今日は節分でいつもより一日早い。旧暦だと明日は年内立春になる。春だけど俳諧ではまだ冬が続く。
今年は鬼は外ではなく「鬼は斬る、禰󠄀豆子ちゃんは内」になるのかな。
それでは「あら何共なや」の巻の続き。
名残表。
七十九句目。
匂ひをかくる願主しら藤
鈴の音一貫二百春くれて 桃青
願掛の儀式を行ってもらったが、神主さんが鈴を一振りするたびに一貫二百文の金が出て行く。
八十句目。
鈴の音一貫二百春くれて
かた荷はさいふめてはかぐ山 信章
「さいふめる」は「細布+めく」だろう。細布のようなもの。バールのようなものは古語だと「バールめくもの」になるのだろうか。
細布はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 奈良・平安時代、細い糸で織った布。原料は麻、紵など。上質の布。一般の調布よりも幅が狭く、一端の長さが長く軽い。
※続日本紀‐和銅七年(714)二月庚寅「去レ京遙遠、貢調極重。請代二細布一、頗省二負担一。其長六丈」
② 綿織物の一種。経(たていと)緯(よこいと)とも二〇番ないし二四番ぐらいの細い単糸を、細かく平織にしたもの。」
とある。
天秤の片方には鈴、片方には細布で春の暮に香具山の方へと運ぶ。
「春くれて」「かぐ山」の縁は、
春過ぎて夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ天の香具山
持統天皇(新古今集)
による。
八十一句目。
かた荷はさいふめてはかぐ山
雲助のたな引空に来にけらし 信徳
雲助はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 江戸時代、住所不定の道中人足。宿駅で交通労働に専従する人足を確保するために、無宿の無頼漢を抱えておき、必要に応じて助郷(すけごう)役の代わりに使用したもの。くも。
※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「雲助のたな引空に来にけらし〈信徳〉 幽灵(ゆうれい)と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉」
② 下品な者や、相手をおどして暴利をむさぼる者などをののしっていう。
※甘い土(1953)〈高見順〉「気の弱そうなこの男が、一時は『雲助』とまで言われた流しの運転手を、よくやれたものだ」
とある。近代ではタクシーやトラックの運転手への蔑称としても「雲助」という言葉が用いられていた。
細布を運ぶのは雲助で、雲と名がつくだけあってたなびく空から香具山に降りてくると、これはシュールネタ。
ほのぼのと春こそ空に来にけらし
天の香具山霞たなびく
後鳥羽上皇(新古今集)
をふまえる。
八十二句目。
雲助のたな引空に来にけらし
幽霊と成て娑婆の小盗 桃青
空中に漂っているということで前句の雲助を幽霊とした。ただ、雲助はこの頃からいかにも小盗みをしそうなならず者というイメージだったようだ。
八十三句目。
幽霊と成て娑婆の小盗
無縁寺の橋の上より落さるる 信章
「無縁寺」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「[1] 弔う縁者がなかったり、身元の知れなかったりする死者を葬る寺。無縁仏を回向(えこう)するための寺。むえんでら。
※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「幽霊と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉 無縁寺の橋の上より落さるる〈信章〉」
[2] 東京都墨田区両国にある浄土宗の寺、回向院の寺号。山号は諸宗山。明暦三年(一六五七)の大火で焼死した十万八千余の無縁仏をこの地に埋葬し、その菩提を弔うために建立。開基は遵誉。開山は自心。以後、江戸の無縁仏はすべてこの寺に葬られた。」
とある。回向院が両国橋の所にあったので「橋の上より落さるる」としたのであろう。
八十四句目。
無縁寺の橋の上より落さるる
都合その勢万日まいり 信徳
「都合その勢」と軍記物のように思わせて、一万の兵ではなく万日参りの賑わいだった。
千日参りだと、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 祈願のため千日の間、毎日、神社・仏閣に参詣すること。千日。千日詣。
※多聞院日記‐永祿九年(1566)正月二三日「愚身千日参・七月精進・七夜待以下の行をするを」
② 特に、江戸時代、一日参詣すると千日分の功徳に値するとされた特定の日。また、その日に参詣すること。江戸の浅草寺では陰暦七月一〇日、京都の愛宕神社では陰暦六月二四日。千日詣。四万六千日。〔日次紀事(1685)〕」
とあるが、万日参りはないところを見ると信徳さんが少々盛ったか。
八十五句目。
都合その勢万日まいり
祖父祖母早うつたてや者共とて 桃青
「うつたつ」は「うっ発つ」で出発のことで、爺さん婆さんが「はよ行ってこいや」っという感じか。「ものども」というところで何か合戦に行くみたいなイメージになり、前句につながる。
八十六句目。
祖父祖母早うつたってや者共とて
鼓をいだき草鞋しめはく 信章
前句の「うつたてや」を鼓を「打ったてや」と両方の意味にする。「うっ発てや」の意味もあるので草鞋を履く。
八十七句目。
鼓をいだき草鞋しめはく
米袋口をむすんで肩にかけ 信徳
昔の人は60キロの米俵を誰もが担いでいたという。ネット上に五俵300キロを担いでいる写真があるが、あれはやらせで、いくらなんでも無理だ。
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『百万』の、「親子のちぎり麻衣、肩に結んで裾にさげ、裾を結びて肩にかくる、筵ぎれ」を引用している。これは嵯峨の大念仏に向かう場面。
八十八句目。
米袋口をむすんで肩にかけ
木賃の夕部風の三郎 桃青
木賃宿はウィキペディアに、
「本来の意味は、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠の意味である。宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。」
とある。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「木銭宿ともいう。宿泊代金が薪水の費用のみであった頃の旅宿の呼称。慶長 19 (1614) 年の令には,「旅人駅家に投じてその柴薪を用うれば,木賃鐚銭三文を出し…」というのがある。野宿から旅籠 (はたご) に移る過渡期の宿泊所で,鎌倉時代に生れた。近世以降はきわめて宿泊料の安い宿泊所をいうようになった。」
とある。
米持ち込みだが、旅ともなるとさすがに米俵ではなく、何日分かの米を入れる米袋があったのだろう。
風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。
ウィキペディアの「風神」の所には、
「第3義には、江戸時代の日本にいた乞食の一種で、風邪が流行った時に風邪の疫病神を追い払うと称して門口に立ち、面をかぶり鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして金品をねだる者、すなわち「風神払/風の神払い(かぜのかみはらい)」を指す。」
とあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、
「③ こじきの一種。江戸時代、風邪がはやった時、風の神を追い払うといって、仮面をかぶり、太鼓を打って、金品をもらい歩いた者。風の神払い。」
とある。木賃宿に泊まるのはこの風神か。
八十九句目。
木賃の夕部風の三郎
韋達天もしばしやすらふ早飛脚 信章
前句の風神風の三郎を早飛脚とする。足の早い韋駄天もその速さにしばし立ち止まってしまうほど早い。
九十句目。
韋達天もしばしやすらふ早飛脚
出せや出せと責る川舟 信徳
いくら足の早い飛脚も川止めにあってはどうしようもない。早く舟を出せと急かす。
九十一句目。
出せや出せと責る川舟
走り込追手㒵なる波の月 桃青
舟を出せと何をそんなに急いでいるのか。波に映る月が追手に見えるのか。月が沈むまでに渡りたいということか。
九十二句目。
走り込追手㒵なる波の月
すは請人か芦の穂の声 信章
請人は連帯保証人のこと。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「鎌倉,室町時代の荘園において,地頭,荘官らが一定額の年貢納入を荘園領主に対して請負う場合 (→請所 ) ,請負う側のものを請人といった。また,中世,近世における保証人を請人と称した。中世における請人は,債務者の逃亡,死亡の場合に弁償の義務を負い,債務者の債務不履行の場合にも,請人に弁償させるためには保証文書にその旨を記載する必要があった。近世における請人は,人請,地請,店請,金請などの場合が主であったが,金請の場合中世とは異なり,債務者の債務不履行の場合当然に弁償の義務を負い,債務者の死失 (死亡) の際に請人に弁償させるためには債務証書にその旨を記載する必要があった。しかし,宝永1 (1704) 年以降,死失文言の有無にかかわらず,債務者死失のときも請人が弁償すべきものとされた。」
とある。近代でも「連帯保証人」という名前で民法に規定されてきた。基本的に無限責任だったため、他人の拵えた借金で破産・一家心中など悲惨なことになっていた。去年2020年にようやく補償すべき債務の限度額を契約書に明記しなければならなくなった。
ある意味近代のような法治国家の方が過酷だったかもしれない。江戸時代であれば請人が借金をした張本人を自力救済で締め上げることもできただろう。
請人につかまったらどうなるか分かったもんではない。芦の穂の向こうから物音が聞こえてくると請人が追ってきたのかとびくっとする。実際は波の音だった。
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