語が広まってくると、出典を意識せずとも自在に句を詠むような「軽み」が可能になる。
十四句目。
今朝みればゐてこし女は貧報神
大酒ぐらひ口そへて露 春澄
女は貧乏神の大酒飲みに頼まれて酒の工面をしているのだろう。末尾に放り込みで「露」というときは涙という意味で、今で言えば「大酒ぐらひ口そへて( TДT)」のようなものだろう。
十五句目。
大酒ぐらひ口そへて露
一座の月八つのかしらをふり立て 似春
大酒飲みといえば「うわばみ」。八つの頭といえば伝説の八岐大蛇(やまたのおろち)。宴会の一座にこんな大うわばみがいて暴れられつと厄介だ。前句の「露」の縁で「一座の月」と「月」を放り込む。一座の主役くらいの意味だろう。
十六句目。
一座の月八つのかしらをふり立て
ばくちに成し小男鹿の角 桃青
鹿の角はサイコロの材料になる。鹿の角で作ったものを頭(かしら)が振ることで博奕が始まる。
前句の「月八つ」はこの場合時刻の夜の八つ、丑三つ時に取り成されたか。
十七句目。
ばくちに成し小男鹿の角
数芝ゐぬれてや袖の雨の花 春澄
この場合の「数」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘接頭〙 名詞の上に付けて、数が多い、安っぽい、粗末な、の意を表わす。「かず扇」「かず雪踏」「かず長櫃」など。
※俳諧・江戸十歌仙(1678)一〇「ばくちに成し小男鹿の角〈芭蕉〉 数芝ゐぬれてや袖の雨の花〈春澄〉」
とある。
どこにでもあるような芝居小屋で、雨で花見に来る人もなく暇を持て余し、結局博奕になる。
十八句目。
数芝ゐぬれてや袖の雨の花
在郷寺を宿として春 似春
在郷は郷里、田舎のこと。田舎わたらいをする役者集団がお寺に宿泊する。
0 件のコメント:
コメントを投稿