今日も一日快晴。月がよく見える。
コロナもこの調子だと月曜日の東京は500人切りそうだ。政府が無策でも感染が収まる、本当に不思議な国だ。感染者の監視システムはおろか、罰則もなければ義務すらない。
思うにアンチというのは最初の流行に乗り遅れた人の中で、とりわけプライドの高い人というのは後追いするのを恥と思って、へっ俺はそんなもん興味ねえんだと強がってしまうところから生まれるんではないかと思う。
去年の今頃既にネットでは中国が大変なことになっていると騒いでいたが、それに乗り遅れたプライドの高い人たちというのが、コロナなんてただの風邪だだとかコロナはフィクションだって言ってるんじゃないかな。
それでは「あら何共なや」の巻の続き。
三表。
五十一句目。
余波の鳫も一くだり行
上下の越の白山薄霞 信徳
雁が「こしのしらやま」を越えて行く。今は加賀白山(かがはくさん)と呼ばれている。
君がゆく越の白山知らねども
雪のまにまにあとはたづねむ
藤原兼輔(古今集)
の歌に詠まれている。
謡曲『白髭』に、「天つ雁、帰る越路の山までも」とある。
「上下(かみしも)」は裃のことだが、ここでは「裃の腰」と掛けて枕詞のように用いられている。
五十二句目。
上下の越の白山薄霞
百万石の梅にほふなり 桃青
白山は加賀国にあるので加賀百万石の梅が匂う。
五十三句目。
百万石の梅にほふなり
昔棹今の帝の御時に 信章
「棹」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「ここでは検地のこと。『昔棹』は文禄の検地のことか」とある。いわゆる太閤検地。
ちなみに延宝五年の時の帝は霊元天皇で寛文三年即位、貞享四年に退位した。
五十四句目。
昔棹今の帝の御時に
守随極めの哥の撰集 信徳
ウィキペディアによれば霊元天皇は、
「霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。」
とある。
守随(しゅずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「江戸時代、幕府の許しにより、東三三か国における秤のこと一切をつかさどる特権をもった、江戸秤座(はかりざ)守随彦太郎家。または、守随家によって製作、検定された秤。転じて、一般に秤をいう。なお西三三か国は、神善四郎家が、京秤座としてつかさどった。
※御触書寛保集成‐三四・承応二年(1653)閏六月「一 守随、善四郎二人之秤目無二相違一被二仰付一候上ハ、六拾六箇国ニて用レ之、遣可レ申事」
とある。前句の「棹」と縁がある。ただ、霊元天皇が守随を極めたとは思えない。
五十五句目。
守随極めの哥の撰集
掛乞も小町がかたへと急候 桃青
前句の「守随」を商人の持つ天秤として、「哥の撰集」だから小野小町の所へ年末決算の掛売りの代金を取りに行く。これも時代を無視したシュールギャグ。
五十六句目。
掛乞も小町がかたへと急候
これなる朽木の横にねさうな 信章
『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもある通り、謡曲『卒塔婆小町』に、
「余りに苦しう候に。これなる朽木に腰をかけ休まばやと思い候」
とある。掛乞いの取り立て先は小野小町のことだから「これなる朽木」の横だろう。
五十七句目。
これなる朽木の横にねさうな
小夜嵐扉落ては堂の月 信徳
堂に泊まろうと思ってたら嵐で扉が壊れていたので朽木の横に寝る。
五十八句目。
小夜嵐扉落ては堂の月
ふる入道は失にけり露 桃青
昔ここにいた老いた入道はいなくなっていた。涙の露(TдT)。
五十九句目。
ふる入道は失にけり露
海尊やちかい比まで山の秋 信章
前句の「ふる入道」を常陸坊海尊とする。
常陸坊海尊はウィキペディアに、
「源義経の家来となった後、武蔵坊弁慶らとともに義経一行と都落ちに同行し、義経の最後の場所である奥州平泉の藤原泰衡の軍勢と戦った衣川の戦いでは、源義経の家来数名と共に山寺を拝みに出ていた為に生き延びたと言われている。」
とある。
また、
「江戸時代初期に残夢という老人が源平合戦を語っていたのを人々が海尊だと信じていた、と『本朝神社考』に林羅山が書いている。」
とあるので、「ちかい比まで」生存説があったようだ。
六十句目。
海尊やちかい比まで山の秋
さる柴人がことの葉の色 信徳
山の秋だから葉の色は赤。つまり赤嘘(あかうそ)。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「あか」は全くの意の接頭語) 全くのうそ。まっかなうそ。
※俳諧・毛吹草(1638)六「赤うそといはん木葉(このは)の時雨哉〈由氏〉」
とある。海尊は遠い昔に死んでいる。
六十一句目。
さる柴人がことの葉の色
縄帯のそのさまいやしとかかれたり 桃青
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、謡曲『志賀』の、
「さりながら、かの黒主が歌の如く、その様いやしき山賤の薪を追ひて花の蔭に休む姿はげにも又‥‥数多き言の葉の心の花の色香までも」
を引用している。これは古今集仮名序の、
「おほとものくろぬしは、そのさま、いやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」
による。
前句の柴人を大友黒主とする。
六十二句目。
縄帯のそのさまいやしとかかれたり
これぞ雨夜のかち合羽なる 信章
「かち合羽」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「合羽の両袖があって裾の短いものをいう。歩行者用。」とある。「雨夜」はここでは品定めではなく、
弥陀頼む人は雨夜の月なれや
雲晴れねども西へこそゆけ
西行法師(玉葉集)
という謡曲『百万』に引用されている歌で、前句の卑しい様を巡礼者としたのではないかと思う。
六十三句目。
これぞ雨夜のかち合羽なる
飛乗の馬からふとや子規 信徳
通りすがりの馬に乗せてもらったがホトトギスの声がしたので、よく聞こうとして馬を降りてしまった。これぞ徒歩合羽。
みちゆく人きのもとにゐてほととぎすの
なきてゆくをおよびさしていふことあるべし
たまほこの道もゆかれずほととぎす
なきわたるなるこゑをききつつ
紀貫之(古今集)
の歌のも通じる。
雨のホトトギスは、
五月雨に物思ひをれば郭公
夜ふかく鳴きていづちゆくらむ
紀友則(古今集)
の歌がある。
六十四句目。
飛乗の馬からふとや子規
森の朝影狐ではないか 桃青
「狐を馬に乗せたよう」という諺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「ぐらぐらと動いて落ち着きのないこと。また、あいまいでつかみどころのないこと。言うことに信用がおけないこと。きつねうま。
※俳諧・毛吹草(1638)二「きつねむまにのせたるごとし」
とある。
ホトトギスの一声は、
ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
ただ有明の月ぞ残れる
後徳大寺左大臣(千載集)
のように明け方に詠まれることも多い。
馬に何かが飛び乗ってきたと思ったらホトトギスだった。きっと狐が化けたのだろう。