日本でもワクチン接種が始まり、余所の国の情報でもかなり効いているようだから、思ったより早くコロナ戦争も終わるかもしれない。そしたらまたいろんなところ行きたいな。もっとも日帰り限定だけど。
大幸薬品の株を「みんなの株式」で見たら、個人投資家の予想と証券アナリストの予想が全く逆だった。この会社は去年の八月をピークに下げトレンドが続いてるけど。
それでは「三冊子」の続き。
「戀の事を先師云ク、むかしより二句結ざれば不用也。むかしの句は、戀の詞を兼而集メ置、その詞をつヾり句となして、心の戀の誠を思はざる也。 いま思ふ所は戀別而大切の事也。なすにやすからず。そのかみ宗砌、宗祇の比迄、一句にて止事例なきにもあらず。此後所々門人とも談じて、一句にても置べき事もあらんかと也。又ある時云ク、前句戀とも戀ならずとも片付がたき句ある時は、必戀の句を付て前句ともに戀になすべしと也。是には此句のみにて、つヾいて戀にも及べからず。新式にも此沙汰あるよし也。しかれども、戀の事は分て其座の宗匠に任すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.88)
恋は『応安新式』にはただ五句としか規定されてない。五句まで続けることができるというだけで二句続けなくてはいけないというルールはない。それは春秋についても同じで春秋は三句以上続けなくてはいけないというのも式目で定められているわけではない。ただ、連歌の時代からこれは暗黙のルールになっていた。
『連歌新式永禄十二年注』には、句数のところに、
「春 秋 恋(以上五句、春・秋句、不至三句ば不用之。恋句、只一句而止事無念云々)」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.123)
とある。
月花の定座というのも四花八月というのも式目にはない。これは連歌でも紹巴の頃から慣習化したもので、定座はその場の臨機応変で繰り上げたり繰り下げたりするのは普通に行われていた。
「むかしの句は、戀の詞を兼而集メ置、その詞をつヾり句となして、心の戀の誠を思はざる也。」というのは、特に談林時代に式目を形式的に守ることで実質的には自由に詠めるようにしたというのがあった。中世の連歌では特に恋の詞というのもなく、内容で判断していた。また、中世の場合、恋は和歌の恋歌のように、自分の気持ちとして恋心を述べるもので、他人の恋を客観的に描くようなことはしなかった。まあ、今でもラブソングというのは恋心を歌うのが普通だが。
江戸時代の俳諧では恋心を歌うということは少なくなり、むしろ恋愛あるあるのようなネタ物が多くなった。この時点で既に恋というテーマは形骸化していた。
たとえば「水無瀬三吟」の十九句目、
わが草枕月ややつさむ
いたずらに明す夜多く秋ふけて 宗祇
の場合、明確に恋の詞が入っているわけではないが、前句と合わせて。
いたずらに明す夜多おほく秋ふけて
わが草枕月ややつさむ
と和歌にしたとき、業平や西行のように身分違いの恋に破れて旅に出た男が、無駄に夜を明かしては月も涙で霞んで見えるという歌になる。恋の詞がなくても実質的に恋の歌だし、また他人の恋ではなくあたかも自分が恋をしてるかのように詠んでいる。
それに続く二十句目、
いたずらに明かす夜多く秋ふけて
夢に恨むる荻の上風 肖柏
にしても、夢にあの人が来てくれたのに、目覚めれば荻の上風の音がアレンジされただけだったと分かって、荻の上風を恨むという歌になり、自分が女の人の身に成り代わって詠んでいる。
これに対し、俳諧の恋句というのは、宗因の「花で候」の巻の五句目を例にするならば、
手と手まくらをかはすとはなし
しのばれぬ昼のやうなる月の夜に 宗因
この句は、
しのばれぬ昼のやうなる月の夜に
手と手まくらをかはすとはなし
と和歌の形にしても、恋歌の体裁にはなっていない。昼のような月の明るい夜だから枕を交わすこともできないというネタであって、情を述べてはいない。和歌なら、
しのばれぬ昼のやうなる月の夜に
手まくらすらもなきぞかなしき
のように、自分の思いとして語らなくてはならない。
まだ芭蕉庵に移る前の談林時代の桃青の俳諧「あら何共なや」の巻でも、
から尻沈む淵はありけり
小蒲団に大蛇のうらみ鱗形 桃青
は「うらみ」が恋の詞ということになるが、内容はから尻馬の鞍に敷く座布団の柄が鱗形で、大蛇の恨みで淵に沈むという内容に何ら恋の要素はない。
ただ、「うらみ」という恋の言葉が出た以上は、次の句は恋にしろというのが、「前句戀とも戀ならずとも片付がたき句ある時は、必戀の句を付て前句ともに戀になすべし」だ。
小蒲団に大蛇のうらみ鱗形
かねの食つぎ湯となりし中 信章
大蛇の恨みを謡曲『道成寺』の、安珍に裏切られた少女清姫の蛇になって道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す場面を下敷きにして、金属製の飯櫃も溶けて湯になるような仲と展開している。この「中(仲)」という言葉が恋の詞になる。もちろんこの恋の激情が自分のものとして表現されることはなく、あくまでネタにすぎない。中世連歌的に作るなら、
小蒲団に大蛇のうらみ鱗形
かねの食つぎ湯ともなさなむ
であろう。恋の言葉がなくても連歌では内容的に恋となる。
「旅の事、ある俳書に師の曰、連哥に旅の句三句つヾき、二句にてするよし。多くゆるすは神祇、尺教、戀、無常の句、旅にてはなるゝ所多し。今、旅、戀、難所にして、又一ふし此所にある。旅躰の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂を越へ、淀の川舟にのる心持、都の便求る心など本意とすべし、とは連(歌)の教也とあり。又、旅、東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覺束なしとも云りと有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.88~89)
恋の時と同様、羇旅も三句までは連ねることができるとあるだけで、式目上は一句でもいいことになっている。春秋も五句までとはあるけど何句以上ということは書かれていないが、春秋の三句以上だけは慣習的に守られている。なお、『応安新式』では「旅行」と書かれているが、これも習慣で連歌では「羇旅」、俳諧では「旅体」という言葉が用いられることが多い。
「神祇、尺教、戀、無常の句、旅にてはなるゝ所多し」というのは、旅体は逃げ句に便利だということで、恋の情は容易に旅の情に転じることができるし、神祇、釈教はそこへの巡礼の道筋を付ければ旅体になる。
俳諧の場合は
文書てたのむ便りの鏡とぎ
旅からたびへおもひ立ぬる 白之
あやの寝巻に匂ふ日の影
なくなくもちいさき草鞋求かね 去来
は恋から旅体、
門跡の顔見る人はなかりけり
笈に雨もる峯の稲妻 芭蕉
朝露の夢に仏を孕らん
笠の下端に結ぶ御祓 古益
は釈教から旅体になる。
「旅躰の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂を越へ、淀の川舟にのる心持、都の便求る心など本意とすべし」は連歌だと恋と同様に自分が旅をしている立場に立って、旅人に成り代わって詠むのが本意だが、俳諧では旅行あるあるになる場合が多い。そういうネタを仕入れる意味でも「東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覺束なし」ということになる。ただこれは女性作者には厳しい。
夏の月御油より出でて赤坂や 桃青
の句は延宝四年の句だが、これも東海道の御油と赤坂が半里しかないことを知らないと意味が分からない。
貞享三年春の「日の春を」の巻九句目、
我のる駒に雨おほひせよ
朝まだき三嶋を拝む道なれば 挙白
の句にしても、これが箱根越えのことだとすぐにわからなくては句を詠むことも、それを聞いて「あるある」と笑うこともできない。
これは東海道を行く旅人ではあるが、連歌のような都を追われた人の情ではない。江戸時代の帰省や商用や参宮で行き来する人の句だ。
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