今日は晴れて暖かく、春が来たのを実感させる一日だった。
楊海英さんの『内モンゴル紛争─危機の民族地政学─』(二〇二一、ちくま新書)で「スーホの馬」のことが出てきた。実の所筆者はこの物語のことを何も知らない。私の通った学校の教科書にはなかったし、その後もこの物語の話を聞くことはほとんどなかった。教科書は学校によって違うから、習った人は知っているのだろう。それでも大抵の人は教科書に載ってたことなんてそんな覚えていないだろう。授業が終わればみんな記憶の外に吹っ飛んで行くもんだ。習っても、そういえばそんな話があったな、くらいにしか覚えてないのではないかと思う。
我が家は左翼の家庭だけど親も別に「スーホの馬」の話はしなかったし、テレビで見た記憶もない。漫画や小説で引用されているのも見たことがない。話を聞いてもこれからも読んでみようとは思わない。だからモンゴルの人もこの物語を日本人の誰もが知る話だとは思わないでほしい。
あと、モンゴルが中国の北だという認識は単純に位置関係として認識しているだけで、政治的な意味を持たせている人はわずかだと思う。たとえばモンゴルの人に埼玉がどこにあるかを説明するときには、東京ならどの辺だかわかるだろうと思って「東京の北にある」と言うだろう。中国がどこにあるかは誰もが知っているが、モンゴルはそれほど有名ではないから、中国の北というだけだと思う。ロシアの南でもいいんだけど、ロシアは東西に長すぎるから、かえってわかりにくい。
日本の大学の中はかなり特殊な世界で、昔の毛沢東崇拝者やその弟子たちが未だに居座ってたりするから、モンゴルから来ると日本が中共に汚染されているかのように感じるかもしれないけど、一般庶民は決してそんなことはないからね。
それでは「三冊子」の続き。
「和哥には連歌あり。俳諧あり。連歌は白川の法皇の御代に連歌の名有。此號の先は繼哥と云。其句の數もさだまらず。日本武尊、東夷せいばつの下向、吾妻の筑波にて、
新はりつくばをこへて幾夜かへぬる
と仰られければ、
かゞなべて夜には九夜日には十日よ
と火燈しの童の次侍る。是連歌の起とすといへり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83~84)
日本武尊を連歌の起源とする説は以前にもあり、「宗牧」の『四道九品』にも「夫連歌は熱田大明神新治筑波の言葉より始まりて」とある。
なお、『古事記』には、「火燈しの童」ではなく「御火焼之老人」とあり、場所も甲斐の酒折宮になっている。今の甲府市酒折では連歌発祥の地ということで、酒折連歌賞を開催しているが、五七七の片歌のお題に五七七の片歌を返すだけのいわゆるネタ物で、中世に隆盛を極めたいわゆる「連歌」には関心がないようだ。
この後日本武尊は科野(信濃)を経て尾張に行き、美夜受比売に草薙剣を預けたのが熱田神宮の起源とされている。
「業平、いせの國かりの使の時に、齋宮、歩行人のわたれどぬれぬえにしあらば、と云上に、又逢坂の關は越なん、その盃の皿のついまつのすみして、哥の末を書付とあり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)
これは『伊勢物語』第六九段で、
歩行人のわたれどぬれぬえにしあらば
又逢坂の關は越なん 業平
となる。
和歌の上句と下句を分けた古い例となる。「ついまつのすみして」は「続松の炭」で、松明(たいまつ)を燃やした炭という意味。「続松(ついまつ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「つぎまつ(継松)」の変化した語)
① 松明(たいまつ)のこと。
※伊勢物語(10C前)六九「その杯の皿に、ついまつの炭して歌の末をかきつぐ」
② (斎宮が杯に歌の上(かみ)の句を書いて出したのに対して、在原業平が、続松(ついまつ)の炭を用いて下の句を続けて書いたという「伊勢物語」の故事から) 歌ガルタ、歌貝などの、和歌の上の句と下の句とをとり合わせる遊戯。特に歌ガルタの場合が多い。続松草(ついまつぐさ)。
※評判記・色道大鏡(1678)七「続松(ツイマツ)うたがるたの事也」
※浄瑠璃・本朝二十四孝(1766)一「お慰みに琴の組でも続松(ツイマツ)でも始め」
とある。
ただ、これが和歌の上句と下句を分けた最古の例というわけではなく、二条良基の『連理秘抄』には、
「万葉が尼が
さほ河の水をせきあげてうへし田を
といふに、家持卿
かるはついねはひとりなるべし
と付けける」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.24)
の短連歌を記している。
「後鳥羽の院時、禪阿彌法師小林と云、連哥差合其外の句法式の書作れり。是本式なり。聯句法立也。是より新式あり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)
これも二条良基の『連理秘抄』には、
「建保の比より、後鳥羽院殊にこの道を好ましめ給て、定家、家隆卿など細々に申行はれけるにや、懸物百種を句に随ひて給はせけるなど、この人この人も多く記しをかれたり、八雲の御抄にも末代殊に存知すべしとて、式目など少々記さるるにや、為家為氏卿みな相続して賞玩せられける故に、この道いよいよ盛にして、家々の式など多く流布せり」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.25)
とある。禪阿彌法師小林については不明。
『連歌の世界』(伊地知鐵男、一九六七、吉川弘文館)によれば、「後鳥羽院のころにはほぼ五十韻・百韻に定着して、その後は百韻が一応の基準にさだまった」(p.13)とある。
「俳諧と云は黄門定家卿の云、利口也。物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付、物いはぬものに物いはせ、利口したる體也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)
「利口」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①上手に口をきくこと。話し上手。
②こっけいなことを言うこと。冗談。
③賢明であること。利発。」
とある。今日では③の意味だけが残っているが、ここでは①と②の意味を合わせたような意味であろう。
①の意味だと物語のいわゆるフィクションの才能に近くなる。物語というのは言ってみれば作り話であり、上手に嘘をつくことだ。たとえ歴史小説や社会は小説でも、そこで語られていることは事実そのものではなく、資料や搔き集めた情報に基づきながら、作者の想像力で作り上げられた虚構の世界で、要するに「見てきたような嘘」だ。ただ、それを否定すると文学というのは成立しなくなる。ノンフィクションだって作者の解釈が込められているだけでなく、作品をどう読むかも読者の想像力にゆだねられている。つまり①は俳諧に限らず、すべての文学の根底だといってもいい。
②の方は俳諧に特に重要な要素と言ってもいいが、もちろん他の文学でも笑いの要素は欠かすことができない。シリアスな話でも読者が興味を持って読んでもらうには②の要素は欠かせない。
和歌でも王朝時代の宮廷で歌合せが行われ、題詠で詠む際には、作者の想像力でもってその場にない景色や状況、恋物語などを想像し、歌を詠まねばならない。その意味で和歌でも上手に嘘をつくことと、それを面白くすることは絶対といってもいい。
「韻學大成に、鄭綮詩語多俳諧。俳は戯也、諧は和也、唐にたはむれて作れる詩を俳諧と云。又滑稽と云有。滑稽は菅仲楚人答る也。本朝に一休和尚あり。是等は人に相當る答の辨の上にありて、いはゆる利口也。古今集にざれ哥と定む。是になぞらへて連哥のたヾごとを世に俳諧の連歌という。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)
「韻學大成」は濮陽淶の『元聲韻學大成』のことか。鄭綮(ていけい)は唐末期の人で「维基百科」に「他以作歇后语诗讽刺政局打动唐昭宗闻名(唐昭宗を感動させる政治情勢を風刺した寓話詩で有名であり)」とある。
「俳は戯也」というのは俳という文字の意味で、藤堂明保編の『学研漢和大字典』には、
「①《名》右と左と並んでかけあいの芸をして見せる人、おもしろい姿をして見せる道化役、のち広く役者のこと。「俳優」
②《名》戯れ。ざれごと。
③《動》ひと筋に歩かず、右に左にとコースを踏みはずしてさまよう。ぶらつく。」
とある。①の意味だと、中国にも漫才のようなものがあったのか。③は徘徊の「徘」と同じ。
同じく「諧」は藤堂明保編の『学研漢和大字典』に、
「①《動》やわらぐ・やわらげる 調子をあわせてうち解ける。また、穏やかにする。
‥‥略‥‥
④《名》たわむれ 調子のよいことば。じょうだん。また、こっけいなおもしろさ。」
とある。
俳諧というのはまさに変化球で、右に左に揺さぶって婉曲に物事を言いながら人の心を和らげることだと言っていいだろう。
「滑稽」もまた、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「古代中国,戦国から秦・漢時代にかけての宮廷には,機転の利いたユーモアと迫真の演技力をまじえながら,流れるように滑脱な弁舌をもって,君主の気晴しの相手となり,また風刺によって君主をいさめる人々が仕えていた。滑稽の原義はそのような人々,またはそのような能力を意味する。幇間(たいこもち),道化,あるいは言葉の原義での〈俳優〉の一種であるが,そのなかには漢の武帝に仕えて〈滑稽の雄〉といわれた東方朔のように教養ゆたかな文士もいた。」
とあるように、俳諧とほぼ同義と言っていい。「菅仲楚人答る」は不明。斉の菅仲の故事か。一休和尚は頓智一休で有名だが、いずれも弁説のうえでの「利口」であって、詩歌の利口ではない。
詩歌の方では『古今和歌集』の俳諧歌があり、連歌の「ただごと」、つまり雅語ではない言葉で作ったものを俳諧という。俳諧は俗語の連歌というのは当時の共通認識だった。
なお、『俳諧無言抄』(宗因著、延宝二年刊)の「京」の「俳諧」の項に、
「韻學大成に、鄭綮詩語多俳諧俳と見え侍。俳は戯也、諧は和也。唐にもたはむれてつくる詩を俳諧と云より、古今集にされうたを俳諧哥と定給し也。」(信大・医短・紀要Vol.8,No.1,1982『俳諧無言抄 翻刻と解説その一、翻刻』より)
とある。今ならコピペ疑惑というところか。
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