2025年3月2日日曜日

 今日は湯河原の「湯河原春のたより俳句大会」へ行った。
 湯河原の街を散歩した。

 人声の霞は遠く海朝日  人声の怖くはないと花を友

 そのあとHUMANS BEERでビールを飲んだ。

 湯河原やクラフトビアの桃の酒

2025年2月28日金曜日

  今日は句会があった。

 凧天に武者も役者も中間も
 薄ら氷のかけらの如し全世代
 むしられることが前提草萌ゆる

 「句兄弟」の方、岩波文庫の『毛吹草』が届いたので、この前の七番の「禅寺のはなにこころやうき蔵主」の作者名がわかった。

 禅寺の花に心や浮坊主   弘永

とあった。堺市中央図書館/堺史のHPに、

 「夕陽菴弘永
 夕陽菴弘永其姓氏は明かでない。【堺の俳人】堺の人で、後天王寺村に卜居し導と改めた。【松江重賴の門人】俳諧を松江重賴に學び、晚年師風を變じて異體の句を吟じた。或は弘永は重賴の門葉でなく、其知友だともいはれてゐる。【家集】家集に獨吟集がある。歿年世壽は詳でない。案ずるに寬文の末頃の人であらう。(誹家大系圖)」

とある。

2025年2月27日木曜日

 今日は小田原の辻村植物公園の梅を見に行った。行く時には小田原フラワーガーデンの前を通り、そのあと小田原城にも寄った。

 それでは「句兄弟」の続き。

「九番
  兄
達磨忌やあさ日に僧のかげ法師   岩翁
  弟
達磨忌や自剃にさぐる水かがみ

 論俳句如禅日の影と水影差別なし。空房獨了の以て似ぬ影二句一物なし。」(句兄弟)

 岩翁は息子の亀翁ともども其角の門人。『雑談集』の大山詣や、この『句兄弟』所収の元禄七年の大阪行きの「隨縁記行」にも同行している。
 達磨忌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「達磨忌」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 禅宗で、始祖達磨大師の忌日に行なう法会。毎年一〇月五日。少林忌。初祖忌。《 季語・冬 》
  [初出の実例]「二祖と云は、達磨忌と百丈忌とぞ」(出典:百丈清規抄(1462)三)」

とある。今は月遅れで11月5日に行う所もある。禅宗だけに、儀式にそれほどの派手さはなく、禅僧が集まって、朝日にその影が出来て、これが本当の影法師ぐらいしか見どころがなかったのだろう。
 影法師というと、貞享五年の芭蕉の『笈の小文』の旅で、吉田宿から保美の杜国の所へ向かう時に、

 冬の日や馬上に氷る影法師   芭蕉

の句を詠んでいる。「法師」というのは影が黒いから黒い僧衣を着ているみたいだといういみだろうけど、この時の芭蕉も僧形だったと思われるし、達磨忌の影法師も皆僧形で、どっちが影だか、という所が一応の面白さというか、朝日や冬の低い日に、一方では長い影が出来て、一方では日を背にしたシルエットになった黒い実体があって、どっちが影やらという、そこが重要なのかもしれない。
 ところで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「影法師」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =かげえ(影絵)②③
  ② 光をさえぎったため、地上や障子、壁などにその人の形が黒く映ったもの。かげぼう。かげぼし。かげんぼし。
  [初出の実例]「影法師見苦しければ辻相撲月をうしろになしてねるかな」(出典:七十一番職人歌合(1500頃か)六三番)
  ③ 鏡や水などに映った像。
  [初出の実例]「水鏡を見てあれば、影法師が我があいてになって、いつもかわらずけらけら咲をして戯るるぞ」(出典:四河入海(17C前)二)
  ④ ( 影の人の意 ) 演劇や映画などで、ある人物の替え玉となる人。吹き替え。スタンドイン。
  [初出の実例]「ハテナ、わしゃ、かげぼうしかとおもった」(出典:咄本・出頬題(1773)芝居)
  ⑤ 想像によって目の前に描き出す、人物や物事。
  [初出の実例]「皆此方の影ぼうしを相手にして、けんくゎする様なものぢゃ」(出典:松翁道話(1814‐46)一)」

となっている。今はあまり使われないが③の意味が17世紀にはあったようだ。そこで、其角の句の「自剃にさぐる水かがみ」の水に映る自分の姿も「影法師」と呼ばれてたことがわかる。
 「論俳句如禅日の影と水影差別なし」というのが、どちらも当時は影法師と呼ばれていたという点では、確かに言葉の上では差別はない。「論俳句如禅」は当時は「俳句」という単語がなかったから、禅の如く俳の句を論ずということだろうか。その上で「日の影と水の影」は同じ影法師という言葉で言い表され、空房(他に誰もいない部屋)で獨了(一人悟る)なら、日の影と水の影は同じ物だ、と禅問答めいている。
 確かにどちらも虚像には違いない。ただ、よくよく悟るなら、目に映るものはすべてが虚。日の影も水の影も虚なら、そこにいる僧もまた虚。形あるものはすべてが影法師にすぎないということになる。
 禅においてもそうだし、俳諧でいう虚実論の「虚」もまた我々近代人が考えるような「虚構」のことではなく、神羅万象目に移り耳に聞こえるものみな「虚」に含まれる。そこから喚起される風雅の誠の情だけが「実」ということになる。

2025年2月26日水曜日

 今日は秦野の上大槻の菅原神社の梅を見に行った。
 気温もようやく昼くらいには上がって暖かくなり、もうすぐ河津桜の季節になる。それまではまだまだ梅見の季節が続く。

 それでは「句兄弟」の続き。

「八番
  兄
陰をしき師走の菊のよはひかな   露沾
  弟
秋にさへ師走の菊も麦ばたけ

 中七字珍重すべし、歳の昏の惜まるる詠より分て霜雪の凋むに後るる対をいはば僅かに萌いでし麦の秋後の菊をよそになしけん姿と句とただちに立り。愛菊の情かはらずして光陰を惜むと待とにわかれたる也。」(句兄弟)

 菊は重陽の頃を過ぎると霜に当って枯れるというのを本意とするので、そこで枯れずに残った師走の菊は長生きしたわけだが、それもおそらく年を越すことがなく、つまり露沾の句は新年を迎えて一つ年齢を重ねることもないという意味で言っているのだろう。
 長生きはしても死は免れないという、人の年齢にも重なる。
 其角はこの師走に残った菊と対句になるように、芽の出てきた麦を添える。こういう対句は漢詩的な発想だが、付け句の際の相対付けもこの発想になる。師走の菊というのが一つの趣向として面白いということで、その時芽生えた麦もやがて麦秋を迎える、という時間の半年異なるものを取り合わせるというのだが、かなり無理な感じの取り合わせだ。
 意味としては「師走に芽生えた麦もやがて夏に麦秋にさえなるものを、まして師走の菊はなお哀れなり」だが、それを五七五に収めるのはかなり苦しい。

2025年2月25日火曜日

  今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。梅も大分先揃ってきた。

 それでは「句兄弟」の続き。

「七番
  兄
禅寺のはなにこころやうき蔵主
  弟
客数寄やこころをはなに浮蔵主

 ざれ句にたてし詞ながら古来は下へしたしむ五字を今さら只ありにいひ流したれば、花見る庭の乱舞をよせたり。毛吹時代の老僧など当座取望むならば花やかに耳立たらん句よりは得興の専をとるべきや。」(句兄弟)

 兄句は正保元年(1645年)刊松江重頼編『毛吹草』所収の古い句。
 「浮蔵主(うきざうす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浮蔵主」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 ( 「蔵主」は禅寺の経蔵を管理する僧職 ) ひょうきんな僧侶。心のうわついた道楽坊主。
  [初出の実例]「禅門うき蔵主にてよき伽なり」(出典:咄本・醒睡笑(1628)一)」

とある。
 禅宗はあまり戒律とかに頓着しない傾向があり、座禅の瞑想による判断停止状態(エポケー)の状態で得られる、様々な先入観から解放された自由を尊ぶ所がある。一休禅師など、その典型とも言える。世間から見れば生臭坊主だとか浮蔵主とかいうことにもなる。
 兄句はそういうあたりで、禅寺の浮蔵主は花に浮かれていても、花の心は禅の心にも通じるということなのだろう。
 「花やかに耳立たらん句」の耳立はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「耳立つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 耳ざわりに聞こえる。角立って耳にさわる。
  [初出の実例]「ただならずみみたつことも、おのづから出でくるわざなれ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜上)
  ② 聞いて心にとまる。
  [初出の実例]「下のきざみといふきはになれば、ことにみみたたずかし」(出典:源氏物語(1001‐14頃)帚木)」

の意味があるが、この場合は花やかを受けて、「耳障りの良い、一般にわかりやすい」くらいのニュアンスか。面白いけど、面白さがわかりやすすぎてあざといとうことか。
 それに対し「得興の専」、興を得るを専らとする、というというのは、禅の心などと言う大仰なテーマを外すということだろう。単純に数寄者の客の求めに応じて逆らわずに心を花にできる、なかなか場を心得た浮坊主という人柄の良さの方に持っていく。

2025年2月24日月曜日

  昨日、今日と雪のちらつく寒い日が続く。昨日は句会があった。

 薄ら氷や割れて命の封を解く
 凧揚げの空に消えゆく心かな
 春愁やカードゲームの終わりなき

 それでは「句兄弟」の続き。

「六番
  兄
三絃やよし野の山をさつきさめ   曲水
  弟
三味線や寝衣にくるむ五月雨

 さみだれの長閑にくらすとも読けるに、きのふもけふも降こめて同じ空なるもどかしさよ。殊に引習と聞ゆるか。同じしらべのほちほちと軒の玉水にかよひたらば物うからましと思ひよせたる也。
 それを寝巻にといふに品かはりて閨怨の音にかよはせ侍るゆへとへかし。人の五月雨の頃と思ひなして何となく淋しき程をつくづくと思ふ心もこもり侍り。倦むと忍ぶとのたがひ決せリ。」(句兄弟)

 曲水の句の「よし野の山」は其角の解説を見ると、「同じしらべ」とあるように、どうやら三味線の曲名のようだ。おそらく貞享二年刊『大ぬさ』に収録された「吉野山」のことであろう。コトバンクの「改訂新版 世界大百科事典 「大ぬさ」の意味・わかりやすい解説」に、

 「《大怒佐》《大幣》とも表記する。近世の音楽・歌謡書。著者不詳。1685年(貞享2)初刊とされるが,87年刊《糸竹(しちく)大全》に《紙鳶(いかのぼり)》《知音の媒(ちいんのなかだち)》と合収,99年(元禄12)版が流布。4巻。〈引手あまた〉の意から大幣の字をあてて書名としたものだが,本文中にその用字はない。巻一は三味線の奏法などの記事と《吉野山》《すががき》などの譜,巻二は《りんぜつ》《れんぼながし》《当世なげぶし》の譜,巻三は三味線組歌の本手・破手(はで)の詞章と,秘曲の曲名,巻四は新曲22曲の詞章を収める。記譜のあるものは《紙鳶》の一節切(ひとよぎり)の譜と対照され,《れんぼながし》以外は《糸竹初心集》の箏譜と比較できる。これらによって近世初期の三曲合奏の実態を把握しうる。巻三・四の詞章は,地歌詞章のまとまったものとして最古のもの。

 なお,同名の歌学書もあり,これは中川自休著,1834年(天保5)刊。1冊。村田春海(はるみ)門下の秋山光彪(みつたけ)の《桂園一枝評》に対して,《桂園一枝》の作者香川景樹が自門の著者に反駁させたもの。
 執筆者:平野 健次」

とある。youtubeで桃山晴衣さんの三味線と歌を聞くことができる。
 「殊に引習と聞ゆるか」とあるように、三味線の練習で引く人が多かったのだろう。練習だから同じ曲を繰り返し繰り返し引いて、そのぽつぽつ聞こえる音が雨だれのようで、「三味線で吉野之山を五月雨のようにするや」の「や」が倒置になって、「三絃やよし野の山をさつきさめ」となる。春雨を「はるさめ」というように「五月雨」を「さつきさめ」ということもあったようだ。
 其角はそれを「寝衣」に変える。「寝衣」は「しんい」で寝巻(ねまき)と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「寝衣」の意味・読み・例文・類語」に、

 「しん‐い【寝衣】
  〘 名詞 〙 寝るときに着る衣服。ねまき。
  [初出の実例]「これを蒲豊、寝衣の下に押入れ、それをして驚き醒しめたり」(出典:西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉四)
  [その他の文献]〔論語‐郷党〕」

とある。「しんい」は『論語』「郷党」にも出てくるが、ここでは「ねまき」と呼んだ方がいいのかもしれない。
 「寝衣」「寝巻」は庶民が寝る時に着る「夜着」ではない。「夜着」は「布団」ともいう。昔の布団は着るタイプのものだったが、綿が入っていて分厚い。これに対し「寝衣」「寝巻」は薄手のもので、上臈をイメージさせるものだった。
 芭蕉が『奥の細道』の旅で羽黒山で巻いた「めづらしや」の巻二十二句目に、

   此雪に先あたれとや釜揚て
 寝まきながらのけはひ美し    芭蕉

とあり、元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目には、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。後者は同座した芭蕉が「上臈の旅なるべし」と助言したことで即座に去来が、

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

の句を付けたことが『去来抄』に記されている。

 三味線や寝衣にくるむ五月雨   其角

 この句はそういうわけで、三味線の主は上臈で、寝衣にくるまりながら夜な夜な五月雨のように三味線を掻き鳴らす情景になる。その音はおそらく来ない夫を待つ怨嗟の調べなのであろう。「閨怨の音にかよはせ」とある。
 閨怨詩は漢詩の一つのジャンルで、中国では出征した兵士の留守を預かる夫人の情を詠んだものが多いが、それに限らず一人寝の女性の恨みをテーマにしたもの一般を指す。
 曲水の兄句は不慣れな芸伎の練習風景にすぎなかったものが、寝衣の言葉一つで閨怨詩の世界へと転じることになる。ただ、それは漢籍などの高い素養を持つものにはわかっても、一般の人には難解な句と受け止められたのではなかったかと思う。

2025年2月21日金曜日

 
 昨日は南足柄市運動公園や池ノ窪梅林を見に行き、今日は秦野西田原の香雲寺の梅を見に行った。梅三昧の日々だ。
 昔一頃ロックをやるものは生活をロックにしろと言ったものだが、俳句もまた生活を俳句にすることが大事だ。日々花を見て歩き、古典に親しみ、古典の血脈を引く非西洋芸術的なラノベ漫画アニメにも親しむ(最後は余計か?)、それが俳句の糧になる。

 それでは「句兄弟」の続き。

「五番
  兄
雨の日や門提て行くかきつばた   信徳
  弟
簾まけ雨にさげくるかきつばた

 杜若雨潤の一体時節のいさぎよく云立たれども、難じていはば雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル流俗の句中にはらまれて、一句の外に作うすし。されば、向上の句に於ては題と定めずして其こころ明らかなるたぐひ多かる中に、杜若景物の一品なれば異花よりも興を取ぬべくや。雨の杜若とおもひ寄たらんは句作のこなしにて手ぎは有べき所也。老功の作者を識りていふにはあらず。
 門さげてゆくと見送りし花の我宿に入来る心に反工して、花の雫もそのままに色をも香そも厭ひけるさまを、すだれまけと下知したるなり。往と来との字二にして力をわかちたると判談せん人本意なかるべし。問答の句なるゆへつのりて枳棘の愚意を申侍る。」(句兄弟)

 「門提て行く」の意味だが、評の所に「門さげてゆくと見送りし」ある所から、門を閉じて出て行くということか。
 杜若雨潤というように、雨に濡れた杜若は特に美しいから、お寺のお坊さんも今日は一日休業とばかりに門を閉めて見に行くということなのだろう。
 「雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル」とある雪中梅花は画題にもなっているが、「闇夜につつじを折ル」は正徹の歌に、

 いそぐなよ手折るつつじの灯に
     よるの山路はかへりいてなん
                正徹
 夜こえむ人のためにとくらぶ山
     木の下つつし折りもつくさじ
                正徹

とあることから、ツツジは闇夜でも明るいから灯火代わりに折って行くという趣向は定番化してたのかもしれない。
 「流俗」は『拾遺和歌集』の、

  「世の中にことなる事はあらずとも富はたしてむ命長くは
  中将にはべりける時、右大弁源致方朝臣のもとへ
  八重紅梅を折りて遣はすとて
                 
 流俗の色にはあらず梅花   右大将実資

 珍重すべき物とこそ見れ   致方朝臣」

という短連歌にも用いられている。そんじょそこらのというような意味か。杜若雨潤の美しさも、ありきたりな趣向で、信徳の句に強いて難を言うなら、その趣向の凡庸さから逃れるものではない、ということなのだろう。
 「向上の句」つまりそこからさらに一歩進んだ句にするには、杜若雨潤の心を直接言うありきたりさを避けて、あえて言外に隠ように作るのが常道で、杜若とあるだけで雨に潤う景は十分伝わるし、他の花にはない杜若ならではの趣向になる。老練な作者は大体そうする。
 『去来抄』にも、

 「 つたの葉───     尾張の句
 此このほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯迄まで裏吹ふきかへさるゝと云いふ句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂までいひつくす物にあらずト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

とある。

 蔦の葉は残らず風のそよぎ哉   荷兮

の句のことと思われるが、蔦というだけで既に風に吹かれる蔦の葉の景色が含まれてるため、あえて言う必要がない、ということだ。
 ただ、これは通俗的に月並み化した趣向に対して言えることで、最近では夏井いつき病が凡庸な俳人の中に蔓延していて、何でもかんでもこの句のこの言葉は必要ない、無駄だなどと難じたりするが、長年俳句をやってる大ベテランなら想像のつくことでも一般の読者にはすぐには思いつかない場合も多い。読者に過大な想像力を期待するべきではないし、そういうベテラン向けの句は大体において一般人には珍紛漢紛なものだ。
 さて、其角の弟句だが、信徳の門を下げて出て行くという趣向をひっくり返して、門を提げてやってきた客人を迎え入れて、ならば簾を上げて杜若をよく見ていってくれ、という句に作り変える。
 「雨に」は杜若に掛かるのではなく客人に掛かるため、直接雨の杜若を表すのではなく、雨の杜若は間接的な想像に変わる。微妙な違いだけど、これが杜若雨潤の凡庸を回避する一つのテクニックだ。そして、門を提げてやって来た兄句に対する返答の句にもなっている。この技を今の俳人の誰が理解するだろうか。

2025年2月19日水曜日

  また少し間が開いてしまったが、「句兄弟」の続き。

「四番
  兄
祐成か袖ひきのばせむら千鳥  粛山
  弟
むらちどり其夜は寒し虎かもと

 袖引のばせとは一衣洗濯の時なるべし。さすがに高名の士なりければ、破褞袍を着て狐貉に恥じざる勇を思ひ合たるにや。村千鳥その友としてかの志をしのばれし一句に感懈あり。
 よりて其夜は虎かもとにしほたれし袖を引のばしつらんとおもひよりて、冬の夜の川風寒みのうたにみて追反せし也。是は各句合意の体也。
 兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍ればこなたの句弟なるべし。」(句兄弟)

 粛山は久松粛山で、「愛媛県生涯学習センター」のデータベース『えひめの記憶』に、

 「久松粛山(1652~1706)
 俳人。松山藩家老。松山城下(現、松山市)出身。松山藩第4代藩主・松平定直に仕えて重責を果たす一方、俳諧を好み、その才能を発揮した。31歳のとき、松山に来ていた因幡国鳥取の岡西惟仲(おかにしいちゅう)の門に入り、その後、江戸在勤中に松尾芭蕉・榎本其角(えのもときかく)に俳諧を学んだ。句は其角の句集にも載せられ、定直の俳友として蕉風俳諧を松山に広めた。後に、子規から伊予未曾有の俳人と評される。また、狩野探雪の画に、芭蕉・其角・山口素堂(やまぐちそどう)の発句の賛(添え書き)を求め、松山に持ち帰った「俳諧三尊画賛」の三幅対は逸品とされ、来遊した小林一茶も感激の句をしたためている。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)」

とある。
 句の方の初句の祐成は曽我兄弟の兄十郎のことで、大磯の虎御前という遊女との関係はかつては誰もが知る有名な話だった。
 仇討を果たしそのあとすぐに斬られた祐成の遺品の袖を汐で洗ってくれ、大磯の浜に群ら立つ千鳥たちよという意味であろう。袖の汐は言うまでもなく涙と掛けて用いられている。
 祐成の命日の五月二十八日に降る雨は虎の涙の雨ということで、「虎が雨」と言われているが、この句は千鳥で冬の海の句だ。冬に大磯を訪れた時の句だろうか。かつての祐成を失った虎御前の涙を思い、今は冬だが、千鳥よ祐成の遺品の衣を汐で洗ってやってくれ、祐成か袖を引き延ばしてやってくれ群千鳥よ、となる。
 破褞袍(やれうんぽう)の褞袍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「褞袍」の意味・読み・例文・類語」に、

 「うん‐ぽう‥パウ【褞袍・縕袍】
  〘 名詞 〙 綿を入れた着物。どてら。おんぼう。
  [初出の実例]「金減す我世の外にうかれてや〈其角〉 縕袍(ウンホウ)さむく伯母夢にみゆ〈匂子〉」(出典:俳諧・虚栗(1683)上)」

とある。
 「狐貉」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「狐貉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「こ‐かく【狐貉】
  〘 名詞 〙 キツネとムジナ。また、その皮でつくった衣服。
  [初出の実例]「凡穿レ地得二死人一、不二更埋一、及於二塚墓一燻二狐狢一」(出典:律(718)賊盗)
  「Cocacuno(コカクノ) カワゴロモワ カルクシテ ハナハダ カンヲ フセグ」(出典:日葡辞書(1603‐04))
  [その他の文献]〔論語‐子罕〕」

とある。
 「破褞袍を着て狐貉に恥じざる」は『論語』の、

 「子曰く、敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は其れ由なるか。」

のことで、この場合の狐貉は立派な毛皮の衣ということで、いわばボロは着てても心は錦ということであろう。狐はもちろん今日でもフォックスファーと呼ばれ珍重されている。貉の方はロシアンラクーンやチャイニーズラクーンであろう。
 兄句として掲げられるくらいだから、この句も当時はかなりの評判になった句であろう。
 兄句にはただ曽我十郎祐成のたとえボロでも中華貴族の着る毛皮にも勝る遺品の衣を千鳥が波の汐で洗うという句だが、勿論そこには虎御前の涙が暗に含まれているものの、弟句ではその虎の名前を表に出す。

 むらちどり其夜は寒し虎かもと  其角

 虎が元にいた群千鳥もその夜は寒い。群千鳥は虎と共に悲しみ、冬を迎えたのだろうか。

2025年2月15日土曜日

 今日は地元の戸川公園の梅を見に行った。ここも見頃になっていた。

 それでは「句兄弟」の続き。

 「三番
  兄
また是より青葉一見となりけり  素堂
  弟
また是より木屋一見のつつじ哉

 遊子行残月とかや。花におぼれし人の春の名残りを惜みけん心をうたひける也。
 予が句うたひにたよらずして青葉一見といふ花のかへるさをとどめしゆへ、全く等類ならずとなりけりとは、素堂が平生口癖なれば是を格には取がたし。つつじといふ題にて夏にうつらふ花の名残りも有べし。
 此句意味はかはる事なし。下五字の云かへにて強弱の体をわかつもの也。」(句兄弟)

 素堂の句は延宝八年刊の不卜編『向之岡』所収のもので、「上京の比」という前書きがあり、青葉は若葉になっている。若葉の頃に上京したため、こうしてちらっと若葉を見ることになりましたという意味であろう。
 京にこれからもずっと滞在するのではなく、京の花見に来て若葉の頃になってようやく帰るというので、「一見」ということになる。
 「一見」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「一見」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① ( ━する ) 一度見ること。一通り見ること。ちらっと見ること。一覧。
  [初出の実例]「微禽奇体、今遂二一見之望一」(出典:古今著聞集(1254)二〇)
  「黒塚(くろつか)の岩屋一見し、福島に宿る」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)あさか山)
  [その他の文献]〔漢書‐趙充国伝〕
  ② ( ━する ) 一度会うこと。初対面。いちげん。
  ③ ( 副詞的に用いて ) ちょっと見ると。」

とある。今とそれほど意味は変わらない。
 「うたがひにたよらず」というのは、「や」や「かな」を用いずに「けり」と言い切っていることをいうのだろう。花が散ってこれから青葉の季節になるのだろうか、というのではなく、花が散ってもなかなか去りがたく、青葉になるまで滞在してしまったという意味になる。

 下下の下の客といはれん花の宿 越人

の句はこれより後の元禄二年の『阿羅野』の句になる。
 一世紀後になるが、

 葉桜や南良に二日の泊り客    蕪村

もまたこの心か。
 「遊子行残月」は『和漢朗詠集』の、

   暁賦    賈島
 佳人尽飾於晨粧。魏宮鐘動。
 遊子猶行於残月。函谷鶏鳴。
 佳人尽(ことごと)く晨粧を飾りて、魏宮に鐘動く、
 遊子なほ残月に行きて函谷に鶏鳴く


で、作者は実際は賈嵩だという。旅人の素晴らしい季節が去って行くのを惜しむ心という意味であろう。
 其角の句の方は、若葉の頃に咲くツツジに置き換えて、春の名残を惜しむという旅体から卑近な題材の句に転じるわけだ。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「木屋」の意味・読み・例文・類語」には、

 「① 材木の集散に便利な場所にあって材木を貯蔵する倉庫。材木小屋。
  [初出の実例]「山背国三処。相楽郡二処。一泉木屋并園地二町」(出典:大安寺伽藍縁起并流記資財帳‐天平一九年(747))
  ② 材木の売買を業とする人。また、その家。材木屋。材木商。
  [初出の実例]「材木〈三尋木二編、桂三本〉自木屋申二請之一」(出典:実隆公記‐明応八年(1499)六月二日)
  ③ 薪の売買を業とする人。また、その家。まきや。
  [初出の実例]「軒口にかれたる木屋が夏懸て〈道意〉 大斤両も動く浜風〈和武〉」(出典:俳諧・西鶴大矢数(1681)第六七)
  ④ ( 樹屋 ) 植木屋。
  [初出の実例]「『あの大門より北には〈略〉廿八本植へべし。直段如何程』といへば、木屋申は」(出典:咄本・軽口露がはなし(1691)一)
  ⑤ 大工が、作業をする小屋。大工の仕事小屋。
  [初出の実例]「明日先可レ立二木屋一」(出典:晴富宿禰記‐文明一一年(1479)二月二〇日)
  ⑥ すべての納屋や小屋をいう。柴木屋、こなし木屋、肥木屋(こやしきや)、収納木屋(しなきや)など。薪炭類を収蔵する木小屋の略。」

とあるが、この場合は材木や薪ではなく、④の樹屋であろう。
 江戸の街では岩躑躅の群生するような所もなく、植木屋でツツジの咲いてるのを見て春の終わりを感じるということか。ツツジを出すことで青葉に比べれば華やいだ句になる。

2025年2月14日金曜日

 今日は曽我梅林の梅を見に行った。
 ようやく暖かくなり、梅の開花も例年より遅れているとはいえ、昭和の頃にはこれが普通だったと思うと、ここ最近が早すぎたのだろう。

 アメリカではいろいろ大きな動きが出てきている。USAIDの解体、DOGEの活動(DOGEは日本語だとイッヌになるのか?)。
 思うに左翼は最近では三度の大きな試練があった。

 一度目は日本や欧米が高度成長を遂げた60年代の後半、日本では70年安保の頃、戦後の修正資本主義で豊かになり中流化した労働者は、もはや革命の主体にはなりえなくなった。そこで社会主義運動は大きな方向転換を余儀なくされた。
 かれらは革命の主体を総中流化する中で取り残されたマイノリティ、少数民族、被差別民、障害者、性的少数者(まだLGBTという言葉はなかった)と第三世界の貧しい人達に切り替えることで乗り切ろうとした。
 左翼とパレスチナとの結びつきは、テルアビブ乱射事件などによって、新たな自爆テロというスタイルを得、最初は中東の共産勢力だったが、やがて彼らはイスラム原理主義者となっていった。
 太田龍の1972年の『辺境最深部に向って退却せよ!』はそれを象徴する言葉となった。その頃から中流化した労働者は革命の敵だという考え方が広まっていった。同時に労働者の権利や待遇改善などに興味を失ってゆき、労働組合運動も政治的オルグの方が優先されるようになった。

 二度目の試練は1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦崩壊によってもたらされた。
 ここでもはや左翼の革命運動の敗北を認め、転向してった人も多かったことだろう。俺もその一人だし。
 ただ、左翼に踏みとどまった人たちの多くは社会主義国家の終焉を認めたものの、国家でない社会主義にその活路を見い出そうとした。これによって社会主義は国際的な市民運動の性格を強め、官僚的な統一組織ではなく無数の市民団体の横のつながりを重視した、ジル=ドゥールーズの言うようなリゾームの形態をとるようになった。中心を持たない連合体として、世界中に同時多発的に活動を行うことで、政権を取る事よりも主にマイノリティを中心とした政策の実現に力を入れるようになった。
 しかし、これは政治色が強すぎて、実際のマイノリティが強く支持しているわけではなく、むしろ迷惑とすら思う人も多かった。
 この運動は表面的に革命を標榜せずに穏健な市民運動を装ってたため、じわじわと政治的中道勢力、マスコミ、官僚、法曹界を侵食し、いわゆる「無理ゲー状態」を作り出していった。彼らは法律の制定に大きな影響力を行使し、税金を湯水のように彼らの活動につぎ込ませることに成功した。
 彼らは国家レベルではなく地球規模の富の再分配を実行すべく、第三世界の貧困層を大量に先進国に入国させ、先進国の富と税金で彼らを養うことを義務化しようとしてきた。

 三度目の試練は今アメリカで起こっている。これがどのような結果をもたらすのか、まだわからない。


 それでは「句兄弟」の続き。

「二番
  兄
地主からは木の間の花の都かな   拾穂軒
  弟
京中へ地主のさくらやとふ胡蝶

 「老師名高き句也。反転して市中の蝶を清水の落花と見なしたる也。木の間と三字にたてふさがりて侍るを漸こてふに成て花の間を飛出たるやうに覚ゆ。先後の句立たしか也。
 飛花の蝶に似たる。

 峡蝶飛来過墻去 却疑春色在隣家

 作例多く聞ゆれども予京の一字を心かけたれば尤難有まじ。」(句兄弟)

 拾穂軒(しゅうすいけん)は季吟のこと。
 「地主のさくら」は京都の地主(じしゅ)神社の桜のことで、ウィキペディアには、

 「境内は「地主桜」と呼ばれる桜の名所で、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇が行幸した際、一重と八重が同じ枝に咲いていた地主神社の桜の美しさに3度車を返したことから「御車返しの桜」とも呼ばれ、以後、嵯峨天皇は地主神社に桜を毎年献上させた。」

とある。地主神社は清水寺同様高台にあるので、ここから桜越しに見おろす京の町は、まさに花の都といったところだ。「老師名高き句」とあるように、かつては誰もが知る句だったのであろう。今もこの句の句碑があるという。
 これに対して其角は「木の間」の木で見えづらい桜をやめて、高台のこの地主神社から散った花びらが胡蝶となって、京の都のあちこちに落ちてくるという趣向にする。
 花びらを胡蝶に喩えることもさることながら、それが京の街中に降りそそぐとは、やや大げさに作った感じもしなくもないが、こうした華麗さもまた伊達を好む其角の持ち味なのだろう。句は「地主のさくらは京中へ訪う胡蝶(となる)や」の倒置。
 花を蝶に喩える先例として掲げている詩句は、

   雨晴      王駕
 雨前初見花間蕊 雨後兼無葉裏花
 峡蝶飛来過墻去 却疑春色在鄰家

で、王駕は百度百科に、

 「王驾(851年-?),字大用,自号守素先生,河中(今山西永济)人,女诗人陈玉兰之夫,中国唐代诗人。 
 王驾早年居乡间,颇有诗名,为时人称誉。唐僖宗中和元年(881年)秋至中和三年(883年)春间,王驾入蜀赴进士试,落第不中。后于大顺元年(890年),及第,任校书郎,官至礼部员外郎。乾宁四年(897年),在任,后弃官隐居。」

とある。851年の生まれで字を大用といい、自ら守素先生と号す。河中(今の山西省永済)の人で、陳玉蘭の夫でもある中国唐代の詩人。
 雨が降る前には花があったのに、雨のあとは葉っぱばかりでどこにも花がない。蝶が垣根を越えて行ってしまったのなら、春の景色は未だ隣の家にいるのかもしれない。確かにこの詩は花が蝶になって隣に行ってしまったという趣向なのだろう。
 花を蝶に喩える例は、近代俳句でも、

 草化して胡蝶となるか豆の花  子規

の句がある。それほど突飛な比喩でもない。
 むしろありきたりかもしれないが、王駕の詩はただ隣に行ったのかというだけなのに対し、京の街に飛んで行くという所に手柄があるのでは、と其角は自讃する。

2025年2月13日木曜日

 一週間ぶりの更新になったが、この間いろいろはまた花を見に行った。
 2月9日は小田原の句会で小田原城の桜を見た。

 紅白に残る蝋梅黄を主張
 ちらちらと短冊回る城や梅
 Xの字になり眺む揚げ雲雀

 10日は熱海桜を見に行って、そのあと前日に山焼きをやった大室山を見た。

 山焼きや焦げた思いの風世界

 写真はその大室山
 12日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。

 それでは今度は其角編の『句兄弟』を読んでいこうと思う。

「一番
  兄
これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
  弟
これはこれはとばかりちるも櫻哉 晋子

 花満山の景を上五字に云とりて芳野山と決定したる處、作者の自然ノ地を得たるに、対句してちるもさくらといへる和句也。是は是はとばかりの云下しを反転せしもの也。」(句兄弟)

 貞室の句はかつては知らない人のいないくらい有名な句だったのだろう。「句兄弟」の冒頭はこの句から始まる。
 花満山は特に固有名詞というわけではなく、山一面に花の咲いたという意味で、

  寄孫山人    儲光羲
 新林二月孤舟還 水滿淸江花滿山
 借問故園隱君子 時時來往住人間

の詩を出典とする。「これはこれは」は遥か遠くから訪ねてきたような趣があり、この詩の趣向にも適っている。そして何が「これはこれは」なのかと思わせておいて「花の吉野山」と結ぶこの構成もまた見事だ。
 芭蕉七部集の一つ、元禄二年刊荷兮編『阿羅野』の冒頭を飾る一句でもあり、『去来抄』でも不易の句の例として挙げられていて、貞門時代の句ながらも蕉門でも高く評価された一句だった。
 これを冒頭に持って来ておいて、晋子こと其角は弟句を付ける。
 「これはこれは」と咲くのも桜だが、「これはこれは」と散るのもまた桜だと、兄句に逆らわずに、同意するかのように散る時もまたと付け加える。いわゆる「和句」和する句、同意する句ということになる。
 発句に対して発句で返すというのは、ある種対抗するという意識が強いことが多く、和する時には脇で返すのが通例になっている。
 たとえば、

 草の戸に我は蓼食う蛍哉    其角

の句に対して、

 朝顔に我は飯食う男哉     芭蕉

と返す場合には、酒の肴である苦みの強い蓼酢を好んで食って、夜は遊郭の蛍になるという其角の挨拶に対して、俺は普通に朝起きて飯を食うだけの普通の男だと芭蕉は返す。これは和するというよりは、「いや、俺は違う」という対抗心を込めた句づくりで、発句に発句で返す場合はこういうパターンが多い。
 もっともこの場合、句合せの勝負を挑んだのではなく、私は草の戸で蓼を食って夜の街で輝いてるようなそんな凄い人ではなく、世間並みのごく普通の人ですという謙虚に答なわけだが。

「難云:吉野山一句の本体として上五字七字までは只ありの詞なるべし。ちると桜のうへにうつしたる本意逃句なるべし。
 答云:句は其興を聞得べきや。景情のはなるるといふ事「雑談集」に論ぜる如く也。
 近くいはば「明星やさくら定めぬ山かづら」といひし句当座にはさのみ興感せざりしを、芭蕉翁吉野山にあそべる時、山中の美景にけをされ古き歌どもの信を感ぜし叙(ツイデ)、明星の山かづらに明残るけしき此句のうらやましく覚えたるよし文通に申されける。
 是をみづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含はたしか也。
 尤、花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず。沈佺期が句を盗む癖とは等類をのがるる違有。」(句兄弟)

 この「難云(なんじていう)」も実際に誰かが言ったということではなく、あくまで想定問答であろう。
 上五字七字の「これはこれはとばかり」までは日常用いるような通常の言葉で、特に何の捻りもなく、「花の吉野山」と結んで一句になるのに対し、そのこれはこれはとばかり」を散る花に取り成しただけの逃げ句ではないか、という批判は当然あることだろう、というわけだ。つまり、無理に趣向を変えて別な句に作った、ということか。
 『雑談集』の「景情のはなるるといふ事」というのは、

 「此比の当座に、

 小男鹿やほそき聲より此流れ

と申しける折ふし百里が旅より帰りしに、木曽路の秋を語りけるにも畳のうへにては面白からぬけしきを云ひ出てけり。梯の水音今も耳に残りて覚えぬるといはれて、世につながるる事を歎きぬ。すべて景に合せては情をこらして扨景を尋ぬるが此道の手なるべし。富士を見ては発句ちひさくなりぬるは心の及ばざるゆゑ也。」(雑談集)

のことだろうか。
 句というのは作者の体験と読者の体験が共有された時、その景は豊かな情を持つ。鹿の声に流れの音は、それだけでは何が面白いのか分かりにくいが、これが木曽路の秋で名所でもある桟(かけはし)をいつ落ちるかわからない橋の恐怖に心細くなっている時に、鹿の声が聞こえてきて、下からは流れの音が聞こえてくる、その想像が及んだ時、この句は意味を持ってくる。
 名所の句の場合特に、景色を描写するだけでなく、その情が伝わるような表現をしなくてはならない。景色に情を込めて、もう一度出来た句を突き放して眺めてみて、ちゃんと情がにじみ出ているかどうかを確認しないとつまらない句になる。
 「これはこれはとばかり」というのを「只ありの詞」というとしたら、それは吉野の花の景を心に描けないからで、「花の吉野山」と結ぶことで、その何でもない言葉が吉野の想像上の景色と一体となって、深い感情を呼び起こす。
 同じように「ちるも櫻哉」とその結びの言葉を変えることで、散る桜を心に描いて全く別の情を呼び起こす。これは単なる逃げ句の取り成しではなく、上句に新たな情を吹き込んでいるので、独立した一つの発句たり得る、というわけだ。

 明星やさくら定めぬ山かづら  其角

の句は貞享五年一月二十五日付けの芭蕉宛其角書簡に記されたもので、

 「明星やさくら定めぬ山かづら
如何可レ有二御ざ一哉。
 瓢覃(箪)坊に出る雨の日
 朝ごとのうずらの水をくみかへて
 人得て秋の炭がまを掘ル
 鱅鳴貴舩の鈴のころころと
どうやら五句付に成候て本心にそみ不申候へ共、是は病にてシカジカ無御ざ候て、心気恬憺ならぬように覚申候ゆへかと被存候。御句どもにて本心を洗可申候。猶重而委可申上候。以上
   正月廿五日        キ角
はせを様」

と、五句まで付けて点を乞うている。
 この年其角は秋の終わりから冬にかけて上方方面を旅しているから、その時に吉野へも寄ったのであろう。季節外れではあるが、蔦の紅葉を見て春の桜の頃を想像した句で、かづら、瓢箪、うずら、秋の炭がま、までは秋の句だが、その次の鱅鳴は何と読むのか。貴船の清流で鳴くなら河鹿かとおもわれる。夏への季移りになる。
 グーグルを見ると「鱅」はコノシロともダボハゼとも読むようだが、いずれも海の魚で鳴かないから河鹿ではないかと思う。魚のカジカは鳴かないが、かつてはカジカガエルの声が河鹿の声と混同されていた。
 井手の山吹の蛙が美しい声で鳴くカジカガエルなので、わかる人にはきちんと区別されていたのだろうけど、みんながみんな本草学者じゃないように、一般的には区別は曖昧だったのだろう。ツルとコウノトリやウグイスとメジロがしばしば混同されるのと一緒だ。現代だってみんなが生物学者なわけではない。
 話はそれたが、元に戻そう。其角の句は金星の綺麗な明け方の空にようやく見えてきた蔦カズラの紅葉を見ながら、これが桜だったらなとおもいつつ、夜が明けると今は秋だという現実に引き戻される。真っ暗の内は見えない闇に桜を思い、夜が明ければ桜ではなく蔦カズラ、そういう句だ。シュレーディンガーの猫みたいなものだ。
 沈佺期はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沈佺期」の意味・わかりやすい解説」に、

 「[生]永徽1 (650)?
  [没]開元1 (713)?
  中国,初唐の詩人。相州内黄(河南省)の人。字は雲卿。上元2(675)年進士に及第,協律郎,給事中などを歴任したが,張易之に取り入ったため,則天武后の政権が倒れると収賄罪に問われて驩州(北ベトナム)に流された。のち神竜年間,中央に呼び戻され修文館直学士から中書舎人,太子少詹事(せんじ)となって終わった。六朝詩の影響を受けつつも清新な詩風で宋之問,杜審言らと宮廷詩人として活躍し,また宋之問とともに七言律詩(→律詩)の形式の完成に力があり,「沈宋」と並称される。」

とある。
 「沈佺期が句を盗む癖」はよくわからない。
 「花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず」というのは、一巻の花の定座の前後の句は確かに花の句が付くことによって、別な意味を持ってた句が花の心になる。花の句が付いて花の心となるが、その次の句は前句の花の句に付いた時でも花の別の意味にならなくてはならない。そういう場合は確かに咲く花の美しさから散る花の悲しさへ取り成すということはある。
 ただ、「これはこれはとばかり」を咲く花から散る花に転じるのは、これと同じではない。花の吉野山の句に「散る」と付けて散る花に転じるのは逃げ句かもしれないが。

2025年2月6日木曜日

 
 昨日は土肥桜を見た後下田爪木崎の水仙を見た。
 どちらも見頃で、天気は良かったが風が強かった。
 今日は初午で白笹稲荷神社に行った。

 『雑談集』の「親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 沾蓬」の所を書き直してみた。

 「鏡を形見といへる重高の歌にや装束つくろひて鏡の間にむかへるに

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 寶生 沾蓬」(雑談集)

 重高は不明。鏡と形見を掛けた歌は古来数多くある。

 おもひいでむ形見にもみよます鏡
     かはらぬ影はとどまらずとも
             惟明親王(続後撰集)
 ます鏡うつりしものをとばかりに
     とまらぬ影も形見なりけり
             行能(続拾遺集)
 ありし世の形見も悲します鏡
     うきにはかはる面影もがな
             少将内侍(文保百首)

など。
 句の「こてふ」はおそらく謡曲『胡蝶』のことで、親の形見の鏡の前で蝶の精の舞をしてみたが、親にはとても及ばない、それでも一生懸命頑張っている、と言った所か。

 句の作者に寶生とあるから宝生流の者であろう。
 宝生重高は謎だが、おそらく重友の間違いではないかと思う。高と友は草書だと似てなくもない。ただし、早稲田大学図書本、京都大学附属図書館所蔵本はともに楷書で「高」と書かれている。間違いだとすれば原稿か版本の清書の段階で間違えたことになる。
 重友には三人の子がいたとされている。

 公益社団法人宝生会のホームページによると、八代宝生大夫の重友の所に、

「重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
 古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
 熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
 なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。」

とある。

重友(1619-1685)
八代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生重友」の解説」に、
 「1619-1685 江戸時代前期の能役者シテ方。
元和(げんな)5年生まれ。宝生重房(しげふさ)の子。父の跡をついで宝生流8代となり,将軍徳川家綱・綱吉(つなよし)につかえた。宝生流になかった獅子舞(ししまい),乱拍子(らんびょうし)などを考案して,古将監(こしょうげん)とよばれた。貞享(じょうきょう)2年8月死去。67歳。通称は九郎,将監。」
とある。

友春(1654-1728)
重友の長男。
九代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生友春」の解説」に、
 「1654-1728 江戸時代前期-中期の能役者シテ方。
承応(じょうおう)3年生まれ。宝生重友(しげとも)の子。父の跡をつぎ,宝生流9代となる。将軍徳川綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継・吉宗(よしむね)につかえた。金沢藩主前田綱紀(つなのり)の愛顧をうけて加賀宝生流の基礎をつくった。享保(きょうほう)13年8月8日死去。75歳。通称は九郎,将監。」
とある。

重賢(1658-1746)
重友の次男
12世観世大夫
ウィキペディアに、
 「観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年) - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。
 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳でその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳で死去した。」
 ウィキペディアの「観世流」の方には、
 「12.左門重賢
 1658年〜1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。」
とある。引退の年はウィキペディアの観世重賢の所に、
 「ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。
 29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない[13]。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。」
とあるが、前年の父の死が影響している可能性は十分ある。

重世(1663-1745)
重友の三男
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部沾圃」の解説」に、
 「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。
寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。のち宝生流11代宝生友精(ともきよ)の後見役をつとめた。延享2年10月2日死去。83歳。名は重世。通称は左(佐)大夫。別号に幾重斎。」
とある。

 宝生重友は貞享2年に亡くなっていて、『雑談集』の頃の其角の記憶にも残っていることだろう。胡蝶は荘子の『胡蝶の夢』を題材にした能で、生まれ変わりの意味がある。父の生まれ変わりにはなれなかったという嘆きをこの句に込めたように感じられる。これはその頃の句であり、友春が九代宝生大夫を継いだことで家督を継げなかった重賢か重世が、引退の決意として詠んだのではないかと思われる。
 そうなると、沾蓬は後に『続猿蓑』を編纂した沾圃、つまり重世である可能性が高い。
 沾蓬は元禄7年春の芭蕉同座の興行で、

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬     湖風
   柳もすさる岸の刈株      芭蕉
 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

に始まる半歌仙に参加している。
 同じ頃「八九間」の巻で、

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉
   春のからすの畠ほる声     沾圃

と芭蕉と同座している。「八九間」の方は沾圃の撰による『続猿蓑』に収録されている。

 なお、沾蓬については『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信、2000,新典社)には、

 「『露沾俳諧集』に沾蓬の句が多数収録されているから、彼は露沾に使えていたと思われるが、露沾が磐城に隠棲した際、沾蓬も露沾に同行して磐城に移住したのであろう。同集には次のような露沾の句がある。

   土田沾蓬に立圃が已前の誹名をゆづりけるに、此心にて予に句を乞
 文字ごころ麻に秀でてさしも草  露沾

 この土田沾蓬は宝生沾蓬と同一人物とみて間違いあるまい。宝生沾蓬は後に姓を土田に変えたのであろう(あるいは土田が沾蓬の本姓かもしれない)。右の句の前書きに記された立圃は芭蕉の門人の宝生沾圃(通称は左太夫)の俳号で、彼は元禄六年(一六九三)に二世立圃を襲名している。したがって「立圃が已前の誹号をゆづりける」というのは、立圃が彼の前号である沾圃を沾蓬に譲ったという意味であり、沾蓬が二世沾圃を襲名したことになる。宝生沾圃こと一世沾圃と、宝生沾蓬こと二代目沾圃の関係については不明である。」

と記している。
 まず、当時は姓が複数あっても珍しくはない。其角も榎本其角であり宝井其角でもある。榎本は母方の姓で、父方の姓で呼ぶなら木下其角になる。一世紀後の谷口蕪村も与謝野蕪村を名乗っている。
 当時の姓は三種類あったと考えられる。
 一つは源、平、藤原などの本来の意味での姓で、これだと徳川家康の姓は源で、源家康が本来の姓になり、徳川は名字ということになる。芭蕉も先祖の柘植氏の姓が平だったから、平姓と見て良い。
 もう一つが武家などのいわゆる名字のことで、田氏捨女の田(でん)は名字であって、本来の姓ではない。松尾もその先祖の柘植も名字であり、名字は分家などすると新たに作られる。
 つまり家督を継ぐ必要のない者は、必ずしも先祖の名字を名乗る必要はない。だから新たな名字を作ることも普通に行われていた。多分其角の宝井もそういうものだったのではないかと思う。
 それで行くと、宝生重賢の場合、元の名字は宝生だったが、観世家に養子に入ることで観世になり、引退すれば宝生でも観世でもなくなるから、新たに別の名字の服部を名乗っていた。
 さて、それなら三男の宝生重世の場合も、能役者をやってるうちは宝生でも、引退した後は基本的には兄と同じ服部だが、兄と区別するために土田の名字を名乗った可能性はある。
 重世が宝生家の者であり、引退した場合に服部氏に戻る所を同時に兄の重賢も引退したためにあらたに土田を名乗り、宝生重世=服部重世=土田重世となったのなら、=土田沾蓬=沾圃(『続猿蓑』の編者)、そして=二代目立圃ということで間違いないだろう。全部同一人物と考えて良い。

2025年2月4日火曜日

 
 一昨日の夜から昨日の朝にかけて雨が降ったが、丹沢の山の方は雪が降って、この冬初めての冠雪となった。
 その前にも山頂の所だけ雪が降ったことはあったようだが、下からではほとんど見えなかった。

 さて、まだ次に読むものが決まらないが、『雑談集』をホームページに掲載しようと読み返したら、早速しょっぱなから間違えがあった。

 「其角は貞享五年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが」

 これは間違い。

 矢数俳諧興行は貞享元年。そういうわけで、書き直した。

 「一、伏見にて一夜俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句いづれにてや侍ると尋ね出でられけり。折ふしの機嫌にては大津尚白亭にて、

 

 辛崎の松は花より朧にて

 

と申されけるこそ一句の首尾、言外の意味あふみの人もいまだ見のこしたる成るべし。」(雑談集)

 

 其角は貞享元年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが、これはそのあと貞享五年に再び上方を尋ねた時のことと思われる。

 貞享五年というと、前年の貞享四年の冬には芭蕉が『笈の小文』の旅に出て、貞享五年の八月下旬に越人を連れて江戸に戻っている。それと入れ替わるように九月に其角は近江堅田へと旅立つ。

其角も父の東順が近江膳所藩の医者だったことから、近江国とは縁が深い。

 そのことからも、伏見に来た時、芭蕉の名句はと問われると、この句が浮かんできたのだろう。

伏見は近江から逢坂山を越え、京へ向かわずに山科から南に行ったところにあり、つい先だって近江から来たばかりだったかもしれない。

 「松は花より朧にて」と、後ろに何か省略した感じが、いかにも「言外の意味」を残し、「近江に住んでる人すら思いつかないことだ」と近江に縁の深い人だからこそ言える言葉だ。

 ただ、この句の「にて」留の是非についてはいろいろ議論のある所で、其角としてはその議論を誘う意図があったのかもしれない。

 

 「其けしきここにもきらきらとうつろひ侍るにや、と申したれば、又かたはらより中古の頑作にふけりて是非の境に本意をおぼわれし人さし出て、其句誠に俳諧の骨髄得たれども慥なる切字なし。すべて名人の格的にはさやうの姿をも発句とゆるし申すにや、と不審しける。」(雑談集)

 

 「中古の頑作に」は「中古のかたくな作(さく)に」だろうか。「頑作」という単語が検索にかからない。

 中古は貞門の時代を上古、談林の時代を中古、そして今は芭蕉の正風という意味で、ここでは蕉風確立前の談林の作風に頑なにこだわっているという意味だろうか。 

談林もまた貞門の型を破ってきたが、そこでも雅語の使い方に證歌を求めたり、堅苦しい部分はあった。貞享の時代にあっては保守派に回ってたということだろう。

 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で訪ねた伏見の任口は既に世を去っていたが、談林系の門人はまだ伏見にいくらもいたのだろう。

 発句というのは切れ字を使うもので、というのは当時の一般的な認識で、切れ字なくても切れている大廻しや三体発句は連歌の時代から知られていたが、「にて」留の発句は前例がないし、それ以降もほとんど真似されていない。

 荷兮編『冬の日』には、

 

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

 

という発句があるが、この句には「や」という切れ字が入っていて、句は「霜月に(こう)彳々(つくつく)ならびゐてや」の倒置になるから、「て」留にそれほどの違和感はない。

 芭蕉が「松は花より朧にて」の句を詠んだのはその次の年の春であることから、この句の影響を受けた可能性は十分ある。

 いずれにせよ芭蕉のこの句は発句の体ではないというのは、当時の一般的な認識だったし、後に蕉門を離れた荷兮も元禄十年刊『橋守』巻三で、自分の「霜月」の句を「留りよろしからざる体」とし、芭蕉の句は「俳諧にあらざる体」としている。

 

 「答へに、哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へるによりて志らるべきか、おぼろ哉と申す句なるべきを句に句なしとて、かくは云ひ下し申されたるなるべし。朧にてと居ゑられて、哉よりも猶ほ徹したるひびきの侍る。是れ句中の句他に的当なかるべしと。」(雑談集)

 

 其角の答は、(かな)の句に「にて」留の第三を嫌うのは、哉と「にて」が似通ってるからだということから、この句は、

 

 辛崎の松は花より朧哉

 

としても良いような句で、哉より「にて」の方が「徹したるひびき」というのは、哉が治定の意味で、花より朧だろうかと疑いつつ、主観的に朧だと断定するのに対し、「にて」だと、「にては如何に」と強く疑問を問い掛けつつ断定することになる、そういうことではないかと思う。

 この語感の違いはもっともだと思し、哉と「にて」の働きの似ているのも納得できる。ただ、「哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へる」というのは特に式目にあるわけではない。『寛正七年心敬等何人百韻』では、

 

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬

   春にまかする風の長閑さ    行助

 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

 

というように、「哉」で切れる発句に「にて」で終る第三を付けている。もっとも、江戸時代の慣習としては、そういう嫌いもあったのかもしれない。

 この其角の議論は後に『去来抄』でも取り上げられることになる。

 

 「伏見の作者、にて留どめの難有あり。其角曰、にては哉にかよふ。この故に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫しくなれバ、にてとハ侍る也。呂丸曰、にて留の事は已に其角が解有。又此ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去来曰、是ハ即興感偶にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・来が辨皆理屈なり。我ハただ花より松の朧にて、面白かりしのみト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1011

 

 「伏見の作者」とまで特定されているから、これは『雑談集』を読んだ去来・呂丸と芭蕉の問答であろう。

 

 「此論を再び翁に申し述べ侍れば一句の問答に於ては然るべし。但し予が方寸の上に分別なし。いはば『さざ波やまのの入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉』只根前なるはと申されけり。」(雑談集)

 

 『雑談集』での芭蕉の其角に対する答は、其角の言うのはもっともだが、そんなことを考えて「にて」にしたのではない。

 

 さざ波やまのの浜辺に駒とめて

     ひらの高根のはなをみる哉

             源頼政(新続古今集)

 近江路やまのの浜辺に駒とめて

     ひらの高根のはなをみる哉

             源頼政(夫木抄・歌枕名寄)

 

の歌を踏まえて、比良の高嶺の花の朧よりも辛崎の松の方がより手の届かないもののように見える、というこれは完全にネタを明かしてると言ってもいいかもしれない。

 芭蕉は春の霞のかかる松の朧に即興感隅したというより、比良の高嶺の花より朧なのが面白いという比較に重点を置いていて、こっちの方が朧じゃない?という問いかけにしたかったのではなかったかと思われる。

 いずれにせよ、芭蕉としては発句の慣習に囚われず、俳諧の自由というところにあえて「にて」留をしてみたのではなかったかと思う。そして、その試みはまだ談林の自由の残る貞享二年だからできたことで、後の俳諧の流れの中で、これ一句で終わってしまった試みだったのであろう。

2025年1月31日金曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「露と云ふ字もあそばねば体に成るまじき也。今や俳諧の正風おこなはれて、心の上に巧をかさね、何事も一句に云ひとらずと云ふとなし。
 然ども之をこれぞと手に取りて覚えたる人はなくて、只句作をあやかり行形をまね、それかこれかと紛らはしきばかりなる聞きとり法問なり。
 それいかにと云ふに古風のまッただ中に生れて今は六十にもあまりし人の昔風は申しけれども、今風はえ申されずと卑下せらるるにて知るべし。其書風といへる時の正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。
 時代蒔絵の堅地にて尤も秘蔵せらる文音とて下地鹿相に年の入らざるは兀げやすく破れやすし。今何の用にたたず。当時の作者此心を得て随分念を入れて工案せよ。千歳の後も至宝也。
 時の用にたてんとて趣向をぬすみ、てにをは人にうち任せさし合ははなひ草にて見合せ、点に長をさへとらばと思ふはいと兀げやすこ事也。
 金銀にて彩りたる筆を以て心の色を分ち侍る覚束なし。方寸の器もの手置き大事なるぞかし。」(雑談集)

 露も「あそばねば」というのは、そのままの露を詠んでも和歌で散々使われた言葉なのでなかなか俳諧らしい新味が出せず、露を白鳥と取り合わせることで、白鳥徳利の酒の露と掛けたり、そういった遊びが必要ということなのだろう。
 正風は芭蕉の蕉風のことと見て良いだろう。古池の句を以ってしてそれまでの謡曲調や奇抜な字余りをやめて本来の和歌に準じた体に戻すということで、掛詞や縁語などの貞門の技法なども復活して、一つの言葉に二重の意(こころ)を持たせたりして一句の中に多くの意味を詰め込むようになった。
 ただ、貞門時代の技術は談林の流行の中で次第に忘れられて行って、形だけ真似ている人も多くなっていた。「聞きとり法問」というのはきちんと勉強しないで聞き齧っただけの仏法知識のようなものということか。
 「古風の真っただ中に」というのは貞門時代を知っている人という意味だろう。芭蕉も伊賀にいた頃は貞門の俳諧を学び、江戸に下る前に季吟から伝授を受けたともいう。
 貞門の頃に活躍した人たちは、談林の流行期に俳諧を止めてしまった人も多かったのか、田氏捨女もそうだし、季吟自身も古典の注釈の方に専念したように思われる。今風の俳諧には着いていけなくなったという所か。
 これは貞門の句が劣ってたということではない。「正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。」の正章は安原貞室のことで、松江重頼、野々口立圃、西山宗因もみな貞門時代を経験している。
 煌びやかな蒔絵も下地がしっかりしてなくてはすぐにはがれてしまうように、貞門の基礎がしっかりしていれば、談林、天和調、蕉風と時代が変わってもその句の価値は衰えない。「千歳の後も至宝也」と、芭蕉の時代からはまだ千年は経ってないが、近代の西洋化の波の中でも芭蕉の句はしっかりと生き残っている。
 この基礎は単に技巧的なものだけでなく、貞門の俳諧が連歌の心をしっかり引き継いでいて、宗因も連歌師だったことを見ても、くだけた調子の句を詠んでいても季語や歌枕の本意本情、根底にある風雅の心を外すことはなかった。ただ、談林から蕉門へと移り変わる中で、若い世代にはなかなかそれがわかりにくくなっていたのだろう。其角はこの時三十一で、世代的にはおぼつかない、その自戒も込めていたのかもしれない。
 点取り俳諧という言葉は後から名付けられたのではないかと思うが、都市に住む俳諧師の生活は、少なからず弟子を集めて点料を取ることによって成り立っていた。其角もその例外ではない。芭蕉も深川隠居前はそのような生活もしていたのではないかと思うが、点者としてはさほど成功しなかったのが幸いだったのかもしれない。
 芭蕉の正風が名古屋・上方を中心に浸透していく中で、芭蕉が奥の細道に旅立ったあと、江戸は点料で生活する師匠たちの力が強くなっていったのだろう。其角も嵐雪もその波には逆らえなかった。
 ただ、点料で生活してはいても、本来の俳諧はこうではないという意識は、生涯持ち続けたのではないかと思う。芭蕉を大阪で看取った後も、芭蕉とともに過ごした延宝・天和の頃の青春時代はいつまでも甘い思い出だったに違いない。

 『雑談集』はこのあと大山詣の話になり、俳論の方はここで終わりになる。

2025年1月30日木曜日

  今日は二宮の吾妻山公園の菜の花を見に行った。今年は水仙も一緒に咲いて、どちらも見頃になっていた。

 今日は『雑談集』の方はお休み。

2025年1月29日水曜日

 今日はまた寄(やどりき)の蝋梅を見に行った。今回はほぼ満開だった。
 前に来た時には鹿シチューを食べたが、今回は猪汁を食べた。

 それでは『雑談集』の続き。

 「露といふ題は案じては成るまじき也。秋の句の付合にはかろがろしく思ひ寄り侍れども、心を付けてはそれもなりがたし。かの紀行の中に、

 朝露や指にはさまるうつの山   粛山

 これらは自然に云ひおほせたる成るべし。又、

 しら露や無分別なる置き所    梅翁

と観念のうへにかけてはいろへがし。」(雑談集)

 粛山の紀行は不明。東海道の宇津ノ谷峠のある辺りの宇津の山を旅した時の句であろう。「宇都の山で朝露の指に挟まるや」の倒置。朝早く山の中を歩いていると落ちてきた露が指の間に挟まったという、見たものそのまま詠んだと思われる。
 梅翁(宗因)の句は、辺り一面に降りた露を「無分別」という所に俳味がある。「観念」はこの場合、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「観念」の意味・読み・例文・類語」の、

 「① ( ━する ) 仏語。心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。
  [初出の実例]「親授二灌頂一、誦持観念」(出典:性霊集‐四(835頃)請奉為国家修法表)
  「我、一心に極楽を観念するに」(出典:今昔物語集(1120頃か)一五)」

の意味で、白露の観察によって、その法則の無さを見出し、そこにこの世の定めの無さまでをも感じ取る観念の句になる。
 露は涙などの比喩として用いられることが多く、季語の放り込みにも便利な上、連歌式目でも使用回数が制限されてないため、付け句では多用される。
 例えば「されば爰に談林の木あり梅の花 宗因」を発句とする『談林十百韻』の第一百韻には、

   小男鹿や藁人形におそるらん
 五色の紙に萩の下露       松臼

   つよくいさめし分別の月
 お盃存じの外の露しぐれ     松意

   山門の破損に秋やいたるらん
 手代にまかせをけるしら露    一朝

   諸方のはじめ冷ひえておどろく
 其形こりかたまりて今朝の露   正友

   網引場月の出はには西にあり
 木仏汚す蠣がらの露       雪柴

と「露」は五回用いられている。
 芭蕉・其角の参加した『俳諧次韻』にも、「鷺の足」の巻五十韻に、

   心の猫の月を背ける
 露に寐て且易馴易忘       才丸

   笑の木愁る草の野は眛く
 亦露分る娑婆の古道       揚水

 「春澄にとへ」の巻百韻に、

   月の秋うらみはこべの且夕て
 露にしがらむ妹が落髪      桃青

   月に秋とふ東-金の僧
 淋しさを蕎麦に露干す豆俵    才丸

 「世に有て」の巻百韻に、

   内に寐ても心はきのふ羇旅
 米とぐ音の耳に露けき      揚水

   粟刈敷て団子干す比
 露鶏の羽がひの鷇ひよひよと   揚水

   きたなくて清き隣と住月に
 明て寐御座をかけ渡す露     才丸

   風の月熱の御灵を鎮めける
 黄なる小僧の怪しさよ露     其角

などの句が見られる。

「石菖の露も枯れ葉や水の霜    角
 雫とは似て似ぬものや草の露   幸水

 さまざまに作り分けたる菊の中に飼れて、

 白鳥の碁石になりぬ菊の露    角」(雑談集)

 其角の句は、「石菖の露も(いつしか)枯れ葉の水の霜(となる)や」という言葉の続き方だろうか。文法的には難しい。石菖は寒さに強く冬越しもできるが、霜が降りると葉が茶色くなり枯れたみたいになる。秋の石菖に降りる露は奇麗でも、やがてその露の水は凍って霜に変わる。
 幸水の句は「草の露は雫とは似て似ぬものや」の倒置でわかりやすい。
 比喩で用いられることの多い露も発句では実際の露の興を起こして、その心に迫る方法が望ましい。追悼などの句ではその限りでないが、発句は基本的に季語の心を言い興すものだ。月見の句でも月を見る心が大事で、「月見あるある」は駄目というほどのものではないにせよ、それより一つ格が落ちる。

 白鳥の碁石になりぬ菊の露    其角

の句はいかにも其角らしい難解な句だ。
 問題はこの場合の白鳥が何を意味するかだが、「菊の中に飼われ」とあるから、今日のハクチョウとは思えない。
 和歌では「しらとり」は鷺坂山を導き出すのに用いられている。鷺坂山は今の京都府城陽市久世の辺りの坂道だと言われていて、ハクチョウの棲めそうな池もなさそうなので、しらとりは鷺を導く枕詞としてシラサギをそう呼んでいたのではないかと思われる。
 また、しらとりは鳥羽田にも詠まれる。京都伏見の鳥羽の田んぼで、これも鳥の羽に掛けたものと思われる。
 ハクチョウにせよシラサギにせよ、菊の咲く庭で飼っていたとは思えない。そうなると、ますます謎は深まる。
 ただ、昔は田んぼのある所には溜池は付き物なので、そういった所にハクチョウが飛来してたとしても不思議はない。シラサギとハクチョウの句別は、江戸時代でもツルとコウノトリの句別が曖昧だったように、それほど厳密ではなかったから、「しらとり」から鷺を導き出すのも、そんなに不自然ではあるまい。
 白鳥が文字通りのハクチョウだとすれば、「碁石になりぬ」は白い親鳥と灰色の若鳥の混在した状態だというのが理解できる。旧暦九月くらいだと雛鳥は成長したものの、まだ灰色の毛を残していて、確かにそれを碁石に見立てることも可能だろう。
 もう一つ考えられるのは、白鳥は単なる白い鳥という意味で庭で飼われる鶏か家鴨を意味していた可能性だ。家鴨も時代は下るが鈴木其一『水辺家鴨図』でも白い家鴨と濃色の家鴨とが混ぜて描かれている。これだと飼われていてもおかしくない。
 「菊の露」は菊の花に降りた露の実景として、ハクチョウの白と灰色の混じる池の畔に咲いている景色と見るのが表向きの意味になる。ただ、「菊の露」は重陽の菊の酒を連想させ、酒といえば白磁で出来た徳利のことを白鳥徳利と呼んでたことがまた連想される。
 元禄七年刊の『其便』所収の、

 白鳥の酒を吐くらん花の山    嵐雪

の句は白鳥徳利のことと思われる。
 白鳥がハクチョウなのかアヒルなのかは決定しがたいが、白鳥は白鳥徳利に掛けていて、菊の露に菊の酒の連想が生じることは狙っていたのではないかと思う。アヒルだったら酒の肴にもなる。(ハクチョウも食べてはいたがあまり一般的ではなかった。)

2025年1月28日火曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「なには人福の神を祈りて七人が句を奉る中に、大黒天をいさめ申せと樽ひとつ送られたり。

 年神に樽の口ぬく小槌かな    其角」(雑談集)

 難波人とあるから貞享五年に上方へ行った時のことか。西鶴にも再会している。
 七福神の句を七人に割り振ったのだろう。其角の担当は大黒天で、この場合の「いさめ」は「いさめる」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「勇める」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 他動詞 マ行下一段活用 〙
  [ 文語形 ]いさ・む 〘 他動詞 マ行下二段活用 〙
  ① はげます。力づける。元気づける。
  [初出の実例]「あまりにおくれたれば、いさむる也、とて太刀をさされぬ」(出典:平治物語(1220頃か)中)
  ② 慰める。慰めやわらげる。
  [初出の実例]「廿一むらうちこ共、まつり事をぞはしめける、神をいさめ奉る、我てうにかくれなく」(出典:説経節・あいごの若(山本九兵衛板)(1661)六)」

とある。大黒天を囃し立てるというような意味か。
 大黒天は打ち出の小槌を持っているから、その小槌で酒樽の蓋を割って開けてくれ、となかなか面白く、見事に決まっている。

 「む月三日の暁巴山が夢に衆鼠懐に入ると語る。

 引つれて松をくはゆる鼠かな   仝」(雑談集)

 巴山は『猿蓑』に、

 青草は湯入ながめんあつさかな  江戸 巴山

の句がある。正月三日の明け方に、たくさんの鼠が懐に入ってきた夢を見たという話をしたのだろう。鼠は大黒天の使いで目出度いことには違いない。大黒天を勇むる句と並べたのもそういう意図だろう。
 鼠といえば正月初子の日に小松引きをする。だからそれはきっと、大黒天の使いの鼠たちが小松引きをやって、そのお目出度い松の枝を咥えてやって来たのだろう、と巴山に言ったのだろう。

 「此比落穂の題にて当座句合 沾徳判

 草枕畳のうへもおちほかな    亀翁
 鶏の卵うみすてし落穂かな    角

 鶏を家鳩とおぼして持に成りぬ。
 予おもふに題に合せて穿義すれば、家鳩よく叶へり。一句の体をいふ時は鶏といへる句から宜き也。句からと趣向との狂へる所は予が未練にや。岨のたつ木にゐる鳩鴫たつ沢の鴫いづれも全体の形容うごく事なし。

 真向きなる木兎見えぬ山路かな  子英
 茶の花に画眉ひとつを詠めかな  イセ 柴雫
 鵙なくやはつかあからむ柚の頭  尾州 野水」(雑談集)

 「落穂」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「落穂」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 収穫の際に落ち散ったまま見捨てられている穀物の穂。遺穂。土穂(つぶ)。《 季語・秋 》
  [初出の実例]「うちわびておちぼ拾ふと聞かませば我れも田面に行かましものを」(出典:伊勢物語(10C前)五八)
  ② 落ちた葉、または小枝。
  [初出の実例]「落穂(ヲチボ)松笠など打けぶりたる草の庵」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)松島)」

とあるように、必ずしも稲や麦の穂を意味するのではない。落葉や落ちた枯枝などを指す場合もある。この句合でも①と②のどっちの意味でも良かったのだろう。
 亀翁の句は、旅寝のことを「草枕」とは言うけど、本当に野宿したのは昔の話で、今は宿屋に泊って畳の上に寝たりもする。ただ、畳の材料は藺草だし、藁の上に寝ているようなものだから、これも落穂の上の草枕といっても良いんではないか、といった所だろう。
 其角の句は景色を詠んだ句で、庭鳥は必ずしも鶏ではなく、庭にいる鳥の意味で、それが落葉や枯枝か、やはり藁のイメージがあるのだろうか、そこに卵を生んでそのまま行ってしまった、とする。
 こういうことをするのは鶏ではなく家鳩(今でいうドバト)ではないかということで、引き分けになった。鶏だと負けということか。
 其角も言われてみれば確かに鶏よりも家鳩の方が「あるある」だし、なるほどその方が面白いと思ったのだろう。
 最初は鶏のつもりで作ったが、言われてみると家鳩の方がいいというので、「句からと趣向との狂へる所は予が未練にや」と最初から家鳩で作れなかったのが自分でも残念だったと思ったのだろう。
 「岨のたつ木にゐる鳩」は、

 古畑の岨の立つ木にゐる鳩の
     友呼ぶ声のすごき夕暮れ
            西行法師(新古今集)

 「鴫たつ沢の鴫」は言わずと知れた、

 心なき身にも哀はしられけり
     鴫たつ沢の秋の夕暮
            西行法師(新古今集)

の歌で、こうした歌の鳩や鴫は他の鳥に替えることができない。これを「動くことなし」という。
 その後掲げる三句も、他の鳥に替えることの出来ない句ということで並べたと思われる。

 真向きなる木兎見えぬ山路かな  子英
 茶の花に画眉ひとつを詠めかな  柴雫
 鵙なくやはつかあからむ柚の頭  野水

 木兎はミミヅク。画眉はホオジロで、最近郊外でうるさく鳴いているガビチョウのことではない。鵙はモズ。

2025年1月26日日曜日

  今日の句会の句

 疑うな煌めくものは葉も牡丹
 凍月の粒子金銀降る夜かな
 水仙は星蝋梅は月の露

 それでは『雑談集』の続き。

 「自性といふ題にて

 安心の僧もかなしや秋のくれ   枳風

 或る僧難して云ふ。
 「安心の上に悲みなし。『かなしめ秋のくれ』といはば可叶」
と。
 おもふに、『や』は休め字にてただ悲しと云へる句なれば、物我のへだてなく天地一己の自性を云へる句なり。花紅葉月雪ならばまのあたり成姿の心にふれて下知すべき句の体あり。お僧の心と俳諧の見いささかたがひある事ながらも迷悟の理は申すに及ぶまじくや。僧閉口。」(雑談集)

 自性はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「自性」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 仏語。物それ自体の独自の本性。本来の性質。本性。
  [初出の実例]「又金剛頂経云。諸法本不生。自性離二言説一。清浄無二垢染一」(出典:即身成仏義(823‐824頃))
  「仮に自性を変化して、一念化生の鬼女となって」(出典:謡曲・山姥(1430頃))
  [その他の文献]〔金剛頂経‐上〕」

とある。
 「秋のくれ」は自ずと悲しいもので、物それ自体の性だから、悲しみなど超越したような安心の僧であっても悲しくなる。

 心なき身にもあわれは知られけり
     鴫たつ沢の秋の夕暮れ
             西行法師

の心だろう。
 ある僧が難じて言うには、安心した僧に悲しみなんてものはないけど、秋の暮なんだから悲しんでくれという句にした方がいいとのこと。
 其角が思うには、「悲しや」の「や」は治定の「や」で、「安心の僧だって秋の暮はかなしい」という意味の句だが、僧の方は反語に取って「安心の僧は悲しむか、悲しむわけのない秋の暮」と取ったのではないかと。それだと悲しくなくても秋の暮の物自体の本性を感じて悲しんでくれと直したというのもわかる。
 「や」が疑問か治定かの議論は許六と去来の間にもあって、許六の『俳諧問答』にも記されている。当時治定の「や」に違和感を感じて、疑問に取りたがる人も多かったのだろう。地域差もあったのかもしれない。
 治定の「や」は近代では詠嘆というふうに解され、疑問の意味に取ることがほとんどなくなって行く。「や」が詠嘆に解されるようになったのは、思うに関西方言の「や」の影響だろう。
 両者の見解の違いが単なる「や」の意味の取り違えにすぎないとわかれば、「迷悟の理は申すに及ぶまじくや」ということになる。秋の暮は悟りを開いた僧であっても悲しい。それは「秋の暮」の自性だからだ、ということで両者納得ということになる。
 『去来抄』にも、

 「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国
 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾てさびしからず。仍て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若情有らバ如何にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。」((岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)

とある。先の僧の言い分も、秋の暮で悲しくなかったなら「悲しめ」と作ると良い、というものだ。それだと本意本情は守られる。
 秋の暮が悲しいのは単に主観的なものではなく、様々に文化が違ってもある程度普遍的に見られる現象で、だから物自体に具わった性質があると考えるのもそんな不自然なものではない。
 例えば人間の脳はあらゆるものに顔面を見出そうとする性質があって、壁の染みや木の木目、岩に日の当たった時の影が顔に見えたりするし、車のフロントのデザインにも容易に顔を見出す。
 同じように、生を喜び死を悲しむ感情は、あらゆるものに拡張される傾向があるのではないかと思う。いわゆる共感というのは、人の命以外にも容易に拡大されてゆく。
 万物に生死を見出すというのは単なる個人の主観ではなく、普遍的に見られるもので、何らかの生得的な基礎があるのではないかと思う。生き物が死ぬのが悲しいのはもちろんのこと、草木が枯れるのも悲しくなるし、それはさらに花が咲くのを喜び散るのを悲しみ、芽吹くのを喜び枯葉の落ちるのを悲しむことにつながって行く。
 一日のリズムとしても日が昇るのを喜び日が沈むのを悲しみ、一年のリズムとしても春を喜び、秋を悲しむ。こうした感情は普遍性を持っている。この普遍性こそが風雅の誠の基礎になっていると言って良い。
 近代西洋哲学の霊肉二元論の主客図式だと、人の感情は霊魂の自由によるものだから、物によって拘束されるものではないということで、秋の暮が悲しくなるのは単なる気のせいで、悲しくない秋の暮の句があってもいいじゃないかということにもなる。
 科学的に見るなら霊魂というのもまた肉体の遺伝的資質が作り出すものに過ぎず、人の感情は決して自由にコントロールできるものではないし、まして勝手に作り出したり改変したりできるものではない。むしろこうした肉体的要因を意図的に無視することは、理性の暴走を生み出す元になる。
 つまり理性的であることはどんな生理的感情に反する醜悪なことでも成し遂げられる。ナチの虐殺なども良い例だ。誰でも昨日まで一緒に生活してきた隣人をガス室に送るなんてことを快く思うはずがない。それが出来てしまうのは「思想」によって「正しい」と信じ込んでしまう「汝なすべき」の実践理性のせいだ。
 我が国の風流の道は「思想」によるものではない。人間の自然な感情に基づくものだ。花の咲くのを喜び散るのを悲しむ、春の始まりを喜び秋の暮てゆくのを悲しむ、それが風雅の誠だ。

2025年1月25日土曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 一句の主という意味では、

 目には青葉山郭公はつ鰹     素堂

の句でもって、今でも素堂は一句の主と言ってもいい。この句は延宝六年刊言水編の『江戸新道』所収でこの時点でも一世を風靡したのだろう。大胆な季重なりも談林時代なら納得がいく。
 ただそれ以上にこの句が元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に再録されたことが、今日までこの句が評価され続ける理由ではないかと思う。『江戸新道』という集は時代の流れとともに忘れ去られても、芭蕉七部集の一つにこの句があるせいで、近代になっても多くの人の目に留まることとなった。
 今では忘れられているが、談林時代の素堂はなかなかパワーがある。

 茶の花や利休が目にはよしの山  素堂
 遠眼鑑我をおらせけり八重霞   同
 武蔵野や月宮殿の大広間     同

 「我をおらせけり」の「折る」の用法は最近になって「心が折れる」というふうに復活している。
 言水は談林時代に『江戸新道』『江戸蛇之鮓』『江戸弁慶』『東日記』などの編纂の方で活躍したが、句の主となったのは京都に移ってからで、

 凩の果てはありけり海の音    言水

の一句を以て木枯の言水と呼ばれたという。

 「うぐひすや竹の枯葉をふみ落し 荷兮

 竹に鶯を取合せてと案じたらば古歌連歌にまぎらはしくなりて、発句に云ひとられまじくや。また初春の藪のそよぎを鶯かとも気を付けたる所、わづかに作意有り。それも又気色をさがし出て夏に之を求めて新しなどとおもはば、己れ合点したりと人の聞きしるまじき句なるべし。定家卿の歌は聞き得ること稀れ也など申すは恐れ多し。」

 竹に鶯は、

 世にふればことの葉しげき呉竹の
     うきふしごとに鶯ぞなく
            よみ人知らず(古今集)

以来、確かに和歌に詠まれている。当時の俳諧師には、

 鶯の宿しめそむる呉竹に
     まだふしなれぬわか音鳴くなり
            藤原定家(夫木抄)

の歌だったか。竹の節に鶯の鳴く声の節回しを掛けて詠むのがお約束といった所か。古い題材だけに、このまま発句にというのも難しい所だ。
 荷兮の句はこの古い掛詞に頼ってはいない。これが仮に初春の藪で音がしたのを鶯かと思うというなら、和歌にはない新味がある。初句の「鶯や」の「や」は疑いの「や」であって治定ではない。意味は「うぐひすや竹の枯葉をふみ落すや」になる。
 この時代は正岡子規の時代と異なり「作意あり」は別に悪いことではない。むしろ見どころがあるというニュアンスだろう。
 問題は「竹の枯葉」であろう。竹は冬に枯れるのではなく、初夏に竹の伸びる頃に枯れて落葉するので「竹落葉」は夏の季語になる。ただ「夏に之を求めて新し」というのは作り過ぎだ。
 竹に鶯が節を奏でるのではなく、かさこそ音を立てるという趣向迄なら俳諧らしい。鳴く蛙を飛び込む蛙にした芭蕉の句にも通う。そこに「竹の枯葉」を持って来てしまうのは興覚めだというわけだ。
 ただこれは其角の勘違いかもしれない。
 この句は元禄六年刊荷兮撰の『曠野後集』には、

 鶯や竹の古葉を踏落し      荷兮

の形で春の部に掲載されている。『雑談集』より後に出た集なので、其角は『曠野後集』が出る前に別の仕方でこの句を聞いていて、その際「古葉」が「枯葉」になってしまったのかもしれない。
 「古葉(ふるば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「古葉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 ( 「ふるは」とも ) 古びた葉。前年のまま残っている古い葉。
 [初出の実例]「Furufa(フルハ)」(出典:日葡辞書(1603‐04))」

とあるように、正月になって残っている去年の葉っぱであれば春の意味になる。
 もっとも、逆に其角のこの指摘を受けて枯葉を古葉に直した可能性もなくはないので、何とも言えない。

2025年1月24日金曜日

 今日は句会があった。

 爆音のバイクは消えて月寒し
 葉牡丹や公園は烏の歩み
 山茶花の名残ホワイトアウトする

 それでは『雑談集』の続き。

 「発句付句ともに句の主に成る事得がたき也。萬歳扇に名をはるやうにて作者の名句ことにあれども、一体を立されば其名しかと定めがたし。只持扇のやうに名を張り付けずして慥かなる句の主といはれん様に心得べし。すべてありていなる句にて秀逸なるは妙を得し上手也。

 大かたの月をもめでし七十二 西岸寺 任口

 手かはりなる句にて主に成らんと工みたらば伊丹の歳旦帖みるやうにておのづから興さめぬべし。」(雑談集)

 句の主というのは今で言うとヒット作と共にその名の広く津々浦々知られることというような意味だろう。芭蕉は古池の句を以って句の主となったし、その後初時雨の句を以ってまた句の主となった。
 萬歳扇はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「万歳扇」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 万歳②が用いる扇。また、転じて、粗末な扇。《 季語・新年 》
  [初出の実例]「万歳扇に名をはるやうにて、作者の名、句ごとにあれども」(出典:俳諧・雑談集(1692)上)」

とある。万歳②は、

 「② 千秋万歳をことほぐ意で、新年を祝う歌舞。また、その歌舞をする者。鎌倉初期以来宮中に参入するものを千秋万歳(せんずまんざい)と呼び、織豊・徳川の頃には単に万歳(まんざい)と呼んだ。江戸時代、関東へ来るものは三河国から出るので三河万歳、京都へは大和国から出るので大和万歳といい、服装は、初めは折烏帽子(おりえぼし)・素袍(すおう)であったが、後には風折(かざおり)烏帽子に大紋(だいもん)の直垂(ひたたれ)をつけ、腰鼓(こしつづみ)を打ちながら賀詞を歌って舞い歩いた。《 季語・新年 》」

とある。千秋萬歳の角付け芸で用いるようなものだから、そんな立派なものではなく、赤い扇に萬歳と書いてあったりする。
 「萬歳扇に名をはるやうにて」というのは、一時もてはやされてもすぐに消えてしまうようなという意味で、先に出てきた白炭の忠知(神野忠知)などもその類であろう。
 今の芸能人や芸人は一発屋でも地道に長く活動する人が多いが、昭和の頃は売れるとのぼせ上ってすぐに身を持ち崩して悲惨な最期を遂げる人も多かった。
 有名な句はあってもしっかりと実力に裏付けられた基礎がないなら、一発屋に終わって、句は残っても作者の名は「誰だっけ」になったりする。
 これに対して持扇(もちおうぎ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「持扇」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 所持している扇。特に、陣中で持つ扇の称。もちせんす。
 [初出の実例]「よろしき付句をいたされし時は、座中肝にめいじ、我をおぼえず同音に誉て、持扇(モチアフギ)のはしに書付」(出典:浮世草子・西鶴織留(1694)三)」

とある。これは地味で、目だったヒット作がなくても地道な努力をするということだろう。こうした努力はいつか実を結んで、自然と多くの人に評価され、句の主となってゆくのが望ましい。
 芭蕉も延宝の頃はまだ並みの作者の中の一人で、「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の句でようやく世間の注目も集めるようになり、古池の句で一気に大ブレイクした。
 これに対して、其角は果たして句の主というほどのヒット作があっただろうか、ということになる。百年以上の後の竹内玄玄一の『俳家奇人談』でも其角の人柄やエピソードの方に多くが割かれていて、この一句を以てというようなものがなかったようだ。自分自身への戒めだったのかもしれない。
 「すべてありていなる句にて秀逸なるは妙を得し上手也」と凡庸で誰でも作りそうな題材や趣向であっても、その中で抜きんでることができれば、それは上手というものだ。その一つの例が、任口上人のこの句であろう。

 大かたの月をもめでし七十二 西岸寺 任口

 西岸寺の任口とあるのは、伊勢久居藩主藤堂高通の方の任口がいるからで、西岸寺の任口は伏見の任口で、芭蕉(当時は桃青)も参加した『六百番俳諧発句合』の判を務めた一人であり、『野ざらし紀行』の時にも訪ねて行っている。
 七十二になるまでにいろいろな月を見てきた。何ということもない述懐で、七十二というのもただその時の年齢を言ったまでだろう。殊更技巧を凝らしたわけでもなければ目新しい趣向があるわけでもない。それでいて言葉穏やかに品が良く、確かな技術を感じさせる句だ。
 なんか奇抜なことをやって句の主になろうと細工をしてみても、伊丹の上島鬼貫の一派の歳旦帖のようなものになる、と。
 どういう歳旦帖だったのか読んでみたいが、歳旦帖はどんど焼きで燃やされることが多かったのか、この手のものは毎年大量に発行されたにもかかわらず残っているものは少ない。

2025年1月21日火曜日

 
 今日は厚木の飯山ローバイの丘に行って来た。蝋梅は普通は「ロウバイ」の表記だが、看板にはローバイとある。ロウバイと書いてあるところもあって表記が一定してない。
 規模は寄に及ばないし、山深い隠れ里の景色もないが、東京から近く飯山温泉郷があり飯上山 如意輪院長谷寺の飯山観音がすぐそばにある。
 写真は飯山観音からの眺め。

 それでは『雑談集』の続き。
 昨日の、

 白雨の日にすかさるるくもり哉  揚水

の句は同じ『雑談集』にこのあと、

 ゆふたちの日に透さるる曇かな  揚水

の形で出てきた。

 「此比の当座に、

 小男鹿やほそき聲より此流れ

と申しける折ふし百里が旅より帰りしに、木曽路の秋を語りけるにも畳のうへにては面白からぬけしきを云ひ出てけり。梯の水音今も耳に残りて覚えぬるといはれて、世につながるる事を歎きぬ。すべて景に合せては情をこらして扨景を尋ぬるが此道の手なるべし。富士を見ては発句ちひさくなりぬるは心の及ばざるゆゑ也。」

 百里は嵐雪の弟子で『其袋に、

 菅笠や男若弱(にやけ)たる花の山 百里
 老猫の尾もなし恋の立すがた   仝

などの句がある。
 「小男鹿」の句は百里の木曽路の旅の経験から生まれた句だったのだろう。木曽の梯(かけはし)は芭蕉も、

 桟やいのちをからむつたかづら  芭蕉

と詠んだ中山道の難所で、川に沿った切り立った崖の中ほどにある道で、丸太の上に板を渡した簡単な橋が掛けられていた。そこを通過した時は山からは鹿の声がして、下からは水の音がして、百里としては忘れることの出来ない思い出だったのだろう。ただ、江戸に来て畳の上で興行しても、その臨場感はなかなか伝わってこない。
 こういう時のポイントとしては、景色を思い浮かべたら、その時の情に合わせてそれにあったものを選びだすということだと其角は教える。切り立つ崖と深い谷底の絶景を思い浮かべたなら、その時の心細かったことを思い出して、それにあった景色、たとえば「命をからむ蔦かづら」のようなものを選び出す。芭蕉はそうした、という所だ。

 桟やあぶなげもなし蝉の声    許六

ほこの後の句になるが、羽根を持つ蝉の何食わぬ様子で鳴いているのが逆説的に道の危なさを表している。
 それに比べると百里の句は、確かに鹿の声や川の音は心細い感じはするが、「命をからむ」のような力強い情の発露は感じられない。その場にあったものを並べただけという感じがしなくもない。
 「富士を見ては発句ちひさくなりぬる」というのは、富士の大きさに圧倒されて、その感動を表すにはそれなりの強い言葉が必要になるということであろう。感動が強ければ強いほど、言葉がそれに追いつず、本来の感動が月並みな言葉で矮小化されてしまう。土芳の『三冊子』「くろさうし」にも、

 「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142~143)

とある。
 「取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし」という意味では、芭蕉は蔦かづらを心に留め、許六は蝉を心に留めてそれを素直に句にしたという所なのだろう。「小男鹿やほそき聲より此流れ」もそうした景色をそのまま句にしたようだが、この違いはおそらく、景に情がきちんと乗ってないからなのだろう。

2025年1月20日月曜日

 
 今日は寄(やどりき)の蝋梅を見に行った。

 それでは『雑談集』の続き。

「旦
 起き起きの心うこかしかきつばた 仙花
 七くさやあとにうかるる朝烏   角」

 「旦」は夜明け、明け方、朝という意味だが「元旦」の場合は慣用的に1月1日のことを指し、必ずしも朝のことではない。ここでは元旦ではなく、普通に朝という意味。
 仙花の句は路通撰『俳諧勧進牒』に収録されているし、『猿蓑』にも、

   起て物にまぎれぬ
         朝の間の
 起々のこころうごかすかきつばた 仙花

の形で収録されている。
 「起き起き」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「起起」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 起きたばかりであること。また、その時。起きたて。起きぬけ。
  [初出の実例]「起出て物にまぎれぬ朝の間の 起々の心うごかすかきつばた〈仙化〉」(出典:俳諧・猿蓑(1691)二)
  ② 起きることをいう幼児語。
  [初出の実例]「朝(あった)起々したら、お目覚(めざ)にお薩をやらうヨ」(出典:滑稽本・浮世風呂(1809‐13)二)」

とある。句の意味は、朝起きたばかりのまだ忙しくならないうちに、カキツバタが咲いてるかどうか気になる、ということか。それだけ咲くのが楽しみだということなのだろう。カキツバタは浅沢小野や安積などの歌枕にも縁がある。
 其角の句は、七草の菜を朝早く摘みに行くと、カラスの方が後から起きてくる、ということか。この句も『猿蓑』に収録されている。

「昼
 鳩吹や太山は暗き昼下り     粛山
 白雨の日にすかさるるくもり哉  揚水」

 この二句はどの集のものかわからなかった。
 鳩吹はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「鳩吹」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 山鳩を誘いよせるため、または鹿狩の際に猟師が鹿を呼んだり仲間に鹿のいることを伝えるために、手のひらを合わせて吹き、鳩の鳴き声に似た音を出すこと。また、同様の目的で用いられる楽器にもいう。《 季語・秋 》
 [初出の実例]「鳩吹や慰ながら病あがり 命ひらうて遠山を見る」(出典:俳諧・西鶴大矢数(1681)第一一)」

とある。狩の鳩笛は昼なお暗き山に聞こえてくるものだ。
 白雨は「ゆうだち」と読むが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「白雨」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 雲がうすくて明るい空から降る雨。ゆうだち。にわかあめ。《 季語・夏 》
  [初出の実例]「雷鳴白雨、陣立、按察依レ召参入」(出典:貞信公記‐抄・天暦二年(948)六月六日)
  [その他の文献]〔李白‐宿鰕湖詩〕」

とあるように、本来は暗雲垂れ込めた夕立ではなく、薄日の射した夕立をいう。「日にすかさるるくもり」はそのまんまと言えなくもない。

「暮
 やり羽子に長ばかりの日暮哉   亀翁
 日は没とくれぬは梅の木曲哉   柏舟」

 「やり羽子」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「遣羽子」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 一つの羽子を二人以上で突きあうこと。二人以上でするはねつき。おいばね。やりばね。《 季語・新年 》
  [初出の実例]「つき出るやりはごは皆鳥毛哉〈一雪〉」(出典:俳諧・鸚鵡集(1658)一)」

とある。今は歳旦の季語だが旧暦の時代は春の季語になる。「長」には「オトナ」とルビがある。子供は早々に遊び疲れてしまったか、それとも子供そっちのけで大人の方が夢中になってしまったか、日暮れ時に羽根突きをやってるのは大人ばかりだったりする。
 「没」は「イレ」とルビがあり、「日は入れど」になる。「曲」にも「フリ」とルビがあり、「梅の木ぶり」になる。日は沈んでも梅の木の枝ぶりは残光の中にまだはっきり見えるということか。

 「物おもへとは誰をしへけんとよまれし夕べ夕べの思ひせめて哀れふかし。起て今朝また何事をいとなまんとよみし朝烏の動静にかけて句ことの起点をはたらきぬべし。」

 「物おもへとは」は、

 あはれ憂き秋の夕べのならひかな
     物おもへとは誰をしへけむ
           宗尊親王(続古今集)

の歌であろう。夕暮れというのは物悲しいものだ。「起て今朝」は、

 起て今朝また何事をいとなまむ
     この夜明けぬと烏鳴くなり
           よみ人知らず(玉葉集)

の歌で、夕暮の心朝の心を以てして締め括りとする。朝烏が出てきた所で、

 七くさやあとにうかるる朝烏   其角

の句に戻ることになる。

2025年1月18日土曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「寝られぬ夜思ひ出せし句を書きとめて朝になりて吟じ返してみれば、句のふりも聊かかはりて心もたがひあるやうに覚えぬるに、陰気陽気の間か、句の浮沈おぼつかなし。荘子に陽の字を喜陰の字を怒と訓ぜしも一気のはこびなるべし。

 九たび起きても月の七ツ哉    翁
 ほととぎす我や鼠にひかれけん  角 
 起き起きの心うこがしかきつばた 仙花
 七くさやあとにうかるる朝烏   角
 鳩吹や太山は暗き昼下り     粛山
 白雨の日にすかさるるくもり哉  揚水
 やり羽子に長ばかりの日暮哉   亀翁
 日は没とくれぬは梅の木曲哉   柏舟

 物おもへどは誰をしへけんとよまれし夕べ夕べの思ひせめて哀れふかし。起て今朝また何事をいとなまんとよみし朝鳥の動静にかけて句ことの起点をはたらきぬべし。」(雑談集)

 九たび起きても月の七ツ哉    芭蕉

の句は『泊船集』では元禄四年として「旅寝長夜」と前書きがある。
 確かに「九たび」は「ここの旅」との掛詞で旅が隠されている。「七つ」は夜明け前の寅の刻で、「お江戸日本橋七つ発ち」なんて明治の頃の唄もある。芭蕉の旅でも急ぐ時には七ツ発ちをしたのだろう。『野ざらし紀行』の「残夢月遠し」のように。
 元禄四年は閏八月があり、八月の十五夜、閏八月の十五夜ともに膳所で過ごして、

 名月はふたつ過ぎても瀬田の月  芭蕉

の句を詠んでいる。九月の十三夜は之道・車庸とともに石山寺に詣でて、

 橋桁の忍は月の名残り哉     芭蕉

の句を詠んでいる。『雑談集』の末尾に「元禄辛未歳内立春月筆」とあるから、この本は元禄四年の師走までに書き上げられたことになるので、元禄四年秋の句でもおかしくない。
 この年の十一月二十九日には芭蕉は江戸に戻っているから、其角が眠れない夜にこの句を思い出したのも、それ以降のことであろう。とすると、十二月の満月の頃ということになる。
 ただ、この年は十二月十八日が新暦の二月四日になるから、それだと脱稿間際ということになってしまう。
 これと番わせている其角自身の句が時鳥の夏の句だから、芭蕉の句が元禄四年はちょっと無理があるように思える。元禄四年の夏の暑さで寝付けなかったころ、芭蕉の元禄三年以前の句を思い出したと考える方が自然なようにも思える。
 元禄三年の名月も膳所で過ごし、盛大な月見会を催し、

 名月や兒たち並ぶ堂の縁     芭蕉
 名月や海にむかへば七小町    仝
 月見する座にうつくしき貌もなし 仝

などの句を詠んでいる。
 その前年の名月の前日、元禄二年の八月十四日は福井から敦賀への長い道のりを行くため、未明に出発したと思われる。

 あさむつや月見の旅の明ばなれ 芭蕉

の句がある。同行が北枝から洞哉に変わり、洞哉も敦賀までということもあって、不安も多く、この夜眠れなかったことは十分考えられる。ここでの吟なら、後に曾良と再会した後曾良に伝え、その後江戸に持ち帰っていれば、其角も知ることとなっただろう。
 まあ、これはあくまで推測で、それより以前の句の可能性もある。
 其角の句の方は、

 ほととぎす我や鼠にひかれけん 其角

で、当時の日本橋伊勢町で時鳥の声が聞こえることもあったのか。それとも夜中に聞いた鼠の声を時鳥に見立てたのか。
 この日本橋伊勢町の其角の家は、そののち元禄十一年十二月十日の火災で類焼したが、その後も日本橋茅場町に居を構え、終生江戸の市街地に住み続けた。元禄十四年刊其角編の『焦尾琴』は新居で偏されたものだが、そこには「古麻恋句合」というまとまった猫をテーマにした発句合せがあるが、其角の猫好きも日本橋で常に鼠に悩まされていたこともあったのか。

   潜上猫若ねこにかたりて曰
 秋來鼠輩欺猫死 窺翁翻盆攪夜眠
 聞道狸奴將數子 買魚穿柳聘銜蟬
 (秋が来て鼠たちが猫が死んでこれ幸いと、
 甕を窺いお盆をひっくり返し夜の眠りを攪乱す。
 聞く所によると狸の奴に子どもが数匹いるというので、
 魚を買い柳の枝に差して銜蟬を召喚す。)

という黄庭堅の「乞猫」という詩を掲げて、

 「山谷カ猫ヲ乞フ詩也。猫死テ大勢ノ鼠ドモ秋ノ夜スガラアレマハルホドニ山谷ヲモアナヅリテ盆皿鉢ヲ打カヘシテ姦シクテネラレヌト也。サレバ猫ヲモラヒテ畜ントナリ。此比キケバ家ノ後園ニ狸共子ヲイツクモ産ミクルホドニ猫ガ居ルトシラバ一類ナレバ悦ビテ魚ヲ買テ柳ノ枝ニサシ貫ネテ人ノ如クニ禮聘シテ祝儀ヲ述ヌベシト也。䘖蟬トハ猫ノ異名也。花山院ノ御製ニモ
 敷島のやまとにはあらぬから猫を
     きみがためにと求め出たる」

と記している。
 「古麻恋句合」は推測だが、火事の時に死んだ「こま」という猫への鎮魂歌だったのではないか。いつの時代もキャットロスは悲しいものだ。
 「我や鼠にひかれけん」は時鳥ならぬ鼠の声を眠れない夜に聞くが、古人が時鳥に惹かれたように、われも鼠に惹かれるだろうか、ということだがこれは単なる疑問ではなく反語であろう。

2025年1月17日金曜日

 今日は大井町の水仙を見に行った。富士山は雲に隠れて寒かった。

 それでは『雑談集』の続き。

 「発句と付句との分別はきはめて物数寄あるべし。

 鼻紙を扇につかふ女かな     信徳

 是れは盃ほしかぬるかなど云ふ句に付る句也。もと付合の道具なるを珍しとおもへるは未練なるべし。

 河舟やみよしかくるる蘆のはな  亀翁

 これは水辺に付合の句なるを一句に優ありとて発句になほせし也。蘆間かくれに乗り越す舟工夫に落ちずして響たしか也。趣向にかかはる人はすべて発句成りがたし。風景をしる人思ひ出多し。此比信徳が文に此方などは例の発句下手にて、一句もえ申さずと卑下ながらに、

 名月よ今宵生るる子もあらん   徳

 いざよひの空や人の世の中といへる観念か是は今年就中膓先断と白氏の年を悲しみける心にもかなひて、信徳が老の誠なるべし。」(雑談集)

 「物数寄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「物好き」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 物事に特別の趣向を凝らすこと。風流なおもむきを好むこと。また、そのようなものや人。そのようなさま。すき。〔文明本節用集(室町中)〕
  [初出の実例]「物数奇(モノズキ)な座敷へ通され」(出典:夜明け前(1932‐35)〈島崎藤村〉第一部)
  ② 好み。趣味。
  [初出の実例]「夫はそなたの物好が能らう」(出典:虎寛本狂言・棒縛(室町末‐近世初))
  ③ 好奇心が強いこと。また、そのような人や、さま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  [初出の実例]「いやしき物好にもあらず、いろなる心にもあらねど」(出典:文づかひ(1891)〈森鴎外〉)
  ④ 普通と違った物事を好むこと。風変わりなものを好むこと。好事(こうず)。また、そのような人やさま。
  [初出の実例]「長安にものすきで有程に民間に散落した石どもを買てとりて」(出典:四河入海(17C前)九)
  「物好(スキ)や匂はぬ草にとまる蝶〈芭蕉〉」(出典:俳諧・都曲(1690)上)」

とある。①は近代の意味で、当時は④の意味。一般的な趣味というよりは一部の人に好まれるということで、近代の口語でも「物好きだなあ」とか言えば、揶揄するニュアンスがある。「オタ」に近いかもしれないが、様々な趣味の文化が広まるのは江戸後期のことで、元禄の頃は遊郭や芝居や、その時々の流行を追い求めるようなことを言ったとすれば、むしろ「ミーハー」の方に近いのかもしれない。
 『去来抄』「修行教」にも、

 「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一の物数寄なき句也。一時の物数寄なきゆへに古今に叶へり。譬へば
 月に柄をさしたらばよき団哉   宗鑑
 是は是はとばかり花のよしの山  貞室
 秋の風伊勢の墓原猶凄なほすごし 芭蕉
是等の類也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とあり、月を団扇に見立てるのは物数寄の内には入らないとしている。
 これに対して、

 「去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也。形容衣裳器物に至る迄、時々のはやりあるがごとし。 譬へば
 むすやうに夏のこしきの暑哉
此句体久しく流行す。
 あれは松にてこそ候へ枝の雪   松下
 海老肥て野老痩たるも友ならん  常矩
或は手をこめ、或は歌書の詞づかひ、又は謡の詞とりなどを物ずきしたる有り。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62~63)

 鼻紙を扇につかふ女かな     信徳

の句は延鼻紙のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「延鼻紙」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 延べ紙の鼻紙。江戸時代、ぜいたくな鼻紙として、遊女などの閨紙に用いられた。のべの紙。のべの鼻紙。
  [初出の実例]「犢鼻褌(ふんどし)百筋、のべ鼻紙(ハナガミ)九百丸〈略〉其外色々品々の責道具をととのえ」(出典:浮世草子・好色一代男(1682)八)」

とある。goo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」には、

 「のべ‐がみ【延(べ)紙】 の解説
 縦7寸(約21センチ)、横9寸(約27センチ)ほどの小形の杉原紙 (すぎわらがみ) 。江戸時代、高級な鼻紙として用いた。延べ。」

とある。厚手の杉原紙でこの大きさなら扇の代りになったのだろう。扇ぐというよりは顔や口元を隠したりするのに用いたのかもしれない。扇で顔を隠す仕草は中世の頃から絵などでよく見られる。
 「是れは盃ほしかぬるかなど云ふ句に付る句也。」とあるように遊郭で酒を酌み交わす時に口元を隠したりしたか。
 「付合の道具」という言葉があるが、この反対は「発句道具」であろう。この頃の俳諧では発句に相応しい言葉と付け合い程度に出す分には構わない言葉というのが暗黙の裡に区別されていたようだ。許六の『俳諧問答』にも、

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。
 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。
 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。
 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 「予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。」というのも、いきなり発明したのではなく、暗黙にそういうことが言われてたのを明確にしたと見て良い。
 この句別も何か法則があるというよりは、発句に相応しい情緒のある、いわばエモい題材で、そうでない普通の題材は平句道具、あるいは「付合の道具」で、鼻紙などというのもその類ということになる。

 河舟やみよしかくるる蘆のはな  亀翁

 この句の場合は元は付け句でも「河舟」に「芦の花」は発句に相応しい風情がある。「蘆間かくれに乗り越す舟工夫に落ちずして響たしか也。」だ。
 信徳の、

 名月よ今宵生るる子もあらん   信徳

の句は、信徳の名誉回復のために紹介したか。
 「今年就中膓先断」は『和漢朗詠集』の、

 「今年異例腸先断。不是蝉悲客意悲。
 聞新蝉 菅原道真」

のことか。「就中腸斷」は、

   暮立     白居易
 黃昏獨立佛堂前 滿地槐花滿樹蟬
 大抵四時心總苦 就中腸斷是秋天

の句があり、ごっちゃになった感じがする。蝉の声の哀しさに断腸の思いだという所は共通している。
 信徳の句は、名月に今宵生まれる子もあるというのに、それに引き換え自分は年老いて死に向かっている、という心か。

2025年1月16日木曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「去る比品かはる恋といふ句に

 百夜か中に雪の少将

といふ句を付けて忍の字の心をふかく取りたるよと自讃申しけるに、猿蓑の歌仙に品かはりたる恋をしてといふ句に、

 うき世のはては皆小町なり

と翁の句聞えければ、此句の錆やう作の外をはなれて日々の変にかけ時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかはれし境界にかなへる所、誠おろそかならず。少将と云へる句は予が血気に合ぬれば、句のふりもさかしく聞え侍るにや。此口癖いかに愈しぬべき。」(雑談集)

 前に支考の『葛の松原』を読んだ時にも、

 「晋子も鉄砲といふ名のいひ難しとて千々にこころはくだきけるや。おなじ集に品かはるといふ怠の論は微細のところかくぞ心をとどめけむ。殊勝の心ざしいとうらやまし。」(葛の松原)

という文章が出てきたので、そのときに、「『少将』は小町の所に百夜通いをした『深草の少将』のことで、百夜通えばその中には雪の日もあっただろうということか。芭蕉が年老いていった小町の末路に思いを馳せるのに対し、其角は小町の元に通う少将の方へ目が行ってしまった。」と記した。
 芭蕉の句の場合は、

   いのち嬉しき撰集のさた
 さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆

と勅撰集の選者の立場に立って、様々な恋句の分類を「品かはりたる恋」としたもので、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、

  「歌集ニハ恋之部ニ、逢ヒテ別ルル恋、不逢別恋、経年恋、待恋、後朝ナドサマザマアレバ、其そのヒビキヲ付つケタリ」

とある。それを芭蕉は小野小町ならこのすべての恋を経験して年老いて卒塔婆小町のようになり果てていったことに思いを馳せている。
 其角の場合打越の句がわからないからよくわからないが、前句の「品」のいろいろある中の「忍ぶ恋」に限定して付けて、百夜通いに行き着いたように思える。
 雨の日も雪の日も通い続けた深草の少将にも深い情があるし、其角が自讃するだけあって悪い句ではない。ただ「品かはりたる恋」を一人の好色の人生として捉えて、華々しく浮名を流しながらも人はいずれ年老いて行く運命に逆らえないと、これは芭蕉の得意とするテーマでもあった。
 『奥の細道』の末の松山のくだりの、

 「末の松山は寺を造つくりて末松山まつしょうざんといふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契ちぎりの末も、終つひにはかくのごときと悲しさも増まさりて、塩がまの浦に入相いりあひのかねを聞きく。」

なども、末の松山がどんな大津波でも越すことができなかったように君を愛し続けるという誓いも、結局老いには勝てず、いつか墓場の中に消えてゆくというこういう発想は、確かに芭蕉ならではのものだ。
 『野ざらし紀行』の、

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

の句にしても、元の案に、

 辛崎の松は小町が身の朧

があったことが『鎌倉海道』(千梅編、享保十年刊)にそのことが記されているという。これも辛崎の松の待ち続けているうちに卒塔婆小町のように老いぼれた姿になってゆく、その身の朧に春霞の松の木を重ねたものだったようだ。
 芭蕉からすれば、「うき世のはては皆小町なり」はその意味ではごく自然な発想で出てきたのだろう。この自然さこそが其角の羨む所で、様々な品の恋の中から忍ぶ恋を選び出して深草の少将の百夜通いに至り、そこに雪を添えて過酷な忍ぶ恋を演出した其角は、確かに捻り出した感がぬぐい切れない。
 「予が血気に合ぬれば、句のふりもさかしく聞え侍るにや。此口癖いかに愈しぬべき。」
はそういう意味での反省だったのだと思う。
 これは本意本情だとか風雅の誠だとかいうのが知識として知っているのではなく、普段の人生の観想の中ですっかり身に付いて、吐く言葉吐く言葉が自然に風雅の誠にかなうからこそできることだ。
 知識で捻り出す其角に対し、芭蕉の句はその生き様そのものであり、そこには大きな溝があったと言えよう。修行や学習を越えた、それは「悟り」と言っても良い。

2025年1月15日水曜日

  昨日は日記を休んでしまったが、初句会があってどんど焼きがあった。

 寒月に枝はちくちく何を刺す
 葉牡丹の風受け流す光かな
 暖冬に雲は因果の列をなす
 気持ち的に眼下は崖の初日哉

 それでは『雑談集』の続き。

 「俳諧に新古のさかひ分ちがたし。いはば情のうすき句はおのづから見あきもし、聞きふるさるるにや。又情の厚き句は詞も心も古けれども、作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」(雑談集)

 去来は『不玉宛論書』の中で「此道ハ心辞トモニ新ミヲ以テ命トス」とすと言っているように、おそらく芭蕉は去来に対してはそう教えたのだろう。これは裏を返すと去来の場合、発想が古いことが多かったか。『去来抄』を見ても、

 猪のねに行かたや明の月     去来

の句で芭蕉に、

 「そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」

と新味のなさを指摘されている。
 狩に行って、ふとその罪に気付いて猪を見逃して帰してやるという趣向は、

 明けぬとて野べより山へ入る鹿の
    跡吹きおくる萩の下風
              源通光

以来の古典的なテーマで、芭蕉は鹿を猪に替える程度のことではなく、和歌にはなかった趣向で、

 明けぼのや白魚白きこと一寸   芭蕉
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 仝

の句を詠んでいる。俳諧は新味をもって命とすというのは、そんな去来に戒めたものだったのであろう。
 其角に対してはどう教えていたのかはわからないが、「俳諧に新古のさかひ分ちがたし」は芭蕉の其角に対する教え方だったのかもしれない。『雑談集』は芭蕉存命中に書かれているから、少なくとも師の教えに背くものではあるまい。
 「いはば情のうすき句はおのづから見あきもし、聞きふるさるるにや。」というように、むしろ本意本情が備わってない、日常のその場その場の人情に流された句はすぐに古くなって飽きられてしまうというように、不易の情を重視した教え方をしていたのかもしれない。
 「又情の厚き句は詞も心も古けれども、作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」というように、人間のより根源的な普遍的な情、いわゆる風雅の誠の具わった句は、古いようでいて、今聞いても新鮮に感じられる。
 去来の猪の句でも、元の源通光の歌はもとより、芭蕉の句すら忘れられがちな現代にあっては、新しく感じられるかもしれない。不易の情は時代を越えて通用するので、一時的に古くはなっても、時代が変わればまた新しく感じられる。
 其角は一方で古典の蘊蓄を交えて句に権威を与えるような傾向があり、それは元禄二年の暮れに翌年の歳旦として詠んだ句、、

   手握蘭口含鶏舌
 ゆづり葉や口に含みて筆始    其角

に対して去来宛書簡で、

 「江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存候。乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易に候。」

と評している。

 「ゆづり葉を口にふくむといふ万歳の言葉*、犬打童子も知りたる事なれば、只此まヽにて指出したる、閑素にして面白覚候。」

と、「ゆづり葉を口にふくむ」という当時なら犬打童子も知ってる萬歳の言葉を持ってくる新味は評価できるが、前書きは不要だという。この前書きは岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。
 正月の目出度さは不易であり、それを祝う心も昔も今も変わらないのならば、漢の尚書郎を持ち出さなくても、萬歳の口上だけでそれは通じるというわけだ。
 今となっては萬歳の口上はほとんどの人の記憶からは消えてしまったが、「古い」というのは記憶があって、それがずいぶん昔に聞いた記憶だから古いというだけで、記憶にないことは却って新しい。去来の猪の句も夜興引(よごひき)の記憶が既に失われてしまってるため、古いというよりは、初めて聞いたということで新しさすら感じられる。
 不易の情の句は、まだ記憶があるうちは古く感じられても、記憶が一度失われてしまえば却って新しい。古いと思うのは記憶に残っているからだ。ひとたび忘れ去られてしまうと、不易の情をもつ芸術作品は再発見され新しい解釈が与えられる。
 昭和歌謡も80年代のシティーポップも、それをリアルタイムで聴いた世代からすると何を今更だが、知らない世代には却って新鮮に感じられる。
 そう思えば、古いか新しいかは長い時代の流れからすれば相対的なもので、記憶に残ってる程度の古さは古いが、それより前になると却って新しくなる。ただ、こうした再評価ができるのは不易の情を持つ作品に限られる。
 不易の情というのは、中世の顕密仏教だったり、江戸の儒学だったり、明治の国体だったり、戦後思想もまた今はまた大きな転換点を迎えていたり、思想やイデオロギーはどんどん古くなってゆくが、人間の情というのは古今東西変わらないもので、時代を越えて、国境を越えて人々に感動を与える、そういうものだ。「作者の誠より思ひ合ひぬるゆゑ、時にあたらしく不易の巧あらはれ侍る。」
 ならば去来に教えた「此道ハ心辞トモニ新ミヲ以テ命トス」は何だったのかというと、一周回れば新しくなるものでも、半歩遅れたものはどうしようもない、ということか。
 流行して多くの人に知られなければ、人々の記憶にも残りにくいし、それを後世に残そうという情熱もなかなか生まれないものだ。流行によって多くの人の心に刻まれたものだからこそ、多くの人の間にそれを残そうという情熱が生まれ、何らかの形で残っていれば一度は忘れられても時代が変わればまた復活する。

 「高位の人の取あへず思ひ出て給へる句、少年少女遊女禅門などの折にふれたる事云ひ出てしは心と心のむかひあへる故、等類ある句も聞きゆるされ侍り。なましひに点者で候といはるる心うしと嵐雪が身を恨みしもことはり也。人にはくずの松原とよばるる名さへうれしとよまれし。誠にゆかし。

 なんにも早や楊梅の実むかし口  梅翁
 四十はや朝顔の葉のいそがしや  嵐蘭
 年寄りもまぎれぬものやとしの暮 東順
   戒在色といふ所をよみて覚えて
 錦木や色のをはりの老男     是吉
 力なや麻刈あとの秋の風     越人
 陰惜き師走の菊の齢ひかな    露沾
 老の身の涼み所や蚊屋のそば   岩翁
 紙子着てくくり頭巾も三十哉   角」(雑談集)

 これは凡庸な句とて不易の情のあるものは侮ることができないということだろう。
 不易の句は普遍的であるだけに、誰もが口にすることであり、自ずと等類の句になりがちだ。今の俳句の言葉だと「類想」というが、等類・類想の多さはある意味不易である証しでもある。凡庸な句でも軽く見ることはできない。
 「高位の人の取あへず思ひ出て給へる句」というのは、高名な人にしては凡庸な句という意味であろう。
 「少年少女遊女禅門などの折にふれたる事云ひ出てしは心と心のむかひあへる」というのは、若者たちの不満の叫びや、風俗の人達の悲哀、禅問答のような人生の分かったような分からないようなもので、こういうのはいつの世でもある。今の俳句で言えば「孫俳句」なんてのもこのたぐいか。誰でも思いつく題材だから類句は多いが、それなりに共感を呼ぶもので一定の需要がある。
 点者の立場からすると類相の句は取りづらいから、頭を悩ませるところだ。
 テレビに出ているあの先生の「凡」というのもそのたぐいだ。立場から滅茶苦茶けなしはするが、本当の所自分も感動しているのではないか。
 「葛の松原」というのは、『雑談集』の一年後に支考の俳論のタイトルにもなるが、元は『選集抄』巻九第十一「覚英僧都事」に由来するもので、

 「そのかみ、陸奥の國のかたへさそらへまかりて侍りしに、信夫の郡くづの松原とて、人里遠くはなれたる所侍り。ひとへに山にもあらず、又ひたぶるなる野とも云べからず、すこしき岡と見えて、木草よしありてしげり、清水ともにながれ散れり。世をひそかにのがれて、此江のほとりに住みたきほどに見え侍り。」

という田舎の何の変哲もない所だが、世を逃れるのは良さそうな所があって、その松の木に、

 「昔は応理円宗の学徒として、公家の梵莚につらなり、今は諸国流浪の乞食として、終りをくずの松原にとる

 世の中の人にはくづの松原と
     よばるる名こそうれしかりけり

 于時、保元二年二月十七日、権少僧都覚英、生年四十一、申の刻に終りぬ」

と書いてあった、その古事による。今では桑折町の松原寺に明和5年(1768年)に建立された碑があるが、芭蕉の時代にはまだどこにあるのか特定されてなかったのかもしれない。伊達の大木戸の記述はあっても葛の松原のことは曾良の旅日記にも記されていない。桃隣の『舞都遲登理』の旅では行きにも帰りにも桑折を通っているが、朝日山法圓寺の黄金天神の記述はあるが葛の松原の記述はない。支考も芭蕉のあとを追って陸奥を旅し、その後に『葛の松原』を書き表しているが、立ち寄った記述はない。
 葛の松原は葛に埋もれた松原のような何の変哲もない場所の例えとして用いられていたのだろう。凡句でもたくさんの類句に埋もれているだけで、その人にとってはかけがえのない句だったりする。
 其角がここに掲げた句も、凡庸だが捨てがたい句ということだろうか。最後の其角の句を除けば老いを歎く句で、これも今でも定番ともいえる。

 なんにも早や楊梅の実むかし口  梅翁
 四十はや朝顔の葉のいそがしや  嵐蘭
 年寄りもまぎれぬものやとしの暮 東順
   戒在色といふ所をよみて覚えて
 錦木や色のをはりの老男     是吉
 力なや麻刈あとの秋の風     越人
 陰惜き師走の菊の齢ひかな    露沾
 老の身の涼み所や蚊屋のそば   岩翁
 紙子着てくくり頭巾も三十哉   角

 其角は漢文元年(一六六一年)の生まれで、この本の出た元禄四年(一九六一年)の時点では数えで三十一、句は前年の冬のものであろう。まだ老境の句には早いが、それを真似てみたということか。