2025年9月7日日曜日

  『竹取物語』は純然たるフィクションとは言え、モチーフの一部の中には当時の人の関心ごととかが反映されてたりするのは、ラブ・クラフトの『インスマウスの影』が少なからず侵略の歴史の記憶がアレンジされてるのと似た様なものだろう。
 夢というのは外界の刺激が微妙に反映されるもので、弾丸の雨の降る中を逃げ回る夢を見て目が覚めたら雨が雨戸をバラバラ打ち付ける音がしていたとか、それに似ている。

 斬られたる夢はまことか蚤の跡 其角

のようなものだ。
 だから『竹取物語』は斬られた夢であっても、そこに蚤の跡を見いだすことはできる。
 そもそもかぐや姫の登場は西施のような中国が他国を弱体化させるのに美女を送るという漢籍によって知った事件が反映され、日本の朝廷の貴族たちもたちまちかぐや姫にメロメロになって政治のことも放ったらかして注文の品物の工面に精を出す。あたかも竹取の翁は中国の工作員で、かぐや姫を使って日本の弱体化を図ったかのようだ。
 そのかぐや姫も月へと帰って行く。そしてそのあと届くのが不老不死の仙薬だった。
 中国の高級官僚もまた、怪しげな不老不死の仙薬で却って命を縮める者が多かった。大抵はヒ素が用いられていて、運が良ければ臨死体験をして神仙郷が拝めたに違いない。それが日本に入ってくるというのは一大事だし、実際に奈良時代に入って来ていたと思われる。
 そんな記憶があるから、最後はその仙薬を富士山で燃やすことになる。それは永遠の命なんて欲しくないという日本人のいかにも日本人らしい宣言だった。それはイワナガヒメを捨ててコノハナサクヤヒメを選んだ日本の神話にも繋がる。
 美女に関しても、日本人は絶世の美女にそんなに高い関心を持っていない。美人よりも可愛い女を好むし、その可愛さも人それぞれのヘキに応じて多様化している。少なくとも日本ではミス日本のことがほとんど話題にはならない。その国のミスを知らないというのは世界でも珍しい部類に入ると思う。
 永遠の命と同様、絶世の美女など欲しくないというのもいかにも日本人らしいし、この二つがある限り日本は中国に負けることはないだろう。

 秋天の不二や仙薬要らぬ国

2025年9月6日土曜日

 中国人は古代から不老不死への並々ならぬ情熱を持っていた。
 秦の始皇帝は不老不死の仙薬を求め、その命で徐福に東方海上の三神山を目指し、一説には日本にたどり着いたという。
 唐の時代でも怪しげな仙薬が貴族の間に出回り、ヒ素で却って命を落とすものも多く、運よく臨死体験から生還した者は神仙卿の伝説を広めた。
 今もまたこの夢を追う者が、歴代皇帝のなしえなかった野望を臓器移植に託す。

 不老不死の夢黒塚の秋思哉

2025年7月17日木曜日

  それでは切字の続き。

 第四型

 時鳥暁傘を買せけり 其角

の句は構造としては、

 時鳥(主語)は暁に傘を買わせ(述語)けり(切れ字)

で時鳥が擬人化されている。
 季題が五文字の場合は述語を考えて断定すればいいだけだから、初心者でも作りやすい形なのかもしれない。
 もちろん「けり」の強い断定に囚われる必要はなく、末尾の切字は「かな」「けり」「べし」「ぬ」形容詞の「し」などに変えても構わない。
 元が上五の格助詞の省略された形なので、季語が四文字であれば普通にそこに格助詞を補えばいい。
 下五をより強調したい場合には、下五を倒置にして上五に持ってくることもできる。


 第五型

 かきつばた畳へ水はこぼれても 其角

の句は構造としては、

 かきつばた(主語)は畳へ水がこぼれても‥‥(述語・切れ字の省略)

の形になる。変則的な形なので、表面的には切れ字のない形になる。
 この句の場合は「こぼれても」のあとの文章の省略とも取れるが、たとえば「いいもんだ」というのを補った場合、

 杜若は畳へ水はこぼれてもいいもんだ

になるが、これは、

 畳へ水はこぼれても杜若はいいもんだ

の形にして杜若を前に持ってきたというふうに考えることもできる。つまり大廻しの一種と考えて良い。基本的には倒置した上での切字の省略で、切字だけでなくその上の述語まで省略することもありうると考えればいい。

 鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨

の句は「いわしぐも」の「いわし」を「言わじ」に掛けて「告ぐべきことならず」を導き出す体で、

 鰯雲なれば人に告ぐべきことならず

の「なれば」の省略になる。この句の場合は「ず」が終止言で切字の役割を果たしているし、倒置もないので大廻しではない。

 帰花それにもしかん莚切レ 其角

 この場合も、

 帰花なれば、それにも莚切れを敷かん

であり、「敷かん」という撥ねの言葉が切字になっている。倒置はあるが大廻しではない。

 蟇誰かものいへ声かぎり 楸邨

 これも「なれば」の省略。

 ヒキガエルなれば声限り誰か物言え

の倒置で、「いへ」という命令形が終止言になり切字になる。大廻しではない。

2025年7月15日火曜日

  それでは切字の続き。

10,五つの型との関係

 第一型

 名月や畳みのうへに松の影 其角

の句は構造としては、

 明月の夜には畳の上に松の影(主語)が生じる(述語)や(切れ字)

の述語が省略した形となる。
 第一型は、
 1,頭から順番に言い下す文章に、本来末尾に来る治定の「や」だけが倒置になって、上五の下に持ってくる場合。
 2.下五全体を倒置にして上五に持ってくる場合。
 3.上五を「や」で一旦切ってから、下五に別の文章を続ける場合
の三つがある。
 1の場合は「や」を他の格助詞(「は」「に」「を」など)に置き換えても意味が通じる。

 名月や畳みのうへに松の影 其角
(名月は畳のうへに松の影を落とすや)
 
 2は上五を下五に持っていくと意味が通る。

 明行や二十七夜も三日の月 芭蕉
 (二十七夜も三日の月に明行や)

 3は「や」を他の格助詞に置き換えることもできず、かといって倒置で下五を末尾に持って行ってもつながらない。

 菜の花や月は東に日は西に 蕪村
 

 第二型
 
 越後屋に衣さく音や更衣 其角

の句は構造としては、「衣更えで越後屋に衣さく音(の響く)や」の倒置になる。
 「や」に限らず中七が終止言で切れる場合は、ほとんどの場合が下五を頭に持って来れば意味が通じることが多い。
 そのため、この第二型は「や」を「けり」「なり」「たり」「し」などに変えることができる。

 葛の葉の面見せけり今朝の霜 芭蕉
 (今朝の霜に葛の葉の面見せけり)
 撞鐘もひびくやうなり蝉の声 芭蕉
 (蝉の声に撞く鐘もひびくようなり)
 誰やらが形に似たりけさの春 芭蕉
 (今朝の春は誰やらが形に似たり)
 五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
 (最上川は五月雨を集めて早し)

 ただ、この倒置は必ずしも上五に来ない場合もある。

 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規

の場合は「柿食えば法隆寺の鐘が鳴るなり」の倒置になる。


 第三型

 かまきりの尋常に死ぬ枯野かな 其角

の句は構造としては、

 枯野でかまきりは(主語)尋常に死ぬ(述語)かな(切れ字)

の倒置された形となる。この場合はゼロ型と言っても良い。
 「かな」は末尾に来ることがほとんどであるため、ゼロ型と変わらないが、主語や述語が省略される場合もある。

 春たちてまだ九日の野山かな  芭蕉

は「野山は春立てまだ九日(なる)かな」で述語が省略されている。

 なにの木の花ともしらずにほひかな 芭蕉

は匂いを放つ主語(おそらく伊勢神宮を指す)が省略されている。

2025年7月14日月曜日

  切字の続き。

 土芳の『三冊子』「くろさうし」には、

 「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

とある。

6,「たり」「なり」「べし」などの終止言

 基本的には「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。

7.「し」

 これは文語形容詞の語尾の「し」で、過去の「し」は切れ字にはならない。口語形容詞の「い」は連用形が同型でであるため、明確に終止形だとわかる場合以外は切れ字として機能しない。
 これも「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。
 倒置で上五に持ってくることもできるが、その場合は「おもしろし→おもしろや」のように「や」を使うことが多い。
 また倒置で形容詞を上五に持ってきた時に、語尾の「し」を省略する場合があり、この場合は「三体発句」と呼ばれる。

 あなたふと青葉若葉の日の光 芭蕉

の句はよく知られている。
 日本語の形容詞は口語では語尾が省略されることが多い。現代語でも「こわい→こわっ」「はやい→はやっ」「きもい→きもっ」という例は枚挙にいとまがないが、こうした省略は平安時代の『源氏物語』にも見られる。

8,疑問反語の言葉

 終止言ではないが「何」「いつ」「いづこ」などの疑問の言葉は通常の文では末尾にも疑問の「や」を補い、「何を言わんや」「いつ来るや」「いづこより来たらんや」の様に用いるが、この「や」を省略しても完結した文章として成立する。そのため切れ字とされてきた。

 何に此師走の市にゆくからす 芭蕉

は「何(ゆえ)にからすはこの師走の市に行く(や)」の倒置で、疑問の切字の「や」が省略されたものと考えて良い。

 いづくしぐれ傘を手にさげて帰る僧 芭蕉

の場合は「いづく時雨(や)、傘を手にさげて帰る僧」の切字の「や」の省略と考えて良い。

9,大廻し

 中世連歌の時代から切字なくても句が切れる例として「三体発句」と「大廻し」が挙げられてきた。三体発句の方は形容詞語尾で切字になる「し」の省略で説明がつく。
 また、「三体発句」「大廻し」の用語は口伝で伝わっていくうちに途中で変化していることもあり、芭蕉の師匠でもある季吟の『季吟法印俳諧秘』では、

   「第十二 大まはし発句事
 あなたうと春日のみがく玉津嶋 古句
 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣
 右三通の発句、甚深の相伝有事也。其道の堪能ならずしては、仕立やう知とも無益の事也。俳踰の罪のがるるに所なけれ共、とてももの事に愚句一句書付侍し。」(俳諧秘)

とあり、季吟には正確な伝授がなかったと思われる。
 また「或人之説 連俳十三ケ條」に、

  「大廻し之句とて、
 五月は峰の松風谷の水
 右大廻し共、三段共、三明の切字共云也。やの字をくはへてきひて書也。十八てにをはの格也。
 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん
 右の格也。上五文字にて、し、やと疑ひ、扨はねるにてにをはなり。」(俳諧秘)

とある。
 この句の場合は「五月は」では字足らずで書き間違えがあったのか。ここが五文字だとして、「五月や」でも意味が通じるから、「やの字をくはへてきひて書也」ということなのであろう。「や」を使うべき所を「は」としても切れるということなのだろうか。
 このあとに「や‥‥らん」の例を挙げているように、

 五月や峰の松風谷の水なるらん

の「なるらん」の省略と思われ、「や」と切るべき所を「は」とした句と思われる。

 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣

の場合は、「犬桜を見るにつけても、そのような小さな花すらさかぬ身は泣くばかり」という句で、「泣くばかり」のあと本来来るべき「なり」の省略と見て良いだろう。
 大廻しは基本的には終止言の省略と見て良いのではないかと思う。また、「大廻し」という名称は倒置の際に終止言が省略されるという意味合いがあったのではないかと思う。
 切字のない句の例としては、誰もが知る、

 目には青葉山時鳥初鰹 素堂

の句がある。これも、青葉、時鳥、初鰹すべてそれぞれ述語が省略されているが。「目に青葉」ではなくあえて字余りでも「目には青葉」とした所に、この「は」に「や」と同等の意味を持たせようとしたのではないかと思う。
 中世連歌でも梵灯の『長短抄』では、

 山はただ岩木のしづく春の雨

は大廻しで、

 あなたうと春日の磨く玉津島

は三体発句になる。
 「山はただ」の句は、「春の雨に山はただ岩木のしづく(なり)」の倒置による終止言の省略なので、おおかた大廻しは「倒置の際の終止言の省略」で合っていると思う。

2025年7月13日日曜日

 4,「かな」という切れ字

 「かな」は治定の切れ字になる。疑問を持ちつつも主観的にそれを肯定する働きを持ち、強い主観的な肯定は詠嘆にもつながる。主観性が強いという意味では「けり」や「たり」とは異なる。
 今日の標準語では「かな」は疑問には用いられるが、語尾を下げて「かなあ」としてもやはり疑問の言葉にしかならない。「かな」を治定に用いる用法は関西方言の「がな」にその名残を留めている。
 下七の末尾に用いられるのがほとんどだが、希に倒置で用いられることもある。

 乞食かな天地を着たる夏衣 其角

は「乞食は天地を夏衣に着たるかな」の倒置で、これが「乞食は天地を着たる夏衣かな」になり、例外的に係助詞のように「乞食かな天地を着たる夏衣」になる。特殊な例と言えよう。上五を「こつじきや」にすると、この「かな」の働きが係助詞的なものだというのがわかる。
 付句では、『大坂独吟集』第五百韻、鶴永独吟百韻「軽口に」の巻に

    大師講けふ九重を過越て
 匂ひけるかな真木のお違

の用例がある。「真木のお違(棚)の匂ひけるかな」の倒置で、この場合は上の言葉ごと倒置になっている。
 「かな」は治定の言葉という点では「や」に似ているので、推敲などの際には「や」と「かな」は変換して考えることができる。

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
 古池に蛙飛び込み水音かな

 木の下に汁も鱠も桜かな 芭蕉
 木の下や汁も鱠も散る桜

もちろん、可能というだけのことで、句を案じている時にうまくまとまらない時にはこういう操作をしてみると良いかもしれない。

5,「けり」

 「けり」は主観性が弱く客観性が強く、単に過去というよりも完了に近く、もはや取り返しのつかないというニュアンスを持っている。
 
 道の辺の木槿は馬に食はれけり 芭蕉

はそのニュアンスを生かし切っている。
 それゆえに使うのが難しく、芭蕉はあまり「けり」の字を好まず、用例も少ない。逆に近代の写生説の時代には多用された。

2025年7月7日月曜日

  おとといの切れ字の話の続き。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

 かなしまむや墨子芹焼を見ても猶 芭蕉

の場合は「墨子芹焼を見ても猶かなしまむや」の倒置であることがすぐわかる。「や」だけでなくその上の文まで倒置にする例は、特に中七に「や」を持ってくる句に多い。

 世の人の見付ぬ花や軒の栗 芭蕉
 (軒の栗は世の人の見付ぬ花や)
 ともかくもならでや雪のかれお花 芭蕉
 (ともかくも雪の枯れ尾花にはならでや)

 こういう倒置は他の切れ字でも頻繁に行われる。


3,「か」という切れ字

 「か」は「かな」に適うという。

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮
 木枯らしに浅間の煙吹き散るか 虚子

は「吹き散るかな」と切るべき所を字数の関係で「か」で止めている。

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音 芭蕉

 この句も山吹が散っていることに疑問を呈するのではなく、滝の音とともに山吹も散っているかのようだと、主観的に治定する「か」で字余りを気にしないなら、

 ほろほろと山吹散るかな滝の音

としても良いところだ。

 草枕犬も時雨るかよるのこゑ 芭蕉

 同じ治定の言葉に「や」もあるから、「時雨るや」でも良さそうな感じがするが、「か」の方が疑問の用法で多用されるために、疑問の強い治定、主観性を強調したい治定の場合は「か」を用いているように思える。
 稀だが、「かや」というのも用いられる。

 一里はみな花守の子孫かや 芭蕉

 これは花守の子孫だという伝承に対して、本当かどうかわからないがこの土地に敬意を評して信じておくべきだ、みたいなニュアンスが感じられる。この場合の「かや」も「かな」よりも疑いの強い治定と見て良いだろう。治定するにしても、まさかそんなことがあるのかみたいな驚きを伴う時には「かな」では弱い。
 「か」はもちろん疑問にも用いられる。

 切られたる夢はまことか蚤のあと 其角

 夢は外界の影響を受けるというのはよく言われる。戦地で弾丸の中を逃げ惑う夢を見て目が覚めたら、大粒の雨がトタン屋根をバラバラ打ち付けていた、なんて話も聞く。
 この句の場合切られた夢を見てはっと目を覚まし、切られた箇所を確認すると、そこに蚤に喰われた跡があって、「本当だったか」というわけだが、勿論ここは「本当だった」と治定するわけではない。夢は夢、幻は幻だ。
 この句の場合も「夢はまことや」としてしまうと、蚤の跡を見つけた時の驚きが伝わってこない。

 「か」は「や」と同様係助詞でも用いられるが、「や」のような助詞だけでの自在な倒置は行われない。上にくる言葉ごと倒置するのが常だ。少なくとも、

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮

の句で、

 木枯らしか二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日か月の吹き散る
 木枯らしに二日の月か吹き散る

という操作はできない。「や」であれば、

 木枯らしや二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日や月の吹き散る
 木枯らしに二日の月や吹き散る

という操作は可能だ。

2025年7月5日土曜日

  昨日の切れ字の続き。

 1,切れ字の種類

 切れ字については昔は口伝で伝えていたため、連歌論書でもあまり詳しい記述はなく、切れ字の種類を列挙した者も少ない。その少ない中に、以下のものがある。

 康応二年(1390年)の梵灯『長短抄』には以下の切れ字が挙げられている。

 「かな けり ぞ か べし や ぬ む(撥ね字)、成敗の字、す よ は けれ」

 延宝六年(1678年)の立圃編『増補はなひ草』には、

 「哉・けり・たり・めり・や・ぞ・し・じ・き・ぬ・:つ・む・か。なぞ・いさ・なに・いづく・いづこ・いづれ・いかで・など・いく・さぞ・こそ・たれ・を・もなし・もがな・はなし・下知(いでよ・何せ・まて・ふけ・みよ・こほれ・ちらせ・かすめ・め。月ニなけ・ふくな)」

などが挙げられている。疑問や命令の言葉が多く付け加えられている。
 切れ字が口伝になっていたのも、一つには文法的な用法の多様性で、一律に説明しにくい所があったからだと思われる。
 命令を示す動詞語尾はいまならeの語尾で説明できるが、当時としては「ふけ・こほれ・ちらせ・かすめ」など列挙する必要があった。これは切れ字が文法的にではなく「字」として説明されていたための煩雑さといえよう。

 基本的に切れ字は、

 終止言 助詞
     助動詞
     形容詞
     形容動詞
     動詞

 命令形 助詞
     助動詞
     動詞

 疑問符

に分けられると思う。
 終止言と命令形は大体それが述語となるが、命令形の場合は述語の省略が頻繁に起きることに注視する必要がある。口語でも、「あの人は今どこに」という場合は「いるの?」あるいは「いった?という述語が省略される。
 一番ややこしいのは終止言と疑問符の両方の役割を持つ「や」「か」で、治定や詠嘆を表す終止言として機能する時でも述語が頻繁に省略される。しかも「や」は切れ字の代表とでもいうくらい使用頻度が高い。

 なお、宗因の『俳諧無言抄』


2,「や」という切れ字

 「や」は「かな」と並んで切れ字の代表格で、「や」「かな」が多用されるのは治定という曖昧な断定が、特に主観的な感想を表すのに適していたからだと思われる。近代写生説の句のように客観的な描写が求められる際には「けり」が多用されるようになったが、芭蕉の時代ではむしろ多様を避けるように言われていた。
 古今集「仮名序」に「やまと歌は人の心を種として」とあるように、本来日本の言の葉の道は物を描写するのではなく心を述べるものだったことを考えれば、「けり」よりも主観的な「や」「かな」が用いられるのはもっともなことだった。
 『万葉集』は写生ではないかという人もいるかもしれないが、それは明治の正岡子規以降の説にすぎない。
 「や」は本来は疑問・反語の言葉だったが、語尾を上げずにむしろ下げて発音すると疑問の意味ではなく、何となく疑問を投げかけながらも肯定する微妙なニュアンスが生じる。これを昔の人は「治定」と言った。
 現代語の「か」という疑問の言葉も、「これでいいのか?」と語尾を上げれば問いかけになるが、「これでいいのかあ」と語尾を下げると、疑問がありつつも自分自身を納得させるようなニュアンスになる。ちなみに、語尾を強く「これでいいのかっ!」というと「いいわけない」という反語になる。語尾のニュアンスで意味は変わる。
 「や」も同じような働きがあった。治定の「や」は今日でも関西方言には残っている。「これでいいんやあ」というと、関東の「これでいいのかあ」と似た様なニュアンスになる。
 切れ字の「や」元は「疑問」か「治定」の意味で用いられていた。「反語」になることは滅多になう。
 芭蕉の時代が一つの境になり、芭蕉の句はほとんどこのどちらかの用法だが、それ以降今日の関西方言の「や」に近い「せや、その通りや」みたいな断定のニュアンスが強くなり、力強い主観的な治定となることが多くなる。これを詠嘆の「や」という。
 名詞に「や」が付く場合は芭蕉の時代は疑問か治定だったが、芭蕉の時代でも形容詞に「や」が付く場合は、たとえば、

 おもしろや理屈はなしに花の雲 越人

のような「や」は詠嘆と言って良い。

 今日では「や」はほとんど語尾にしか用いないが、かつては係助詞として倒置して文中で用いられることも多かった。
 係助詞は倒置によって語尾の助詞を前に持って来て強調する語法で、

 「月やあらぬ」は「月はあらぬや」の倒置
 「何をか言わん」は「何を言わんか」の倒置
 「鹿ぞ鳴くなる」は「鹿の鳴くなるぞ」の倒置
 「人こそ見えね」は「人の見えねばこそ」の倒置

 係助詞の「や」は中世の連歌の時代には「や‥‥らん」の形で付句に多用された。

   船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏(水無瀬三吟)

   まだ残る日のうち霞むかげ
 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長(水無瀬三吟)

   さ夜ふけけりな袖の秋かぜ
 露さむし月も光やかはるらん    宗長(湯山三吟)

   和歌の浦や磯がくれつつまよふ身に
 みちくるしほや人したふらん    肖柏(湯山三吟)

などの多くの用例がある。いずれも「らんや」の倒置になる。
 このような倒置を行うと、「や」の前にくる言葉が強調される。「月や‥‥残るらん」「暮れぬとや‥‥帰るらん」「光やかはるらん」「しほや‥‥したふらん」が一句の軸となる。
 「らんや」となれば、その用法は治定ではなく疑問か反語になる。そのため「や‥‥らん」も基本的には疑問か反語で事情や詠嘆にはならない。

 発句の切れ字として用いられる「や」は、このような係助詞な、強調したい言葉の前に自在に移動できるという利点をもちつつ、意味としては治定で用いられることが多くなる。
 そのため切れ字の「や」は必ずしもそこで断定して文章を終わらせているわけではない。

 芭蕉の句の中には本によって形の違う句が少なくない。それが推敲の過程にあるものであれ、編者の記憶違いによるものであれ、その中には「や」が他の助詞に置き換えられているものがかなりの数にのぼる。
 それはおそらく、こうした置き換えが作品の意味を根本的に変えるものではなかったからであろう。ここに岩波文庫の『芭蕉俳句集』から抜き出してみた。

1、「は」と「や」の入れ替わっているもの

 俤や姨ひとり泣月の友   『更級紀行』
 俤は姥ひとりなく月の友『芭蕉庵小文庫』

 曙はまだむらさきにほととぎす (真蹟)
 あけぼのやまだ朔日にほととぎす『芭蕉句選拾遺』

 大津絵の筆のはじめは何仏  『勧進牒』
 大津絵の筆のはじめや何仏  『蓮実』

 名月はふたつ有ても瀬田の月 『泊船集』
 名月やふたつ有ても瀬田の月『蕉翁句選』

 降ずとも竹植る日は蓑と笠  『笈日記』
 降ずとも竹植る日や蓑と笠 『こがらし』

2、「の」と「や」の入れ替わっているもの

 さびしさの岩にしみ込む蝉のこゑ 『こがらし』
 淋しさや岩にしみ込むせみの声 『初蝉』

 中山の越路も月は又いのち 『芭蕉翁句解参考』
 中山や越路も月は又いのち 『荊口句帳』

 文月の六日も常の夜には似ず 『泊船集』
 文月や六日も常の夜には似ず『奥の細道』

 国々の八景更に気比の月  『荊口句帳』
 国々や八景更に気比の月 『芭蕉翁句解参考』

 さみだれの雲吹おとせ大井川 『笈日記』
 五月雨や雲吹落す大井川『芭蕉翁行状記』

 名月の花かと見へて棉畠   『続猿蓑』
 名月や花かと見へて綿ばたけ 『有磯海』

 松風の軒をめぐって秋くれぬ 『泊船集』
 松風や軒をめぐって秋暮ぬ  『笈日記』

 白菊の目にたてて見る塵もなし『笈日記』
 しら菊や目にたてて見る塵もなし 『矢矧堤』

3、「に」と「や」の入れ替わっているもの

 須磨寺に吹ぬ笛きく木下やみ『続有磯海』
 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 『笈の小文』

 柚花にむかし忍ばん料理の間『蕉翁句集』
 柚花や昔しのばん料理の間 『嵯峨日記』

 草の戸に日暮れてくれし菊の酒 『きさらぎ』
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒『笈日記』

 夕顔に酔て顔出す窓の穴  (芭蕉書簡)
 夕顔や酔てかほ出す窓の穴  『続猿蓑』

4、「を」と「や」の入れ替わっているもの

 その玉を羽黒にかへせ法の月 『泊船集』
 其玉や羽黒にかへす法の月 (真蹟懐紙)

 あさむつを月見の旅の明離 『荊口句帳』
 あさむつや月見の旅の明ばなれ 『其袋』

 行春を近江の人とをしみける  『猿蓑』
 行春やあふみの人とをしみける (真蹟懐紙)

 この道を行人なしに秋の暮 (芭蕉書簡)
 此道や行人なしに秋の暮    『其便』

5、「と」と「や」の入れ替わっているもの

 川上とこの川下と月の友   『泊船集』
 川上とこの川しもや月の友  『続猿蓑』

 このような「や」は決して「や」でもって終止しているのではないし、切れ字「や」は本来倒置として自由に移動できるものとして認識されてたと言って良い。

 たとえばあの有名な、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

の句にしても、「や」の位置をずらしても意味が大きく変わることはない。ただ句の中のどこが強調されるかが変わるにすぎない。

 古るや池蛙飛び込む水の音
 古池や蛙飛び込む水の音
 古池に蛙や飛び込む水の音
 古池に蛙飛び込むや水の音
 古池に蛙飛び込む水や音
 古池に蛙飛び込む水の音や

 この六通りは可能になる。
 実際、「や」という切れ字は上五の中、末尾、中七の中、末尾、下五の中、末尾の六か所に自在に置くことができる。

 実にや月間口千金の通り町     芭蕉
 (実に月は間口千金の通り町や)
 木枯やたけにかくれてしづまりぬ  芭蕉
 (木枯はたけにかくれてしづまりぬや)
 琵琶行の夜や三味線の音霰     芭蕉
 (琵琶行の夜は三味線の音霰や)
 京まではまだ半空や雪の雲     芭蕉
 (京まではまだ半空の雪の雲や)
 櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ 芭蕉
 (櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜はなみだや)
 夏の月御油より出て赤坂や     芭蕉
 (夏の月は御油より出て赤坂や)

 「実にや月」は「実に月や」にもできるし、「実に月の間口や」「実に月の間口は千金や」ともできる。ただ、それは可能というだけで、どこを強調するのがベストかという所で、芭蕉は「実にや月」を選んだと言って良い。

 「や」の用法は、このように末尾に持って来てもいい「や」を強調したい場所に自在に移動させて用いることができる。
 初心の内はついつい末尾に「や」を持って来がちになるが、この移動を覚えておくと良い。

 ゼロの型、主語+述語+切れ字の形で句が出来たなら、末尾の切れ字を倒置によって上五や中七に持ってくることもできる。だが、助詞だけの倒置が可能なのは「や」だけだと思っておいてかまわない。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

2025年7月4日金曜日

  久しぶりに何か書こうということで、切れ字の話でも。

 俳句の前身となる連歌や俳諧の発句は、575の短い文章を、先に何かが続くような感じのしない、一句だけで言い切るように響くようにするにはどうすればいいか、古人が様々な工夫をするうちに、この言葉を使うと一句として切りやすいといういくつかのものを見つけ出してきた。
 それが「切れ字」と呼ばれるものとなった。
 たとえば、

 古池に蛙飛び込む水の音

だと、古池に飛び込んだ水の音が一体何なのか、それからどうなったのか、後ろに何か続くような感じが残る。これを、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

とすると、一句として完結したような印象を受ける。
 これがなぜなのか、様々な切れ字の用例の説明を加えながら、切れ字というのがなぜ「切る」働きをするか、見て行くことにする。

 初めに少し大雑把なことを言うなら、俳句の575が一つの文章として完結するには、

 主語+述語+終止言

の形が望ましい。
 実際には主語の省略や述語の省略、終止言も省略も頻繁に起きるが、基本的にはこの形が一句として完結した印象を与える。
 例として挙げるなら、

 道の辺の木槿(主語)は馬に喰はれ(述語)けり(終止言) 芭蕉
 海暮れて鴨の声(主語)ほのかに白し(述語・終止言)  芭蕉
 春の海(主語)ひねもすのたりのたり(述語)哉(終止言) 蕪村
 鶏頭(主語)の十四五本もありぬ(述語)べし(終止言)  子規

など、これらは主語・述語・終止言が省略されずに一句になっている。
 この場合の終止言「けり」「し(文語形容詞の語尾)」「哉」「べし」はいずれも古来切れ字とされている。そのため、

 主語+述語+切れ字

と言い換えてもいい。これが本来俳句の一番基本的な型であり、二上貴夫先生の俳句の五型を語るうえでも、その基本となる型であるため、私はこれを「ゼロの型」あるいは「第ゼロ型」と呼ぶ。

2025年4月17日木曜日


 「秦野たばこ祭」俳句大会、今年も開催。

 またしばらく間が空いてしまった。桜は咲いては散って行き、あっという間に春は過ぎて行く。
 まだ千村には八重桜が咲いていて、春の名残を惜しんでいる。

2025年3月31日月曜日

 
 今日は蓑毛の淡墨桜を見に行った。

 それでは前回の風流ならざる話の続きを。

 実践理性の起源が出る杭は打たれる式の平等を一つの方向性として持っているため、基本的には平等社会の実現とそれに伴う抑制が基礎となる。
抑制には人より多く欲望を満たしてはいけないという禁欲、能力を誇示してはいけないという謙遜、能力を自分の為に用いず必ず集団の為に用いるという献身、これらに反する行為に対する羞恥などがある。
 禁欲はほぼありとあらゆる宗教や思想において共通して求められるが、これは単に平等を実現するためだけではなく、現実的に常に人類の歴史において慢性的な食糧不足が生じてたことも要因になっていた。
 食欲は無制限な大食によって食料を欠乏させ、あるいは美食、特に肉食は穀物を直接食べずに家畜のえさにすることで、効率を悪くする。性欲はパートナーを廻る争いを生むだけでなく、人口の増加が食料の欠乏をよりひどいものとする。睡眠欲はそれに比べると実害は少ない。
 禁欲は一方では出る杭は打たれる式の相互抑制でありながら、一方では有限な大地に無限の生命は存在できないという単純な人口論的な問題との両面を持っている。
 いわば、大地は定員が限られている。これは今まで繰り返し言ってきたことだ。有限な生産に対し、誰かがより多くとれば、その分誰かが少なくなる。出る杭は打たれる式の平等主義はその争いの解決になるため、いわゆる冷たい社会では頑なに維持されてきた。
 ただ平等ではあっても絶対的な食糧不足を解消することはできない。ゆえに冷たい社会は完全な平等主義を実現しながらも、常に飢餓すれすれの最低限な生産力から脱却することができなかった。
 熱い社会は生産性を高める手段をもたらすものに対して不平等を容認することで、社会全体の定員を底上げした。この底上げで一番重要なのは、飢餓で死ぬ子供の数を減らせることで、これは人情にかなってるし、より多くの子孫を残すという遺伝子の要求にも適っている。
しかし、それによってもたらされるのは、結局生産性の向上分が瞬く間に人口増加で食いつぶされてしまうということだ。
 生産性の向上は一方では不平等をもたらすが、一方ではその向上分農業以外の生産活動のための人員を養えるようになるため、増加した人口はそこに吸収され都市を形成し、文明を生み出し、それが生産性のさらなる向上への好循環を生み出す。
 そして、ひとたびこの方向に歩み出すと、逆戻りはできない。古い生産性の低いやり方に逆戻りすれば、増加した人口の分が飢えることになる。社会主義が失敗する原因はそこにある。自然に帰れというのは一見牧歌的でノスタルジックだが、それまでの生産性の向上によって増えた人口元に戻さなくてはならなくなる。飢餓と粛清がその答えだ。
 生産性の向上のために不平等を容認することをひとたび選択すると、元の狩猟採集民の完全平等社会に戻すことはできない。戻そうとすれば、飢餓と粛清、採取的には虐殺ということになる。
 近代的な農法で今の80億の世界の人口を養うことはできない。たとえ10億人程度にま減らそうという場合でも、70億人をどうするかが問題になる。オウム真理教の見い出したハルマゲドンいうのは、その意味では合理的だ。日本のトップクラスの頭脳を持つ人達を魅了するだけの理由はある。
 こうした帰結は憎しみによるものではなく、合理的な理由によって導かれる。それは実践理性のバグに他ならない。
 平等性の観念は二重の意味でバグる。
 一つはそれが理念である限り、無制限に拡張されれば恐ろしい結果を生む。
たとえば生きていること自体が死んだ者に対して平等ではない。真の平等とはすべてが死に絶えることに他ならない。
 生まれてすぐ死ぬ人がいるのに、のうのうと生きているのは平等ではない。これだとまだ荒唐無稽かもしれないが、命を捨てて国を守った人がいるのに、戦争が終わってのうのうと生きながらえているのは申し訳ない、という感情は戦争が終わった時多くの人に会ったと思う。生きていること自体が既に平等でないなら、究極の平等はみんな死ぬことでしかない。
 また、生きている限りそこには生存競争があり、それに勝つためには人を傷つけなくてはならない。誰も傷つかないような社会を作るというのであれば、それは誰も生きようとしてはいけない社会ということになる。
 そして一方で現実的に考えた場合、平等性は先も言ったように既に不平等の容認によって生産性が高められ、かつてない多くの人口を養えるようになった世界を、低い生産性で養える程度の人口に減らす必要が出て来る。その論理的帰結はハルマゲドンだ。
 社会主義と虐殺は切っても切れない関係にある。誰を殺すかは明白だ。それは革命に従わぬ者だ。

 実際の所、こうした理性のバグに対抗するには理性に対して理性に対抗しようとしても無力だ。なぜなら自分の主張を一歩も譲らなければ最終的にアンチノミーということで引き分けに持ち込むことができるからだ。
 社会主義者や人権派はこのことをよくわかっている。議論は形だけでいい。平行線なら論戦は引き分け、あとは権力を持ってる方が勝つ。別の言い方をすれば合法的に暴力をふるえる方が勝つ。その合法性は誰が決めるのか、それは権力だ。
 彼らに唯一の弱点があるとすれば、それは感情的な爆発だ。つまりヘイトだ。ヘイトは理性も何もなしに有無を言わせず力をふるうことができる。議論で引き分けに持ち込んでも、ヘイトは卓袱台返しができる。
 これは社会主義者や人権派も常套としている手段だ。彼らは隙あらば暴力をふるう。ただそれを理論で合理化し、その理論の正しさは証明できなくても、論敵に対してはアンチノミーを主張し、その暴力を政府やマスコミや司法を動かして合法化できれば彼らの勝ちとなる。
 彼らがなぜヘイトという言葉を多用して論敵を牽制するか、理由は簡単だ。それが唯一の弱点だからだ。
 一つの喩えとして、溺れている子のどちらを優先して助けるかを考えてみればいい。
 自分の子と見ず知らずの外国人の子供が溺れている。どっちを先に助けるべきか。
 正常な感情の持ち主なら自分の子を助けるに決まっている。でも第三者が言う。外国人の子を後回しにするのは差別でありヘイトではないか、と。どちらもかけがえのない命であり、生きる権利は平等にある。外国人だから後回しにするのか、と。
 こういう意見に対して、ブチ切れることができる人だけが自分の子供を守ることができる。それが愛というものだ。

2025年3月29日土曜日

 まただいぶご無沙汰した。
 あれから3月13日に蓑毛の玉縄桜を見に行き、15日には江ノ島吟行会に行った。

 言の葉も潮の花も今日の春
 にび空や猫は石段龍は天

 17日と21日は南足柄の春めき桜を見に行き、22日には戸川公園を散歩した。
 23日の句会の句。

 朝寝してふと思う今はいない人
 雲白く流れて果ては夕霞み
 嬌柳命のシャワー降りそそぐ

 25日には蓑毛の奥のミツマタ群生地を見に行き、翌26日には石庄庵の春めき桜を見に行った。既に散り始めていた。

 駆け足や春めき桜散るもまた
 野仏やからす名義の豆の花

 28日はまた句会で、

 嘘つきなニュースを余所に朝寝かな
 旅疲れ車窓は富士の夕霞み
 野ムスカリ田園の憂いもあるや

 そして今日は雨で一休み。

 今日は実践理性のバグの問題を考えてみようと思う。

 実践理性の起源を考える前に、まず理論理性の起源を考える必要があるが、理論理性は基本的には道具性・有用性の観点からある行為をすればならずある結果が得られる云う因果律が根底にある。
 ああすればああなる。こうすればこうなる。それが積み重なれば原因結果が一つの直線状に並ぶことになる。ここに過去から未来への時間軸が形成される。この時間軸は時間そのものではなく、時間の空間家であり直線化される。この一次元の時間軸は本来の宇宙の何次元か今のところ不明な時空から直線の時間だけを切り取ったもので、この直線時間軸に対して残ったものは三次元空間として表示される。
 三次元空間は自分の位置を中心とした一つの座標で、上下・左右・前後を基本とし、自らの行動をシミュレートする。これは宇宙の時空そのものではなく、行動する際に便宜的に切り取られた空間にすぎない。
 時間もまたこうした三次元空間に対して、まだないもの・もうないものを付け加えることで「変化」という直線を描き出し、そこに「どうすればどうなるか」という因果率を付け加えることで、行動をシミュレーションする。これが物理的時間ではない人間的時間を作り出す。人間的時間とは言え、それが進化の産物である限り、動物も基本的に同じ三次元空間+時間という世界表象をしていると推定できる。
 この時間空間認識は進化によって獲得された生得的なもので、実際の複雑な時空を簡略化することで、天文学的距離や量子レベルの認識を必要としない限りにおいて、生きる上で支障をきたすことはない。
 そのため長いことこの生得的な時間空間の概念は不動のものとされ、特に西洋においては神の理性と同一視されてきた。それが揺らいだのは、天文学的レベルでの物体の位置を測定する際に微妙な誤差が生じることが次第に明らかになり、その誤差を最終的に説明する理論として相対性理論が作られるのを待たなくてはならなかった。
 同時に量子レベルの科学の発達によって、従来の生得的空概念では説明できないばかりか、因果律を混乱させるような事象が観測されるようになり、量子力学が誕生した。
 相対性理論や量子力学はあくまで生得的な時空概念の補足にすぎないため、どちらも基本的には便宜的な仮説のレベルにとどまる。そのため相対性理論と量子力学の統一は未だに困難を極めている。未だに宇宙の時空そのものは解明されていない。それに対する便宜的な道具としてこの2つの理論、さらには熱力学理論という独立した三つの理論が併存している。
 理性は神ではなく、あくまで生得的な時間空間認識を基礎としている生物学的な事象にすぎない。つまり理性もまた肉体である。肉体を超越した理性などというものは存在しない。それは理論理性においても実践理性においても同じで、理性は神ではなく、あくまで進化の産物にすぎない。
 カントが明らかにしたのは、理性が神であることは証明できないが、実践の立場から要請することの出来る、それもあくまで可能性にすぎないということだった。この「汝為し得る」がハイデッガーによって「可能性の静かな力」と言い換えられたにせよ、ただ信仰に支えられた危ういものにすぎなかった。
 信仰は基本的には独断であり、信仰を目標とすることは独裁政治を意味する。それはイスラム原理主義であろうがキリスト教原理主義であろうが、あるいはオウム真理教のような仏教原理主義であろうが、危険なものに違いはない。共産主義やいわゆる「人権派」の思想にしても、基本的には同様の独断論であり、必ず民主主義を否定して独裁体制を作ろうとする。これはプラトン以来繰り返されていることだ。
 ナチズムやスターリズムの失敗で懲りることもなく、西洋理性は同じ過ちを繰り返し続けるし、イスラム原理主義もある意味で本来のイスラム社会から発生したというよりは、共産主義化したイスラム教といった方がいい。理性への信仰が根底にある。

 信仰の危険は基本的にはその任意性にある。別の言葉で言えばそれは「自由」ということだが、自由(free)には「空っぽ」という意味もある。根拠のない空っぽなものである限り、どうとでも作れるもので、それこそ無数に対立する信仰を生み出すことが可能であるとともに、その対立を理性自身が解決することはできない。なぜなら異なった正反対の主張をするのは「自由」であり「可能」だからだ。
 理性自身が解決できないアンチノミーは結局のところ暴力で解決するしかなくなる。無数の宗教やイデオロギーが任意に作られては、互いに暴力でその覇権を得ようと内ゲバから内戦に至り、果ては世界大戦を生み出しかねないものへと巨大化してゆく。サルトルが美化した言葉で「愛の闘争」と呼んだものの正体はまさにこれだ。
 理性の王国とは、結局理性が「自由」である限り、終わることない軍事独裁体制へと行き着くことになる。カントの言った「理性の王国」は文字通り独裁者が「王」として君臨する王国であって、共和国ではない。
 もし我々が「どこの陣営に着くか」ではなく、こうした対立状態を越えて本当の平和を見出そうとするなら、こうした理性のどうしようもないバグを素直に認めて、理性に頼らない「心の共和国」を作らなくてはならない。
 相異なる思想信条をすべて対化し、理性ではなく心で理解し合い、肉体的多様性ではなく文化の多様性を尊重し、異なる主張の者同士が自然と棲み分け、平和共存できる世界を目指さなくてはならない。
 心の共和国はたくさんある。それこそ無数にある。人の数だけある。それでも同じ人間だという所で心情的に理解し合わなくてはならない。信条的ではなく心情的に。
 カント的な理性の王国が永久平和に至るには、世界が一つの理論によって統一される必要があるが、それまでいったいどれほどの血が流れなくてはならないのだろうか。ただ「可能」というだけで永遠にその日を待つわけにはいかない。その前に人類は絶滅する。
 永久平和の道があるとするなら、それは一人一人がまず自分自身の中に心の共和国を持ち、無数の心の共和国が互いに棲み分け、平和共存する世界を作らなくてはならない。

 さて、実践理性の起源だが、基本的にはそれは人類の共感能力の飛躍的発達にあった。
 共感能力は完全に相手の心が手に取るようにわかることを言うのではない。そんなテレパシーのような者は存在しない。すべては自分を基にした推測に依存している。ただ、生得的に共通の基盤を持つ相手であれば、自分を基にした推測はある程度の精度でもって、相手の状態を推測することができる。それ以上でも以下でもない。共感は絶対的なものではなく、基本的には誤解に富んだもので、誤解しつつ、相手の反応を見ては修正を繰り返して、経験的に精度を高める程度のものでしかない。
 この共感能力の発達は、進化の過程である臨界に達した時、個々の力による順位制が無力化される。
 人間以外の動物の社会の多くは、個としての力の強いものが優先されるという単純な原理で成り立っている。ただ、順位制社会でも、偶発的に一人の強い個体に他の者のヘイトが集中した時に、弱い者が集団で強い者を倒すということが起こる。チンパンジーの社会ではこれがわりと頻繁に起こる。
 人間の場合はこれがさらに一歩進み、どんな強い者でも、弱い者が束になれば容易に倒せるということを学習することで、出る杭は打たれる状態に陥る。ここから腕力の強さは無意味になり、生存競争は弱肉強食ではなく、多数派工作の戦いになった。その多数派工作の最大の武器、それを人は「愛」と呼ぶ。儒教ではそれを「仁」と呼ぶ。「人間性」と言ってもいい。それは「心」でもある。
 よく言われるように、愛の反対は憎しみ(ヘイト)ではない。むしろ強い者に対して大勢のヘイトを集中させることで愛が生まれる。愛はヘイトの結果でありヘイトとは対立しない。愛は力のある者に対する防衛であり、同時に嫉妬でもある。
 長く平和が続いた社会では愛や人情が廃れるというのも、共通の敵なしに強力な愛が生まれないというだけのことにすぎない。
 愛の基本は「出る杭」に対する弱者の結束であり、それはヘイトでもあり嫉妬でもある。この力は、基本的に平等主義へと向かう。

 愛も憎しみも嫉妬も人類の長年の友であり、その中で人間は共同体を作り、仲間には優しく、敵には残虐に、良いにつけ悪いにつけ人間的な、人間臭い社会を延々と維持してきた。それは本来理性とは縁遠いものだった。
 愛は矛盾に満ちたもので、それは基本的に個々の生存戦略と集団の生存戦略との妥協(生存の取引)の繰り返しであり、

 蝶を噛んで子猫を舐る心哉 其角

のような両面性を持つものだった。この矛盾は自然なものであり、そのバランスは自然選択によって調整されてきた。
 あまりお人好しでも生きられないし、かといって攻撃的過ぎるとヘイトが集中して潰される。ほどほどの所でバランスを取るように人間は進化してきた。その進化は今も途上にあり、今日もどこかでお人好しが隅に追いやられ、今日もどこかで自己中な奴が叩かれまくっている。
 実践理性はこの自然のバランスを破壊する。今まさに「人権派」にヘイトが集中しているのは、自然のバランスを勝手なり理屈でゆがめているからにほかならない。

2025年3月10日月曜日

 また少しお休みしてしまったが、そろそろ何か書かないと。
 今日は根府川のおかめ桜を見に行った。
 この頃は近くのいろんなところに花を見に行っている。「花を友」の生活だ。あの湯河原の句はUsizaru_LABOさんの「花纏う独歩」の影響が出過ぎてしまった。
 6日は南足柄の洞川の河津桜と
小田原フラワーガーデンの梅を見て、7日には大井町のおおいゆめの里の河津桜を見に行った。今年は河津桜が咲くのが遅かったが、ようやく満開になった。
 8日は大井町のおおいゆめの里俳句大会に行った。前日の河津桜の所のすぐそばだが、この日はみぞれ交じりの雪が降っていて寒かった。
 句の方は前日投句が、

 朧夜は空に魚が泳いでそう
 朧夜や灯りの消えた街の黙
 如意すみれ小さな魔法使いかな
 つぼ菫願う平和のちりほこり

 当日の句が、

 花の下小さき命の目を明くか
 降り積むは何色河津桜には

 9日は地元秦野の戸川公園の河津桜を見た。梅もまだまだ見頃だった。途中水無川のおかめ桜の方へも行ってみたが、まだ咲き初めだった。根府川のおかめ桜は2日の湯河原句会の帰りに駅から咲いているのが見えていて、6日に見に行こうとしたが、根府川の方で事故があって通行止めになったせいで、車が渋滞していて断念した。
 AIで絵を描くようになって、X上でAIの作曲やアニメのことも知って、あらためて今のAIの凄さを感じる。
 アニメの方では、今期は「BanG Dream! Ave Mujica」かな。前作の「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」も見た。
 ラノベの方は、最近はカクヨムで読む方が多くなったかな。
 まあ、こういうものはとにかく勉強になる。不易流行の精神で、古典の不易だけでなく、流行からも風流の道を学んでいきたい。
 

2025年3月2日日曜日

 今日は湯河原の「湯河原春のたより俳句大会」へ行った。
 湯河原の街を散歩した。

 人声の霞は遠く海朝日
 人声の怖くはないと花を友

 そのあとHUMANS BEERでビールを飲んだ。

 湯河原やクラフトビアの桃の酒

2025年2月28日金曜日

  今日は句会があった。

 凧天に武者も役者も中間も
 薄ら氷のかけらの如し全世代
 むしられることが前提草萌ゆる

 「句兄弟」の方、岩波文庫の『毛吹草』が届いたので、この前の七番の「禅寺のはなにこころやうき蔵主」の作者名がわかった。

 禅寺の花に心や浮坊主   弘永

とあった。堺市中央図書館/堺史のHPに、

 「夕陽菴弘永
 夕陽菴弘永其姓氏は明かでない。【堺の俳人】堺の人で、後天王寺村に卜居し導と改めた。【松江重賴の門人】俳諧を松江重賴に學び、晚年師風を變じて異體の句を吟じた。或は弘永は重賴の門葉でなく、其知友だともいはれてゐる。【家集】家集に獨吟集がある。歿年世壽は詳でない。案ずるに寬文の末頃の人であらう。(誹家大系圖)」

とある。

2025年2月27日木曜日

 今日は小田原の辻村植物公園の梅を見に行った。行く時には小田原フラワーガーデンの前を通り、そのあと小田原城にも寄った。

 それでは「句兄弟」の続き。

「九番
  兄
達磨忌やあさ日に僧のかげ法師   岩翁
  弟
達磨忌や自剃にさぐる水かがみ

 論俳句如禅日の影と水影差別なし。空房獨了の以て似ぬ影二句一物なし。」(句兄弟)

 岩翁は息子の亀翁ともども其角の門人。『雑談集』の大山詣や、この『句兄弟』所収の元禄七年の大阪行きの「隨縁記行」にも同行している。
 達磨忌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「達磨忌」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 禅宗で、始祖達磨大師の忌日に行なう法会。毎年一〇月五日。少林忌。初祖忌。《 季語・冬 》
  [初出の実例]「二祖と云は、達磨忌と百丈忌とぞ」(出典:百丈清規抄(1462)三)」

とある。今は月遅れで11月5日に行う所もある。禅宗だけに、儀式にそれほどの派手さはなく、禅僧が集まって、朝日にその影が出来て、これが本当の影法師ぐらいしか見どころがなかったのだろう。
 影法師というと、貞享五年の芭蕉の『笈の小文』の旅で、吉田宿から保美の杜国の所へ向かう時に、

 冬の日や馬上に氷る影法師   芭蕉

の句を詠んでいる。「法師」というのは影が黒いから黒い僧衣を着ているみたいだといういみだろうけど、この時の芭蕉も僧形だったと思われるし、達磨忌の影法師も皆僧形で、どっちが影だか、という所が一応の面白さというか、朝日や冬の低い日に、一方では長い影が出来て、一方では日を背にしたシルエットになった黒い実体があって、どっちが影やらという、そこが重要なのかもしれない。
 ところで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「影法師」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =かげえ(影絵)②③
  ② 光をさえぎったため、地上や障子、壁などにその人の形が黒く映ったもの。かげぼう。かげぼし。かげんぼし。
  [初出の実例]「影法師見苦しければ辻相撲月をうしろになしてねるかな」(出典:七十一番職人歌合(1500頃か)六三番)
  ③ 鏡や水などに映った像。
  [初出の実例]「水鏡を見てあれば、影法師が我があいてになって、いつもかわらずけらけら咲をして戯るるぞ」(出典:四河入海(17C前)二)
  ④ ( 影の人の意 ) 演劇や映画などで、ある人物の替え玉となる人。吹き替え。スタンドイン。
  [初出の実例]「ハテナ、わしゃ、かげぼうしかとおもった」(出典:咄本・出頬題(1773)芝居)
  ⑤ 想像によって目の前に描き出す、人物や物事。
  [初出の実例]「皆此方の影ぼうしを相手にして、けんくゎする様なものぢゃ」(出典:松翁道話(1814‐46)一)」

となっている。今はあまり使われないが③の意味が17世紀にはあったようだ。そこで、其角の句の「自剃にさぐる水かがみ」の水に映る自分の姿も「影法師」と呼ばれてたことがわかる。
 「論俳句如禅日の影と水影差別なし」というのが、どちらも当時は影法師と呼ばれていたという点では、確かに言葉の上では差別はない。「論俳句如禅」は当時は「俳句」という単語がなかったから、禅の如く俳の句を論ずということだろうか。その上で「日の影と水の影」は同じ影法師という言葉で言い表され、空房(他に誰もいない部屋)で獨了(一人悟る)なら、日の影と水の影は同じ物だ、と禅問答めいている。
 確かにどちらも虚像には違いない。ただ、よくよく悟るなら、目に映るものはすべてが虚。日の影も水の影も虚なら、そこにいる僧もまた虚。形あるものはすべてが影法師にすぎないということになる。
 禅においてもそうだし、俳諧でいう虚実論の「虚」もまた我々近代人が考えるような「虚構」のことではなく、神羅万象目に移り耳に聞こえるものみな「虚」に含まれる。そこから喚起される風雅の誠の情だけが「実」ということになる。

2025年2月26日水曜日

 今日は秦野の上大槻の菅原神社の梅を見に行った。
 気温もようやく昼くらいには上がって暖かくなり、もうすぐ河津桜の季節になる。それまではまだまだ梅見の季節が続く。

 それでは「句兄弟」の続き。

「八番
  兄
陰をしき師走の菊のよはひかな   露沾
  弟
秋にさへ師走の菊も麦ばたけ

 中七字珍重すべし、歳の昏の惜まるる詠より分て霜雪の凋むに後るる対をいはば僅かに萌いでし麦の秋後の菊をよそになしけん姿と句とただちに立り。愛菊の情かはらずして光陰を惜むと待とにわかれたる也。」(句兄弟)

 菊は重陽の頃を過ぎると霜に当って枯れるというのを本意とするので、そこで枯れずに残った師走の菊は長生きしたわけだが、それもおそらく年を越すことがなく、つまり露沾の句は新年を迎えて一つ年齢を重ねることもないという意味で言っているのだろう。
 長生きはしても死は免れないという、人の年齢にも重なる。
 其角はこの師走に残った菊と対句になるように、芽の出てきた麦を添える。こういう対句は漢詩的な発想だが、付け句の際の相対付けもこの発想になる。師走の菊というのが一つの趣向として面白いということで、その時芽生えた麦もやがて麦秋を迎える、という時間の半年異なるものを取り合わせるというのだが、かなり無理な感じの取り合わせだ。
 意味としては「師走に芽生えた麦もやがて夏に麦秋にさえなるものを、まして師走の菊はなお哀れなり」だが、それを五七五に収めるのはかなり苦しい。

2025年2月25日火曜日

  今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。梅も大分先揃ってきた。

 それでは「句兄弟」の続き。

「七番
  兄
禅寺のはなにこころやうき蔵主
  弟
客数寄やこころをはなに浮蔵主

 ざれ句にたてし詞ながら古来は下へしたしむ五字を今さら只ありにいひ流したれば、花見る庭の乱舞をよせたり。毛吹時代の老僧など当座取望むならば花やかに耳立たらん句よりは得興の専をとるべきや。」(句兄弟)

 兄句は正保元年(1645年)刊松江重頼編『毛吹草』所収の古い句。
 「浮蔵主(うきざうす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浮蔵主」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 ( 「蔵主」は禅寺の経蔵を管理する僧職 ) ひょうきんな僧侶。心のうわついた道楽坊主。
  [初出の実例]「禅門うき蔵主にてよき伽なり」(出典:咄本・醒睡笑(1628)一)」

とある。
 禅宗はあまり戒律とかに頓着しない傾向があり、座禅の瞑想による判断停止状態(エポケー)の状態で得られる、様々な先入観から解放された自由を尊ぶ所がある。一休禅師など、その典型とも言える。世間から見れば生臭坊主だとか浮蔵主とかいうことにもなる。
 兄句はそういうあたりで、禅寺の浮蔵主は花に浮かれていても、花の心は禅の心にも通じるということなのだろう。
 「花やかに耳立たらん句」の耳立はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「耳立つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 耳ざわりに聞こえる。角立って耳にさわる。
  [初出の実例]「ただならずみみたつことも、おのづから出でくるわざなれ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜上)
  ② 聞いて心にとまる。
  [初出の実例]「下のきざみといふきはになれば、ことにみみたたずかし」(出典:源氏物語(1001‐14頃)帚木)」

の意味があるが、この場合は花やかを受けて、「耳障りの良い、一般にわかりやすい」くらいのニュアンスか。面白いけど、面白さがわかりやすすぎてあざといとうことか。
 それに対し「得興の専」、興を得るを専らとする、というというのは、禅の心などと言う大仰なテーマを外すということだろう。単純に数寄者の客の求めに応じて逆らわずに心を花にできる、なかなか場を心得た浮坊主という人柄の良さの方に持っていく。

2025年2月24日月曜日

  昨日、今日と雪のちらつく寒い日が続く。昨日は句会があった。

 薄ら氷や割れて命の封を解く
 凧揚げの空に消えゆく心かな
 春愁やカードゲームの終わりなき

 それでは「句兄弟」の続き。

「六番
  兄
三絃やよし野の山をさつきさめ   曲水
  弟
三味線や寝衣にくるむ五月雨

 さみだれの長閑にくらすとも読けるに、きのふもけふも降こめて同じ空なるもどかしさよ。殊に引習と聞ゆるか。同じしらべのほちほちと軒の玉水にかよひたらば物うからましと思ひよせたる也。
 それを寝巻にといふに品かはりて閨怨の音にかよはせ侍るゆへとへかし。人の五月雨の頃と思ひなして何となく淋しき程をつくづくと思ふ心もこもり侍り。倦むと忍ぶとのたがひ決せリ。」(句兄弟)

 曲水の句の「よし野の山」は其角の解説を見ると、「同じしらべ」とあるように、どうやら三味線の曲名のようだ。おそらく貞享二年刊『大ぬさ』に収録された「吉野山」のことであろう。コトバンクの「改訂新版 世界大百科事典 「大ぬさ」の意味・わかりやすい解説」に、

 「《大怒佐》《大幣》とも表記する。近世の音楽・歌謡書。著者不詳。1685年(貞享2)初刊とされるが,87年刊《糸竹(しちく)大全》に《紙鳶(いかのぼり)》《知音の媒(ちいんのなかだち)》と合収,99年(元禄12)版が流布。4巻。〈引手あまた〉の意から大幣の字をあてて書名としたものだが,本文中にその用字はない。巻一は三味線の奏法などの記事と《吉野山》《すががき》などの譜,巻二は《りんぜつ》《れんぼながし》《当世なげぶし》の譜,巻三は三味線組歌の本手・破手(はで)の詞章と,秘曲の曲名,巻四は新曲22曲の詞章を収める。記譜のあるものは《紙鳶》の一節切(ひとよぎり)の譜と対照され,《れんぼながし》以外は《糸竹初心集》の箏譜と比較できる。これらによって近世初期の三曲合奏の実態を把握しうる。巻三・四の詞章は,地歌詞章のまとまったものとして最古のもの。

 なお,同名の歌学書もあり,これは中川自休著,1834年(天保5)刊。1冊。村田春海(はるみ)門下の秋山光彪(みつたけ)の《桂園一枝評》に対して,《桂園一枝》の作者香川景樹が自門の著者に反駁させたもの。
 執筆者:平野 健次」

とある。youtubeで桃山晴衣さんの三味線と歌を聞くことができる。
 「殊に引習と聞ゆるか」とあるように、三味線の練習で引く人が多かったのだろう。練習だから同じ曲を繰り返し繰り返し引いて、そのぽつぽつ聞こえる音が雨だれのようで、「三味線で吉野之山を五月雨のようにするや」の「や」が倒置になって、「三絃やよし野の山をさつきさめ」となる。春雨を「はるさめ」というように「五月雨」を「さつきさめ」ということもあったようだ。
 其角はそれを「寝衣」に変える。「寝衣」は「しんい」で寝巻(ねまき)と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「寝衣」の意味・読み・例文・類語」に、

 「しん‐い【寝衣】
  〘 名詞 〙 寝るときに着る衣服。ねまき。
  [初出の実例]「これを蒲豊、寝衣の下に押入れ、それをして驚き醒しめたり」(出典:西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉四)
  [その他の文献]〔論語‐郷党〕」

とある。「しんい」は『論語』「郷党」にも出てくるが、ここでは「ねまき」と呼んだ方がいいのかもしれない。
 「寝衣」「寝巻」は庶民が寝る時に着る「夜着」ではない。「夜着」は「布団」ともいう。昔の布団は着るタイプのものだったが、綿が入っていて分厚い。これに対し「寝衣」「寝巻」は薄手のもので、上臈をイメージさせるものだった。
 芭蕉が『奥の細道』の旅で羽黒山で巻いた「めづらしや」の巻二十二句目に、

   此雪に先あたれとや釜揚て
 寝まきながらのけはひ美し    芭蕉

とあり、元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目には、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。後者は同座した芭蕉が「上臈の旅なるべし」と助言したことで即座に去来が、

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

の句を付けたことが『去来抄』に記されている。

 三味線や寝衣にくるむ五月雨   其角

 この句はそういうわけで、三味線の主は上臈で、寝衣にくるまりながら夜な夜な五月雨のように三味線を掻き鳴らす情景になる。その音はおそらく来ない夫を待つ怨嗟の調べなのであろう。「閨怨の音にかよはせ」とある。
 閨怨詩は漢詩の一つのジャンルで、中国では出征した兵士の留守を預かる夫人の情を詠んだものが多いが、それに限らず一人寝の女性の恨みをテーマにしたもの一般を指す。
 曲水の兄句は不慣れな芸伎の練習風景にすぎなかったものが、寝衣の言葉一つで閨怨詩の世界へと転じることになる。ただ、それは漢籍などの高い素養を持つものにはわかっても、一般の人には難解な句と受け止められたのではなかったかと思う。

2025年2月21日金曜日

 
 昨日は南足柄市運動公園や池ノ窪梅林を見に行き、今日は秦野西田原の香雲寺の梅を見に行った。梅三昧の日々だ。
 昔一頃ロックをやるものは生活をロックにしろと言ったものだが、俳句もまた生活を俳句にすることが大事だ。日々花を見て歩き、古典に親しみ、古典の血脈を引く非西洋芸術的なラノベ漫画アニメにも親しむ(最後は余計か?)、それが俳句の糧になる。

 それでは「句兄弟」の続き。

「五番
  兄
雨の日や門提て行くかきつばた   信徳
  弟
簾まけ雨にさげくるかきつばた

 杜若雨潤の一体時節のいさぎよく云立たれども、難じていはば雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル流俗の句中にはらまれて、一句の外に作うすし。されば、向上の句に於ては題と定めずして其こころ明らかなるたぐひ多かる中に、杜若景物の一品なれば異花よりも興を取ぬべくや。雨の杜若とおもひ寄たらんは句作のこなしにて手ぎは有べき所也。老功の作者を識りていふにはあらず。
 門さげてゆくと見送りし花の我宿に入来る心に反工して、花の雫もそのままに色をも香そも厭ひけるさまを、すだれまけと下知したるなり。往と来との字二にして力をわかちたると判談せん人本意なかるべし。問答の句なるゆへつのりて枳棘の愚意を申侍る。」(句兄弟)

 「門提て行く」の意味だが、評の所に「門さげてゆくと見送りし」ある所から、門を閉じて出て行くということか。
 杜若雨潤というように、雨に濡れた杜若は特に美しいから、お寺のお坊さんも今日は一日休業とばかりに門を閉めて見に行くということなのだろう。
 「雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル」とある雪中梅花は画題にもなっているが、「闇夜につつじを折ル」は正徹の歌に、

 いそぐなよ手折るつつじの灯に
     よるの山路はかへりいてなん
                正徹
 夜こえむ人のためにとくらぶ山
     木の下つつし折りもつくさじ
                正徹

とあることから、ツツジは闇夜でも明るいから灯火代わりに折って行くという趣向は定番化してたのかもしれない。
 「流俗」は『拾遺和歌集』の、

  「世の中にことなる事はあらずとも富はたしてむ命長くは
  中将にはべりける時、右大弁源致方朝臣のもとへ
  八重紅梅を折りて遣はすとて
                 
 流俗の色にはあらず梅花   右大将実資

 珍重すべき物とこそ見れ   致方朝臣」

という短連歌にも用いられている。そんじょそこらのというような意味か。杜若雨潤の美しさも、ありきたりな趣向で、信徳の句に強いて難を言うなら、その趣向の凡庸さから逃れるものではない、ということなのだろう。
 「向上の句」つまりそこからさらに一歩進んだ句にするには、杜若雨潤の心を直接言うありきたりさを避けて、あえて言外に隠ように作るのが常道で、杜若とあるだけで雨に潤う景は十分伝わるし、他の花にはない杜若ならではの趣向になる。老練な作者は大体そうする。
 『去来抄』にも、

 「 つたの葉───     尾張の句
 此このほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯迄まで裏吹ふきかへさるゝと云いふ句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂までいひつくす物にあらずト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

とある。

 蔦の葉は残らず風のそよぎ哉   荷兮

の句のことと思われるが、蔦というだけで既に風に吹かれる蔦の葉の景色が含まれてるため、あえて言う必要がない、ということだ。
 ただ、これは通俗的に月並み化した趣向に対して言えることで、最近では夏井いつき病が凡庸な俳人の中に蔓延していて、何でもかんでもこの句のこの言葉は必要ない、無駄だなどと難じたりするが、長年俳句をやってる大ベテランなら想像のつくことでも一般の読者にはすぐには思いつかない場合も多い。読者に過大な想像力を期待するべきではないし、そういうベテラン向けの句は大体において一般人には珍紛漢紛なものだ。
 さて、其角の弟句だが、信徳の門を下げて出て行くという趣向をひっくり返して、門を提げてやってきた客人を迎え入れて、ならば簾を上げて杜若をよく見ていってくれ、という句に作り変える。
 「雨に」は杜若に掛かるのではなく客人に掛かるため、直接雨の杜若を表すのではなく、雨の杜若は間接的な想像に変わる。微妙な違いだけど、これが杜若雨潤の凡庸を回避する一つのテクニックだ。そして、門を提げてやって来た兄句に対する返答の句にもなっている。この技を今の俳人の誰が理解するだろうか。

2025年2月19日水曜日

  また少し間が開いてしまったが、「句兄弟」の続き。

「四番
  兄
祐成か袖ひきのばせむら千鳥  粛山
  弟
むらちどり其夜は寒し虎かもと

 袖引のばせとは一衣洗濯の時なるべし。さすがに高名の士なりければ、破褞袍を着て狐貉に恥じざる勇を思ひ合たるにや。村千鳥その友としてかの志をしのばれし一句に感懈あり。
 よりて其夜は虎かもとにしほたれし袖を引のばしつらんとおもひよりて、冬の夜の川風寒みのうたにみて追反せし也。是は各句合意の体也。
 兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍ればこなたの句弟なるべし。」(句兄弟)

 粛山は久松粛山で、「愛媛県生涯学習センター」のデータベース『えひめの記憶』に、

 「久松粛山(1652~1706)
 俳人。松山藩家老。松山城下(現、松山市)出身。松山藩第4代藩主・松平定直に仕えて重責を果たす一方、俳諧を好み、その才能を発揮した。31歳のとき、松山に来ていた因幡国鳥取の岡西惟仲(おかにしいちゅう)の門に入り、その後、江戸在勤中に松尾芭蕉・榎本其角(えのもときかく)に俳諧を学んだ。句は其角の句集にも載せられ、定直の俳友として蕉風俳諧を松山に広めた。後に、子規から伊予未曾有の俳人と評される。また、狩野探雪の画に、芭蕉・其角・山口素堂(やまぐちそどう)の発句の賛(添え書き)を求め、松山に持ち帰った「俳諧三尊画賛」の三幅対は逸品とされ、来遊した小林一茶も感激の句をしたためている。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)」

とある。
 句の方の初句の祐成は曽我兄弟の兄十郎のことで、大磯の虎御前という遊女との関係はかつては誰もが知る有名な話だった。
 仇討を果たしそのあとすぐに斬られた祐成の遺品の袖を汐で洗ってくれ、大磯の浜に群ら立つ千鳥たちよという意味であろう。袖の汐は言うまでもなく涙と掛けて用いられている。
 祐成の命日の五月二十八日に降る雨は虎の涙の雨ということで、「虎が雨」と言われているが、この句は千鳥で冬の海の句だ。冬に大磯を訪れた時の句だろうか。かつての祐成を失った虎御前の涙を思い、今は冬だが、千鳥よ祐成の遺品の衣を汐で洗ってやってくれ、祐成か袖を引き延ばしてやってくれ群千鳥よ、となる。
 破褞袍(やれうんぽう)の褞袍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「褞袍」の意味・読み・例文・類語」に、

 「うん‐ぽう‥パウ【褞袍・縕袍】
  〘 名詞 〙 綿を入れた着物。どてら。おんぼう。
  [初出の実例]「金減す我世の外にうかれてや〈其角〉 縕袍(ウンホウ)さむく伯母夢にみゆ〈匂子〉」(出典:俳諧・虚栗(1683)上)」

とある。
 「狐貉」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「狐貉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「こ‐かく【狐貉】
  〘 名詞 〙 キツネとムジナ。また、その皮でつくった衣服。
  [初出の実例]「凡穿レ地得二死人一、不二更埋一、及於二塚墓一燻二狐狢一」(出典:律(718)賊盗)
  「Cocacuno(コカクノ) カワゴロモワ カルクシテ ハナハダ カンヲ フセグ」(出典:日葡辞書(1603‐04))
  [その他の文献]〔論語‐子罕〕」

とある。
 「破褞袍を着て狐貉に恥じざる」は『論語』の、

 「子曰く、敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は其れ由なるか。」

のことで、この場合の狐貉は立派な毛皮の衣ということで、いわばボロは着てても心は錦ということであろう。狐はもちろん今日でもフォックスファーと呼ばれ珍重されている。貉の方はロシアンラクーンやチャイニーズラクーンであろう。
 兄句として掲げられるくらいだから、この句も当時はかなりの評判になった句であろう。
 兄句にはただ曽我十郎祐成のたとえボロでも中華貴族の着る毛皮にも勝る遺品の衣を千鳥が波の汐で洗うという句だが、勿論そこには虎御前の涙が暗に含まれているものの、弟句ではその虎の名前を表に出す。

 むらちどり其夜は寒し虎かもと  其角

 虎が元にいた群千鳥もその夜は寒い。群千鳥は虎と共に悲しみ、冬を迎えたのだろうか。

2025年2月15日土曜日

 今日は地元の戸川公園の梅を見に行った。ここも見頃になっていた。

 それでは「句兄弟」の続き。

 「三番
  兄
また是より青葉一見となりけり  素堂
  弟
また是より木屋一見のつつじ哉

 遊子行残月とかや。花におぼれし人の春の名残りを惜みけん心をうたひける也。
 予が句うたひにたよらずして青葉一見といふ花のかへるさをとどめしゆへ、全く等類ならずとなりけりとは、素堂が平生口癖なれば是を格には取がたし。つつじといふ題にて夏にうつらふ花の名残りも有べし。
 此句意味はかはる事なし。下五字の云かへにて強弱の体をわかつもの也。」(句兄弟)

 素堂の句は延宝八年刊の不卜編『向之岡』所収のもので、「上京の比」という前書きがあり、青葉は若葉になっている。若葉の頃に上京したため、こうしてちらっと若葉を見ることになりましたという意味であろう。
 京にこれからもずっと滞在するのではなく、京の花見に来て若葉の頃になってようやく帰るというので、「一見」ということになる。
 「一見」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「一見」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① ( ━する ) 一度見ること。一通り見ること。ちらっと見ること。一覧。
  [初出の実例]「微禽奇体、今遂二一見之望一」(出典:古今著聞集(1254)二〇)
  「黒塚(くろつか)の岩屋一見し、福島に宿る」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)あさか山)
  [その他の文献]〔漢書‐趙充国伝〕
  ② ( ━する ) 一度会うこと。初対面。いちげん。
  ③ ( 副詞的に用いて ) ちょっと見ると。」

とある。今とそれほど意味は変わらない。
 「うたがひにたよらず」というのは、「や」や「かな」を用いずに「けり」と言い切っていることをいうのだろう。花が散ってこれから青葉の季節になるのだろうか、というのではなく、花が散ってもなかなか去りがたく、青葉になるまで滞在してしまったという意味になる。

 下下の下の客といはれん花の宿 越人

の句はこれより後の元禄二年の『阿羅野』の句になる。
 一世紀後になるが、

 葉桜や南良に二日の泊り客    蕪村

もまたこの心か。
 「遊子行残月」は『和漢朗詠集』の、

   暁賦    賈島
 佳人尽飾於晨粧。魏宮鐘動。
 遊子猶行於残月。函谷鶏鳴。
 佳人尽(ことごと)く晨粧を飾りて、魏宮に鐘動く、
 遊子なほ残月に行きて函谷に鶏鳴く


で、作者は実際は賈嵩だという。旅人の素晴らしい季節が去って行くのを惜しむ心という意味であろう。
 其角の句の方は、若葉の頃に咲くツツジに置き換えて、春の名残を惜しむという旅体から卑近な題材の句に転じるわけだ。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「木屋」の意味・読み・例文・類語」には、

 「① 材木の集散に便利な場所にあって材木を貯蔵する倉庫。材木小屋。
  [初出の実例]「山背国三処。相楽郡二処。一泉木屋并園地二町」(出典:大安寺伽藍縁起并流記資財帳‐天平一九年(747))
  ② 材木の売買を業とする人。また、その家。材木屋。材木商。
  [初出の実例]「材木〈三尋木二編、桂三本〉自木屋申二請之一」(出典:実隆公記‐明応八年(1499)六月二日)
  ③ 薪の売買を業とする人。また、その家。まきや。
  [初出の実例]「軒口にかれたる木屋が夏懸て〈道意〉 大斤両も動く浜風〈和武〉」(出典:俳諧・西鶴大矢数(1681)第六七)
  ④ ( 樹屋 ) 植木屋。
  [初出の実例]「『あの大門より北には〈略〉廿八本植へべし。直段如何程』といへば、木屋申は」(出典:咄本・軽口露がはなし(1691)一)
  ⑤ 大工が、作業をする小屋。大工の仕事小屋。
  [初出の実例]「明日先可レ立二木屋一」(出典:晴富宿禰記‐文明一一年(1479)二月二〇日)
  ⑥ すべての納屋や小屋をいう。柴木屋、こなし木屋、肥木屋(こやしきや)、収納木屋(しなきや)など。薪炭類を収蔵する木小屋の略。」

とあるが、この場合は材木や薪ではなく、④の樹屋であろう。
 江戸の街では岩躑躅の群生するような所もなく、植木屋でツツジの咲いてるのを見て春の終わりを感じるということか。ツツジを出すことで青葉に比べれば華やいだ句になる。

2025年2月14日金曜日

 今日は曽我梅林の梅を見に行った。
 ようやく暖かくなり、梅の開花も例年より遅れているとはいえ、昭和の頃にはこれが普通だったと思うと、ここ最近が早すぎたのだろう。

 アメリカではいろいろ大きな動きが出てきている。USAIDの解体、DOGEの活動(DOGEは日本語だとイッヌになるのか?)。
 思うに左翼は最近では三度の大きな試練があった。

 一度目は日本や欧米が高度成長を遂げた60年代の後半、日本では70年安保の頃、戦後の修正資本主義で豊かになり中流化した労働者は、もはや革命の主体にはなりえなくなった。そこで社会主義運動は大きな方向転換を余儀なくされた。
 かれらは革命の主体を総中流化する中で取り残されたマイノリティ、少数民族、被差別民、障害者、性的少数者(まだLGBTという言葉はなかった)と第三世界の貧しい人達に切り替えることで乗り切ろうとした。
 左翼とパレスチナとの結びつきは、テルアビブ乱射事件などによって、新たな自爆テロというスタイルを得、最初は中東の共産勢力だったが、やがて彼らはイスラム原理主義者となっていった。
 太田龍の1972年の『辺境最深部に向って退却せよ!』はそれを象徴する言葉となった。その頃から中流化した労働者は革命の敵だという考え方が広まっていった。同時に労働者の権利や待遇改善などに興味を失ってゆき、労働組合運動も政治的オルグの方が優先されるようになった。

 二度目の試練は1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦崩壊によってもたらされた。
 ここでもはや左翼の革命運動の敗北を認め、転向してった人も多かったことだろう。俺もその一人だし。
 ただ、左翼に踏みとどまった人たちの多くは社会主義国家の終焉を認めたものの、国家でない社会主義にその活路を見い出そうとした。これによって社会主義は国際的な市民運動の性格を強め、官僚的な統一組織ではなく無数の市民団体の横のつながりを重視した、ジル=ドゥールーズの言うようなリゾームの形態をとるようになった。中心を持たない連合体として、世界中に同時多発的に活動を行うことで、政権を取る事よりも主にマイノリティを中心とした政策の実現に力を入れるようになった。
 しかし、これは政治色が強すぎて、実際のマイノリティが強く支持しているわけではなく、むしろ迷惑とすら思う人も多かった。
 この運動は表面的に革命を標榜せずに穏健な市民運動を装ってたため、じわじわと政治的中道勢力、マスコミ、官僚、法曹界を侵食し、いわゆる「無理ゲー状態」を作り出していった。彼らは法律の制定に大きな影響力を行使し、税金を湯水のように彼らの活動につぎ込ませることに成功した。
 彼らは国家レベルではなく地球規模の富の再分配を実行すべく、第三世界の貧困層を大量に先進国に入国させ、先進国の富と税金で彼らを養うことを義務化しようとしてきた。

 三度目の試練は今アメリカで起こっている。これがどのような結果をもたらすのか、まだわからない。


 それでは「句兄弟」の続き。

「二番
  兄
地主からは木の間の花の都かな   拾穂軒
  弟
京中へ地主のさくらやとふ胡蝶

 「老師名高き句也。反転して市中の蝶を清水の落花と見なしたる也。木の間と三字にたてふさがりて侍るを漸こてふに成て花の間を飛出たるやうに覚ゆ。先後の句立たしか也。
 飛花の蝶に似たる。

 峡蝶飛来過墻去 却疑春色在隣家

 作例多く聞ゆれども予京の一字を心かけたれば尤難有まじ。」(句兄弟)

 拾穂軒(しゅうすいけん)は季吟のこと。
 「地主のさくら」は京都の地主(じしゅ)神社の桜のことで、ウィキペディアには、

 「境内は「地主桜」と呼ばれる桜の名所で、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇が行幸した際、一重と八重が同じ枝に咲いていた地主神社の桜の美しさに3度車を返したことから「御車返しの桜」とも呼ばれ、以後、嵯峨天皇は地主神社に桜を毎年献上させた。」

とある。地主神社は清水寺同様高台にあるので、ここから桜越しに見おろす京の町は、まさに花の都といったところだ。「老師名高き句」とあるように、かつては誰もが知る句だったのであろう。今もこの句の句碑があるという。
 これに対して其角は「木の間」の木で見えづらい桜をやめて、高台のこの地主神社から散った花びらが胡蝶となって、京の都のあちこちに落ちてくるという趣向にする。
 花びらを胡蝶に喩えることもさることながら、それが京の街中に降りそそぐとは、やや大げさに作った感じもしなくもないが、こうした華麗さもまた伊達を好む其角の持ち味なのだろう。句は「地主のさくらは京中へ訪う胡蝶(となる)や」の倒置。
 花を蝶に喩える先例として掲げている詩句は、

   雨晴      王駕
 雨前初見花間蕊 雨後兼無葉裏花
 峡蝶飛来過墻去 却疑春色在鄰家

で、王駕は百度百科に、

 「王驾(851年-?),字大用,自号守素先生,河中(今山西永济)人,女诗人陈玉兰之夫,中国唐代诗人。 
 王驾早年居乡间,颇有诗名,为时人称誉。唐僖宗中和元年(881年)秋至中和三年(883年)春间,王驾入蜀赴进士试,落第不中。后于大顺元年(890年),及第,任校书郎,官至礼部员外郎。乾宁四年(897年),在任,后弃官隐居。」

とある。851年の生まれで字を大用といい、自ら守素先生と号す。河中(今の山西省永済)の人で、陳玉蘭の夫でもある中国唐代の詩人。
 雨が降る前には花があったのに、雨のあとは葉っぱばかりでどこにも花がない。蝶が垣根を越えて行ってしまったのなら、春の景色は未だ隣の家にいるのかもしれない。確かにこの詩は花が蝶になって隣に行ってしまったという趣向なのだろう。
 花を蝶に喩える例は、近代俳句でも、

 草化して胡蝶となるか豆の花  子規

の句がある。それほど突飛な比喩でもない。
 むしろありきたりかもしれないが、王駕の詩はただ隣に行ったのかというだけなのに対し、京の街に飛んで行くという所に手柄があるのでは、と其角は自讃する。

2025年2月13日木曜日

 一週間ぶりの更新になったが、この間いろいろはまた花を見に行った。
 2月9日は小田原の句会で小田原城の桜を見た。

 紅白に残る蝋梅黄を主張
 ちらちらと短冊回る城や梅
 Xの字になり眺む揚げ雲雀

 10日は熱海桜を見に行って、そのあと前日に山焼きをやった大室山を見た。

 山焼きや焦げた思いの風世界

 写真はその大室山
 12日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。

 それでは今度は其角編の『句兄弟』を読んでいこうと思う。

「一番
  兄
これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
  弟
これはこれはとばかりちるも櫻哉 晋子

 花満山の景を上五字に云とりて芳野山と決定したる處、作者の自然ノ地を得たるに、対句してちるもさくらといへる和句也。是は是はとばかりの云下しを反転せしもの也。」(句兄弟)

 貞室の句はかつては知らない人のいないくらい有名な句だったのだろう。「句兄弟」の冒頭はこの句から始まる。
 花満山は特に固有名詞というわけではなく、山一面に花の咲いたという意味で、

  寄孫山人    儲光羲
 新林二月孤舟還 水滿淸江花滿山
 借問故園隱君子 時時來往住人間

の詩を出典とする。「これはこれは」は遥か遠くから訪ねてきたような趣があり、この詩の趣向にも適っている。そして何が「これはこれは」なのかと思わせておいて「花の吉野山」と結ぶこの構成もまた見事だ。
 芭蕉七部集の一つ、元禄二年刊荷兮編『阿羅野』の冒頭を飾る一句でもあり、『去来抄』でも不易の句の例として挙げられていて、貞門時代の句ながらも蕉門でも高く評価された一句だった。
 これを冒頭に持って来ておいて、晋子こと其角は弟句を付ける。
 「これはこれは」と咲くのも桜だが、「これはこれは」と散るのもまた桜だと、兄句に逆らわずに、同意するかのように散る時もまたと付け加える。いわゆる「和句」和する句、同意する句ということになる。
 発句に対して発句で返すというのは、ある種対抗するという意識が強いことが多く、和する時には脇で返すのが通例になっている。
 たとえば、

 草の戸に我は蓼食う蛍哉    其角

の句に対して、

 朝顔に我は飯食う男哉     芭蕉

と返す場合には、酒の肴である苦みの強い蓼酢を好んで食って、夜は遊郭の蛍になるという其角の挨拶に対して、俺は普通に朝起きて飯を食うだけの普通の男だと芭蕉は返す。これは和するというよりは、「いや、俺は違う」という対抗心を込めた句づくりで、発句に発句で返す場合はこういうパターンが多い。
 もっともこの場合、句合せの勝負を挑んだのではなく、私は草の戸で蓼を食って夜の街で輝いてるようなそんな凄い人ではなく、世間並みのごく普通の人ですという謙虚に答なわけだが。

「難云:吉野山一句の本体として上五字七字までは只ありの詞なるべし。ちると桜のうへにうつしたる本意逃句なるべし。
 答云:句は其興を聞得べきや。景情のはなるるといふ事「雑談集」に論ぜる如く也。
 近くいはば「明星やさくら定めぬ山かづら」といひし句当座にはさのみ興感せざりしを、芭蕉翁吉野山にあそべる時、山中の美景にけをされ古き歌どもの信を感ぜし叙(ツイデ)、明星の山かづらに明残るけしき此句のうらやましく覚えたるよし文通に申されける。
 是をみづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含はたしか也。
 尤、花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず。沈佺期が句を盗む癖とは等類をのがるる違有。」(句兄弟)

 この「難云(なんじていう)」も実際に誰かが言ったということではなく、あくまで想定問答であろう。
 上五字七字の「これはこれはとばかり」までは日常用いるような通常の言葉で、特に何の捻りもなく、「花の吉野山」と結んで一句になるのに対し、そのこれはこれはとばかり」を散る花に取り成しただけの逃げ句ではないか、という批判は当然あることだろう、というわけだ。つまり、無理に趣向を変えて別な句に作った、ということか。
 『雑談集』の「景情のはなるるといふ事」というのは、

 「此比の当座に、

 小男鹿やほそき聲より此流れ

と申しける折ふし百里が旅より帰りしに、木曽路の秋を語りけるにも畳のうへにては面白からぬけしきを云ひ出てけり。梯の水音今も耳に残りて覚えぬるといはれて、世につながるる事を歎きぬ。すべて景に合せては情をこらして扨景を尋ぬるが此道の手なるべし。富士を見ては発句ちひさくなりぬるは心の及ばざるゆゑ也。」(雑談集)

のことだろうか。
 句というのは作者の体験と読者の体験が共有された時、その景は豊かな情を持つ。鹿の声に流れの音は、それだけでは何が面白いのか分かりにくいが、これが木曽路の秋で名所でもある桟(かけはし)をいつ落ちるかわからない橋の恐怖に心細くなっている時に、鹿の声が聞こえてきて、下からは流れの音が聞こえてくる、その想像が及んだ時、この句は意味を持ってくる。
 名所の句の場合特に、景色を描写するだけでなく、その情が伝わるような表現をしなくてはならない。景色に情を込めて、もう一度出来た句を突き放して眺めてみて、ちゃんと情がにじみ出ているかどうかを確認しないとつまらない句になる。
 「これはこれはとばかり」というのを「只ありの詞」というとしたら、それは吉野の花の景を心に描けないからで、「花の吉野山」と結ぶことで、その何でもない言葉が吉野の想像上の景色と一体となって、深い感情を呼び起こす。
 同じように「ちるも櫻哉」とその結びの言葉を変えることで、散る桜を心に描いて全く別の情を呼び起こす。これは単なる逃げ句の取り成しではなく、上句に新たな情を吹き込んでいるので、独立した一つの発句たり得る、というわけだ。

 明星やさくら定めぬ山かづら  其角

の句は貞享五年一月二十五日付けの芭蕉宛其角書簡に記されたもので、

 「明星やさくら定めぬ山かづら
如何可レ有二御ざ一哉。
 瓢覃(箪)坊に出る雨の日
 朝ごとのうずらの水をくみかへて
 人得て秋の炭がまを掘ル
 鱅鳴貴舩の鈴のころころと
どうやら五句付に成候て本心にそみ不申候へ共、是は病にてシカジカ無御ざ候て、心気恬憺ならぬように覚申候ゆへかと被存候。御句どもにて本心を洗可申候。猶重而委可申上候。以上
   正月廿五日        キ角
はせを様」

と、五句まで付けて点を乞うている。
 この年其角は秋の終わりから冬にかけて上方方面を旅しているから、その時に吉野へも寄ったのであろう。季節外れではあるが、蔦の紅葉を見て春の桜の頃を想像した句で、かづら、瓢箪、うずら、秋の炭がま、までは秋の句だが、その次の鱅鳴は何と読むのか。貴船の清流で鳴くなら河鹿かとおもわれる。夏への季移りになる。
 グーグルを見ると「鱅」はコノシロともダボハゼとも読むようだが、いずれも海の魚で鳴かないから河鹿ではないかと思う。魚のカジカは鳴かないが、かつてはカジカガエルの声が河鹿の声と混同されていた。
 井手の山吹の蛙が美しい声で鳴くカジカガエルなので、わかる人にはきちんと区別されていたのだろうけど、みんながみんな本草学者じゃないように、一般的には区別は曖昧だったのだろう。ツルとコウノトリやウグイスとメジロがしばしば混同されるのと一緒だ。現代だってみんなが生物学者なわけではない。
 話はそれたが、元に戻そう。其角の句は金星の綺麗な明け方の空にようやく見えてきた蔦カズラの紅葉を見ながら、これが桜だったらなとおもいつつ、夜が明けると今は秋だという現実に引き戻される。真っ暗の内は見えない闇に桜を思い、夜が明ければ桜ではなく蔦カズラ、そういう句だ。シュレーディンガーの猫みたいなものだ。
 沈佺期はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沈佺期」の意味・わかりやすい解説」に、

 「[生]永徽1 (650)?
  [没]開元1 (713)?
  中国,初唐の詩人。相州内黄(河南省)の人。字は雲卿。上元2(675)年進士に及第,協律郎,給事中などを歴任したが,張易之に取り入ったため,則天武后の政権が倒れると収賄罪に問われて驩州(北ベトナム)に流された。のち神竜年間,中央に呼び戻され修文館直学士から中書舎人,太子少詹事(せんじ)となって終わった。六朝詩の影響を受けつつも清新な詩風で宋之問,杜審言らと宮廷詩人として活躍し,また宋之問とともに七言律詩(→律詩)の形式の完成に力があり,「沈宋」と並称される。」

とある。
 「沈佺期が句を盗む癖」はよくわからない。
 「花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず」というのは、一巻の花の定座の前後の句は確かに花の句が付くことによって、別な意味を持ってた句が花の心になる。花の句が付いて花の心となるが、その次の句は前句の花の句に付いた時でも花の別の意味にならなくてはならない。そういう場合は確かに咲く花の美しさから散る花の悲しさへ取り成すということはある。
 ただ、「これはこれはとばかり」を咲く花から散る花に転じるのは、これと同じではない。花の吉野山の句に「散る」と付けて散る花に転じるのは逃げ句かもしれないが。

2025年2月6日木曜日

 
 昨日は土肥桜を見た後下田爪木崎の水仙を見た。
 どちらも見頃で、天気は良かったが風が強かった。
 今日は初午で白笹稲荷神社に行った。

 『雑談集』の「親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 沾蓬」の所を書き直してみた。

 「鏡を形見といへる重高の歌にや装束つくろひて鏡の間にむかへるに

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 寶生 沾蓬」(雑談集)

 重高は不明。鏡と形見を掛けた歌は古来数多くある。

 おもひいでむ形見にもみよます鏡
     かはらぬ影はとどまらずとも
             惟明親王(続後撰集)
 ます鏡うつりしものをとばかりに
     とまらぬ影も形見なりけり
             行能(続拾遺集)
 ありし世の形見も悲します鏡
     うきにはかはる面影もがな
             少将内侍(文保百首)

など。
 句の「こてふ」はおそらく謡曲『胡蝶』のことで、親の形見の鏡の前で蝶の精の舞をしてみたが、親にはとても及ばない、それでも一生懸命頑張っている、と言った所か。

 句の作者に寶生とあるから宝生流の者であろう。
 宝生重高は謎だが、おそらく重友の間違いではないかと思う。高と友は草書だと似てなくもない。ただし、早稲田大学図書本、京都大学附属図書館所蔵本はともに楷書で「高」と書かれている。間違いだとすれば原稿か版本の清書の段階で間違えたことになる。
 重友には三人の子がいたとされている。

 公益社団法人宝生会のホームページによると、八代宝生大夫の重友の所に、

「重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
 古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
 熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
 なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。」

とある。

重友(1619-1685)
八代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生重友」の解説」に、
 「1619-1685 江戸時代前期の能役者シテ方。
元和(げんな)5年生まれ。宝生重房(しげふさ)の子。父の跡をついで宝生流8代となり,将軍徳川家綱・綱吉(つなよし)につかえた。宝生流になかった獅子舞(ししまい),乱拍子(らんびょうし)などを考案して,古将監(こしょうげん)とよばれた。貞享(じょうきょう)2年8月死去。67歳。通称は九郎,将監。」
とある。

友春(1654-1728)
重友の長男。
九代宝生大夫
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生友春」の解説」に、
 「1654-1728 江戸時代前期-中期の能役者シテ方。
承応(じょうおう)3年生まれ。宝生重友(しげとも)の子。父の跡をつぎ,宝生流9代となる。将軍徳川綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継・吉宗(よしむね)につかえた。金沢藩主前田綱紀(つなのり)の愛顧をうけて加賀宝生流の基礎をつくった。享保(きょうほう)13年8月8日死去。75歳。通称は九郎,将監。」
とある。

重賢(1658-1746)
重友の次男
12世観世大夫
ウィキペディアに、
 「観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年) - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。
 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳でその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳で死去した。」
 ウィキペディアの「観世流」の方には、
 「12.左門重賢
 1658年〜1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。」
とある。引退の年はウィキペディアの観世重賢の所に、
 「ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。
 29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない[13]。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。」
とあるが、前年の父の死が影響している可能性は十分ある。

重世(1663-1745)
重友の三男
コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部沾圃」の解説」に、
 「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。
寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。のち宝生流11代宝生友精(ともきよ)の後見役をつとめた。延享2年10月2日死去。83歳。名は重世。通称は左(佐)大夫。別号に幾重斎。」
とある。

 宝生重友は貞享2年に亡くなっていて、『雑談集』の頃の其角の記憶にも残っていることだろう。胡蝶は荘子の『胡蝶の夢』を題材にした能で、生まれ変わりの意味がある。父の生まれ変わりにはなれなかったという嘆きをこの句に込めたように感じられる。これはその頃の句であり、友春が九代宝生大夫を継いだことで家督を継げなかった重賢か重世が、引退の決意として詠んだのではないかと思われる。
 そうなると、沾蓬は後に『続猿蓑』を編纂した沾圃、つまり重世である可能性が高い。
 沾蓬は元禄7年春の芭蕉同座の興行で、

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬     湖風
   柳もすさる岸の刈株      芭蕉
 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

に始まる半歌仙に参加している。
 同じ頃「八九間」の巻で、

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉
   春のからすの畠ほる声     沾圃

と芭蕉と同座している。「八九間」の方は沾圃の撰による『続猿蓑』に収録されている。

 なお、沾蓬については『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信、2000,新典社)には、

 「『露沾俳諧集』に沾蓬の句が多数収録されているから、彼は露沾に使えていたと思われるが、露沾が磐城に隠棲した際、沾蓬も露沾に同行して磐城に移住したのであろう。同集には次のような露沾の句がある。

   土田沾蓬に立圃が已前の誹名をゆづりけるに、此心にて予に句を乞
 文字ごころ麻に秀でてさしも草  露沾

 この土田沾蓬は宝生沾蓬と同一人物とみて間違いあるまい。宝生沾蓬は後に姓を土田に変えたのであろう(あるいは土田が沾蓬の本姓かもしれない)。右の句の前書きに記された立圃は芭蕉の門人の宝生沾圃(通称は左太夫)の俳号で、彼は元禄六年(一六九三)に二世立圃を襲名している。したがって「立圃が已前の誹号をゆづりける」というのは、立圃が彼の前号である沾圃を沾蓬に譲ったという意味であり、沾蓬が二世沾圃を襲名したことになる。宝生沾圃こと一世沾圃と、宝生沾蓬こと二代目沾圃の関係については不明である。」

と記している。
 まず、当時は姓が複数あっても珍しくはない。其角も榎本其角であり宝井其角でもある。榎本は母方の姓で、父方の姓で呼ぶなら木下其角になる。一世紀後の谷口蕪村も与謝野蕪村を名乗っている。
 当時の姓は三種類あったと考えられる。
 一つは源、平、藤原などの本来の意味での姓で、これだと徳川家康の姓は源で、源家康が本来の姓になり、徳川は名字ということになる。芭蕉も先祖の柘植氏の姓が平だったから、平姓と見て良い。
 もう一つが武家などのいわゆる名字のことで、田氏捨女の田(でん)は名字であって、本来の姓ではない。松尾もその先祖の柘植も名字であり、名字は分家などすると新たに作られる。
 つまり家督を継ぐ必要のない者は、必ずしも先祖の名字を名乗る必要はない。だから新たな名字を作ることも普通に行われていた。多分其角の宝井もそういうものだったのではないかと思う。
 それで行くと、宝生重賢の場合、元の名字は宝生だったが、観世家に養子に入ることで観世になり、引退すれば宝生でも観世でもなくなるから、新たに別の名字の服部を名乗っていた。
 さて、それなら三男の宝生重世の場合も、能役者をやってるうちは宝生でも、引退した後は基本的には兄と同じ服部だが、兄と区別するために土田の名字を名乗った可能性はある。
 重世が宝生家の者であり、引退した場合に服部氏に戻る所を同時に兄の重賢も引退したためにあらたに土田を名乗り、宝生重世=服部重世=土田重世となったのなら、=土田沾蓬=沾圃(『続猿蓑』の編者)、そして=二代目立圃ということで間違いないだろう。全部同一人物と考えて良い。

2025年2月4日火曜日

 
 一昨日の夜から昨日の朝にかけて雨が降ったが、丹沢の山の方は雪が降って、この冬初めての冠雪となった。
 その前にも山頂の所だけ雪が降ったことはあったようだが、下からではほとんど見えなかった。

 さて、まだ次に読むものが決まらないが、『雑談集』をホームページに掲載しようと読み返したら、早速しょっぱなから間違えがあった。

 「其角は貞享五年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが」

 これは間違い。

 矢数俳諧興行は貞享元年。そういうわけで、書き直した。

 「一、伏見にて一夜俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句いづれにてや侍ると尋ね出でられけり。折ふしの機嫌にては大津尚白亭にて、

 

 辛崎の松は花より朧にて

 

と申されけるこそ一句の首尾、言外の意味あふみの人もいまだ見のこしたる成るべし。」(雑談集)

 

 其角は貞享元年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが、これはそのあと貞享五年に再び上方を尋ねた時のことと思われる。

 貞享五年というと、前年の貞享四年の冬には芭蕉が『笈の小文』の旅に出て、貞享五年の八月下旬に越人を連れて江戸に戻っている。それと入れ替わるように九月に其角は近江堅田へと旅立つ。

其角も父の東順が近江膳所藩の医者だったことから、近江国とは縁が深い。

 そのことからも、伏見に来た時、芭蕉の名句はと問われると、この句が浮かんできたのだろう。

伏見は近江から逢坂山を越え、京へ向かわずに山科から南に行ったところにあり、つい先だって近江から来たばかりだったかもしれない。

 「松は花より朧にて」と、後ろに何か省略した感じが、いかにも「言外の意味」を残し、「近江に住んでる人すら思いつかないことだ」と近江に縁の深い人だからこそ言える言葉だ。

 ただ、この句の「にて」留の是非についてはいろいろ議論のある所で、其角としてはその議論を誘う意図があったのかもしれない。

 

 「其けしきここにもきらきらとうつろひ侍るにや、と申したれば、又かたはらより中古の頑作にふけりて是非の境に本意をおぼわれし人さし出て、其句誠に俳諧の骨髄得たれども慥なる切字なし。すべて名人の格的にはさやうの姿をも発句とゆるし申すにや、と不審しける。」(雑談集)

 

 「中古の頑作に」は「中古のかたくな作(さく)に」だろうか。「頑作」という単語が検索にかからない。

 中古は貞門の時代を上古、談林の時代を中古、そして今は芭蕉の正風という意味で、ここでは蕉風確立前の談林の作風に頑なにこだわっているという意味だろうか。 

談林もまた貞門の型を破ってきたが、そこでも雅語の使い方に證歌を求めたり、堅苦しい部分はあった。貞享の時代にあっては保守派に回ってたということだろう。

 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で訪ねた伏見の任口は既に世を去っていたが、談林系の門人はまだ伏見にいくらもいたのだろう。

 発句というのは切れ字を使うもので、というのは当時の一般的な認識で、切れ字なくても切れている大廻しや三体発句は連歌の時代から知られていたが、「にて」留の発句は前例がないし、それ以降もほとんど真似されていない。

 荷兮編『冬の日』には、

 

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

 

という発句があるが、この句には「や」という切れ字が入っていて、句は「霜月に(こう)彳々(つくつく)ならびゐてや」の倒置になるから、「て」留にそれほどの違和感はない。

 芭蕉が「松は花より朧にて」の句を詠んだのはその次の年の春であることから、この句の影響を受けた可能性は十分ある。

 いずれにせよ芭蕉のこの句は発句の体ではないというのは、当時の一般的な認識だったし、後に蕉門を離れた荷兮も元禄十年刊『橋守』巻三で、自分の「霜月」の句を「留りよろしからざる体」とし、芭蕉の句は「俳諧にあらざる体」としている。

 

 「答へに、哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へるによりて志らるべきか、おぼろ哉と申す句なるべきを句に句なしとて、かくは云ひ下し申されたるなるべし。朧にてと居ゑられて、哉よりも猶ほ徹したるひびきの侍る。是れ句中の句他に的当なかるべしと。」(雑談集)

 

 其角の答は、(かな)の句に「にて」留の第三を嫌うのは、哉と「にて」が似通ってるからだということから、この句は、

 

 辛崎の松は花より朧哉

 

としても良いような句で、哉より「にて」の方が「徹したるひびき」というのは、哉が治定の意味で、花より朧だろうかと疑いつつ、主観的に朧だと断定するのに対し、「にて」だと、「にては如何に」と強く疑問を問い掛けつつ断定することになる、そういうことではないかと思う。

 この語感の違いはもっともだと思し、哉と「にて」の働きの似ているのも納得できる。ただ、「哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へる」というのは特に式目にあるわけではない。『寛正七年心敬等何人百韻』では、

 

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬

   春にまかする風の長閑さ    行助

 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

 

というように、「哉」で切れる発句に「にて」で終る第三を付けている。もっとも、江戸時代の慣習としては、そういう嫌いもあったのかもしれない。

 この其角の議論は後に『去来抄』でも取り上げられることになる。

 

 「伏見の作者、にて留どめの難有あり。其角曰、にては哉にかよふ。この故に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫しくなれバ、にてとハ侍る也。呂丸曰、にて留の事は已に其角が解有。又此ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去来曰、是ハ即興感偶にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・来が辨皆理屈なり。我ハただ花より松の朧にて、面白かりしのみト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1011

 

 「伏見の作者」とまで特定されているから、これは『雑談集』を読んだ去来・呂丸と芭蕉の問答であろう。

 

 「此論を再び翁に申し述べ侍れば一句の問答に於ては然るべし。但し予が方寸の上に分別なし。いはば『さざ波やまのの入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉』只根前なるはと申されけり。」(雑談集)

 

 『雑談集』での芭蕉の其角に対する答は、其角の言うのはもっともだが、そんなことを考えて「にて」にしたのではない。

 

 さざ波やまのの浜辺に駒とめて

     ひらの高根のはなをみる哉

             源頼政(新続古今集)

 近江路やまのの浜辺に駒とめて

     ひらの高根のはなをみる哉

             源頼政(夫木抄・歌枕名寄)

 

の歌を踏まえて、比良の高嶺の花の朧よりも辛崎の松の方がより手の届かないもののように見える、というこれは完全にネタを明かしてると言ってもいいかもしれない。

 芭蕉は春の霞のかかる松の朧に即興感隅したというより、比良の高嶺の花より朧なのが面白いという比較に重点を置いていて、こっちの方が朧じゃない?という問いかけにしたかったのではなかったかと思われる。

 いずれにせよ、芭蕉としては発句の慣習に囚われず、俳諧の自由というところにあえて「にて」留をしてみたのではなかったかと思う。そして、その試みはまだ談林の自由の残る貞享二年だからできたことで、後の俳諧の流れの中で、これ一句で終わってしまった試みだったのであろう。

2025年1月31日金曜日

  それでは『雑談集』の続き。

 「露と云ふ字もあそばねば体に成るまじき也。今や俳諧の正風おこなはれて、心の上に巧をかさね、何事も一句に云ひとらずと云ふとなし。
 然ども之をこれぞと手に取りて覚えたる人はなくて、只句作をあやかり行形をまね、それかこれかと紛らはしきばかりなる聞きとり法問なり。
 それいかにと云ふに古風のまッただ中に生れて今は六十にもあまりし人の昔風は申しけれども、今風はえ申されずと卑下せらるるにて知るべし。其書風といへる時の正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。
 時代蒔絵の堅地にて尤も秘蔵せらる文音とて下地鹿相に年の入らざるは兀げやすく破れやすし。今何の用にたたず。当時の作者此心を得て随分念を入れて工案せよ。千歳の後も至宝也。
 時の用にたてんとて趣向をぬすみ、てにをは人にうち任せさし合ははなひ草にて見合せ、点に長をさへとらばと思ふはいと兀げやすこ事也。
 金銀にて彩りたる筆を以て心の色を分ち侍る覚束なし。方寸の器もの手置き大事なるぞかし。」(雑談集)

 露も「あそばねば」というのは、そのままの露を詠んでも和歌で散々使われた言葉なのでなかなか俳諧らしい新味が出せず、露を白鳥と取り合わせることで、白鳥徳利の酒の露と掛けたり、そういった遊びが必要ということなのだろう。
 正風は芭蕉の蕉風のことと見て良いだろう。古池の句を以ってしてそれまでの謡曲調や奇抜な字余りをやめて本来の和歌に準じた体に戻すということで、掛詞や縁語などの貞門の技法なども復活して、一つの言葉に二重の意(こころ)を持たせたりして一句の中に多くの意味を詰め込むようになった。
 ただ、貞門時代の技術は談林の流行の中で次第に忘れられて行って、形だけ真似ている人も多くなっていた。「聞きとり法問」というのはきちんと勉強しないで聞き齧っただけの仏法知識のようなものということか。
 「古風の真っただ中に」というのは貞門時代を知っている人という意味だろう。芭蕉も伊賀にいた頃は貞門の俳諧を学び、江戸に下る前に季吟から伝授を受けたともいう。
 貞門の頃に活躍した人たちは、談林の流行期に俳諧を止めてしまった人も多かったのか、田氏捨女もそうだし、季吟自身も古典の注釈の方に専念したように思われる。今風の俳諧には着いていけなくなったという所か。
 これは貞門の句が劣ってたということではない。「正章重頼立圃宗因一句とてもあだなる句はなし。」の正章は安原貞室のことで、松江重頼、野々口立圃、西山宗因もみな貞門時代を経験している。
 煌びやかな蒔絵も下地がしっかりしてなくてはすぐにはがれてしまうように、貞門の基礎がしっかりしていれば、談林、天和調、蕉風と時代が変わってもその句の価値は衰えない。「千歳の後も至宝也」と、芭蕉の時代からはまだ千年は経ってないが、近代の西洋化の波の中でも芭蕉の句はしっかりと生き残っている。
 この基礎は単に技巧的なものだけでなく、貞門の俳諧が連歌の心をしっかり引き継いでいて、宗因も連歌師だったことを見ても、くだけた調子の句を詠んでいても季語や歌枕の本意本情、根底にある風雅の心を外すことはなかった。ただ、談林から蕉門へと移り変わる中で、若い世代にはなかなかそれがわかりにくくなっていたのだろう。其角はこの時三十一で、世代的にはおぼつかない、その自戒も込めていたのかもしれない。
 点取り俳諧という言葉は後から名付けられたのではないかと思うが、都市に住む俳諧師の生活は、少なからず弟子を集めて点料を取ることによって成り立っていた。其角もその例外ではない。芭蕉も深川隠居前はそのような生活もしていたのではないかと思うが、点者としてはさほど成功しなかったのが幸いだったのかもしれない。
 芭蕉の正風が名古屋・上方を中心に浸透していく中で、芭蕉が奥の細道に旅立ったあと、江戸は点料で生活する師匠たちの力が強くなっていったのだろう。其角も嵐雪もその波には逆らえなかった。
 ただ、点料で生活してはいても、本来の俳諧はこうではないという意識は、生涯持ち続けたのではないかと思う。芭蕉を大阪で看取った後も、芭蕉とともに過ごした延宝・天和の頃の青春時代はいつまでも甘い思い出だったに違いない。

 『雑談集』はこのあと大山詣の話になり、俳論の方はここで終わりになる。

2025年1月30日木曜日

  今日は二宮の吾妻山公園の菜の花を見に行った。今年は水仙も一緒に咲いて、どちらも見頃になっていた。

 今日は『雑談集』の方はお休み。

2025年1月29日水曜日

 今日はまた寄(やどりき)の蝋梅を見に行った。今回はほぼ満開だった。
 前に来た時には鹿シチューを食べたが、今回は猪汁を食べた。

 それでは『雑談集』の続き。

 「露といふ題は案じては成るまじき也。秋の句の付合にはかろがろしく思ひ寄り侍れども、心を付けてはそれもなりがたし。かの紀行の中に、

 朝露や指にはさまるうつの山   粛山

 これらは自然に云ひおほせたる成るべし。又、

 しら露や無分別なる置き所    梅翁

と観念のうへにかけてはいろへがし。」(雑談集)

 粛山の紀行は不明。東海道の宇津ノ谷峠のある辺りの宇津の山を旅した時の句であろう。「宇都の山で朝露の指に挟まるや」の倒置。朝早く山の中を歩いていると落ちてきた露が指の間に挟まったという、見たものそのまま詠んだと思われる。
 梅翁(宗因)の句は、辺り一面に降りた露を「無分別」という所に俳味がある。「観念」はこの場合、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「観念」の意味・読み・例文・類語」の、

 「① ( ━する ) 仏語。心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。
  [初出の実例]「親授二灌頂一、誦持観念」(出典:性霊集‐四(835頃)請奉為国家修法表)
  「我、一心に極楽を観念するに」(出典:今昔物語集(1120頃か)一五)」

の意味で、白露の観察によって、その法則の無さを見出し、そこにこの世の定めの無さまでをも感じ取る観念の句になる。
 露は涙などの比喩として用いられることが多く、季語の放り込みにも便利な上、連歌式目でも使用回数が制限されてないため、付け句では多用される。
 例えば「されば爰に談林の木あり梅の花 宗因」を発句とする『談林十百韻』の第一百韻には、

   小男鹿や藁人形におそるらん
 五色の紙に萩の下露       松臼

   つよくいさめし分別の月
 お盃存じの外の露しぐれ     松意

   山門の破損に秋やいたるらん
 手代にまかせをけるしら露    一朝

   諸方のはじめ冷ひえておどろく
 其形こりかたまりて今朝の露   正友

   網引場月の出はには西にあり
 木仏汚す蠣がらの露       雪柴

と「露」は五回用いられている。
 芭蕉・其角の参加した『俳諧次韻』にも、「鷺の足」の巻五十韻に、

   心の猫の月を背ける
 露に寐て且易馴易忘       才丸

   笑の木愁る草の野は眛く
 亦露分る娑婆の古道       揚水

 「春澄にとへ」の巻百韻に、

   月の秋うらみはこべの且夕て
 露にしがらむ妹が落髪      桃青

   月に秋とふ東-金の僧
 淋しさを蕎麦に露干す豆俵    才丸

 「世に有て」の巻百韻に、

   内に寐ても心はきのふ羇旅
 米とぐ音の耳に露けき      揚水

   粟刈敷て団子干す比
 露鶏の羽がひの鷇ひよひよと   揚水

   きたなくて清き隣と住月に
 明て寐御座をかけ渡す露     才丸

   風の月熱の御灵を鎮めける
 黄なる小僧の怪しさよ露     其角

などの句が見られる。

「石菖の露も枯れ葉や水の霜    角
 雫とは似て似ぬものや草の露   幸水

 さまざまに作り分けたる菊の中に飼れて、

 白鳥の碁石になりぬ菊の露    角」(雑談集)

 其角の句は、「石菖の露も(いつしか)枯れ葉の水の霜(となる)や」という言葉の続き方だろうか。文法的には難しい。石菖は寒さに強く冬越しもできるが、霜が降りると葉が茶色くなり枯れたみたいになる。秋の石菖に降りる露は奇麗でも、やがてその露の水は凍って霜に変わる。
 幸水の句は「草の露は雫とは似て似ぬものや」の倒置でわかりやすい。
 比喩で用いられることの多い露も発句では実際の露の興を起こして、その心に迫る方法が望ましい。追悼などの句ではその限りでないが、発句は基本的に季語の心を言い興すものだ。月見の句でも月を見る心が大事で、「月見あるある」は駄目というほどのものではないにせよ、それより一つ格が落ちる。

 白鳥の碁石になりぬ菊の露    其角

の句はいかにも其角らしい難解な句だ。
 問題はこの場合の白鳥が何を意味するかだが、「菊の中に飼われ」とあるから、今日のハクチョウとは思えない。
 和歌では「しらとり」は鷺坂山を導き出すのに用いられている。鷺坂山は今の京都府城陽市久世の辺りの坂道だと言われていて、ハクチョウの棲めそうな池もなさそうなので、しらとりは鷺を導く枕詞としてシラサギをそう呼んでいたのではないかと思われる。
 また、しらとりは鳥羽田にも詠まれる。京都伏見の鳥羽の田んぼで、これも鳥の羽に掛けたものと思われる。
 ハクチョウにせよシラサギにせよ、菊の咲く庭で飼っていたとは思えない。そうなると、ますます謎は深まる。
 ただ、昔は田んぼのある所には溜池は付き物なので、そういった所にハクチョウが飛来してたとしても不思議はない。シラサギとハクチョウの句別は、江戸時代でもツルとコウノトリの句別が曖昧だったように、それほど厳密ではなかったから、「しらとり」から鷺を導き出すのも、そんなに不自然ではあるまい。
 白鳥が文字通りのハクチョウだとすれば、「碁石になりぬ」は白い親鳥と灰色の若鳥の混在した状態だというのが理解できる。旧暦九月くらいだと雛鳥は成長したものの、まだ灰色の毛を残していて、確かにそれを碁石に見立てることも可能だろう。
 もう一つ考えられるのは、白鳥は単なる白い鳥という意味で庭で飼われる鶏か家鴨を意味していた可能性だ。家鴨も時代は下るが鈴木其一『水辺家鴨図』でも白い家鴨と濃色の家鴨とが混ぜて描かれている。これだと飼われていてもおかしくない。
 「菊の露」は菊の花に降りた露の実景として、ハクチョウの白と灰色の混じる池の畔に咲いている景色と見るのが表向きの意味になる。ただ、「菊の露」は重陽の菊の酒を連想させ、酒といえば白磁で出来た徳利のことを白鳥徳利と呼んでたことがまた連想される。
 元禄七年刊の『其便』所収の、

 白鳥の酒を吐くらん花の山    嵐雪

の句は白鳥徳利のことと思われる。
 白鳥がハクチョウなのかアヒルなのかは決定しがたいが、白鳥は白鳥徳利に掛けていて、菊の露に菊の酒の連想が生じることは狙っていたのではないかと思う。アヒルだったら酒の肴にもなる。(ハクチョウも食べてはいたがあまり一般的ではなかった。)