2021年2月19日金曜日

  コロナの新規感染者数は底打ち感が出てきた。今の自粛のレベルではこれ以上減らすのは難しいかもしれない。春だからといって浮かれてもいられない。
 街道ウォークは結構楽しかったし、夏の気温とワクチンである程度収束したら再開したい。別に有名観光地に行ったり高い料理を食ったり温泉に入ったりしなくても、楽しい旅ってあると思うよ。今日ニュースサイト見ていてマスツーリズムという言葉を知ったが、そういうのってそろそろ終わりでいいんじゃないかな。

 それでは「三冊子」の続き。

 「等類の事おろそかにすべからず。師のいはく、他の句より先我が句に我が句、等類する事をしらぬもの也。よく思ひ別て味べし。若、わが句に障る他の句ある時は、必わが句を引べし。趣向に表と裏の事あり。句にもよるべしと云ながら、大様のがして等類になさず取べし。ふるき連歌に、思はぬ方にちらす玉章、と云前句に、山風や枝なき花を送るらん、と有。この句、山風の枝なき花を送るこそ、全ちりたる躰、前句同意の連歌と沙汰しけるよし有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.90)

 当時はいわゆる著作権という概念はなかったが、一定の暗黙のルールは存在していた。盗作はもとより、たとえその意図のない偶然の一致でも、似た作品があれば大衆はパクリではないかと疑い、その噂が広まれば作者としての信用を失うことになる。それは今と変わらないと思っていい。著作権はこうした自然権に基礎を持っているといった方がいい。(対立する民族からパクるのは良いという愛国無罪の論理が働くと、この自然権が機能しなくなることもあるが。)
 『去来抄』には、

 「月雪や鉢たたき名は甚之亟
 去来曰、猿ミの撰ノ比伊丹の句に、弥兵衛とハしれど憐あはれや鉢扣と云有。越が句入集いかが侍らん。先師曰、月雪といへるあたり一句働見へて、しかも風姿有。ただしれど憐やといひくだせるとハ各別也。されど共に鉢扣の俗体を以もつて趣向を立たて、俗名を以て句をかざり侍れば、尤も遠慮有なんと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.16)

とあるように、パクリではなくても先行する似た句があると発表を控えるくらいに用心していた。今なら裁判で無関係だと争うこともできるかもしれないが、当時は風説抗す手段もなかった。
 それゆえ「等類の事おろそかにすべからず」は当たり前のことで、むしろ今よりも神経質になっていたと思われる。ただ、それは作品に関してで、知識に関しては共有物という意識が強く、引用された文章に出典を明記する習慣はなかった。今でも学問に関しては引用を明記する必要があるだけで、使用料を払う必要はない。
 むしろ芭蕉が強調したのは、自分の作品であっても過去の作品に類似するものは控えるということだった。
 たとえば芭蕉が死の直前の話で、支考が『前後日記』に記した、

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 清滝や浪にちり込青松葉     翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

ということにも現れている。
 この改作が有名な「旅に病んで」の句より一日あとということから、「清滝や」の句が芭蕉の絶筆だという人もいる。まあ、ここまで来ると絶筆の定義の問題になってしまう。両方とも絶筆でいいと思う。
 そして「若、わが句に障る他の句ある時は、必わが句を引べし」とするのは、自分に厳しければ、当然他人の句との類似にも厳しくなるという意味だろう。
 「趣向に表と裏の事あり。句にもよるべしと云ながら、大様のがして等類になさず取べし」というのは、表面的に似ていても実際の意味が違う場合の事であろう。『去来抄』にも、

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆
 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

 蕣の裏を見せけり秋の風
 くずの葉の面見せけり今朝の露   芭蕉

 野を横に馬牽むけよほとゝぎす   芭蕉
 面梶よ明石のとまり時鳥      野水

といった類似が問題になっている。
 「樫の木」の句は『野ざらし紀行』の旅で三井秋風を訪ねた時に、談林の主要人物が次々と亡くなったことを悲しんでた時にそれを慰めるために詠んだ句で、表向きの言葉通りの意味ではない。
 「くずの葉」の句も反目していた嵐雪が戻ってきた時の句で、これも言葉通りの意味ではない。
 「野を横に」の句も『奥の細道』の旅で馬引きに発句をねだられて、ならばホトトギスの所に案内してくれという裏の意味のある句で、発句にはこうした表裏のある句が多く、表面的な言葉の類似だけで等類にはできない。
 「ふるき連歌」の例は、

   思はぬ方にちらす玉章
 山風や枝なき花を送るらん

という付け句が、「枝なき花」は散った枝で同語反復に近いという指摘で、等類の問題からは外れるように思える。打越の句がわからないから何とも言えないが、打越が恋の句で手紙を書き散らすの意味だったとしたら、「枝なき花」は「ちらす」を別の意味に取り成しているから問題ない。『応安新式』には「玉章にこと葉 歌にことのは 敷島の道に歌」などの同語は「如此類不可付之」とある。それの拡大解釈であろう。

 「又いはく、
  都をバ霞とともに出しかど
   秋風ぞふく白河のせき
  都にはまだ青葉にて見せしかども
   もみぢちりしく白河の關
 此哥の叓、師のいはく、いにしへより色をわかちたる作意によりて、等類のがれたると云来る也。さもあるべし。今師の思ふ所、後のうた、卯月此都を出て、十月に及び白川に至り、紅葉のちり敷たるを見て、前の能因法師の哥を思ひだし、彌その哥の妙所を感德したりと、云心より詠る哥なるべし。是にて等類よくのがるゝと云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.90~91)

 この、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
             能因法師
 都にはまだ青葉にて見しかども
     紅葉散り敷く白河の関
             源頼政

のことは昔からよく似ていることで有名で、頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められていた。能因法師の歌の方は「みちのくにゝまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける」という前書が付いていることから、本当に旅で詠んだとされていた。もっとも、『十訓抄』や『古今著聞集』には旅をしたように装って発表したとされているが。
 芭蕉は両方とも旅で詠んだと思っていたのだろうか。これだと能因をリスペクトしていて、そのオマージュだという論理に近い。まあ、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな  宗祇
 世にふるもさらに宗祇の宿りかな  芭蕉

の類似に関してはそうなのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿