2025年12月13日土曜日

  「チェンソーマン レゼ編」は日本だけでなく海外でも好評だという。建前やポリコレや人権思想だのそんなもの抜きに、本音で生きて戦って平和を守ろうとする人たちは、今の時代どこの国でも求めているものではないかと思う。
 今の世界だったらともすると、悪魔と話し合って仲良くできないかだとか悪魔を差別するなだとか言い出すやつもいかねないそ、ビルが壊れれば誰が保証すんだって話にもなる。銃の悪魔に勝てないなら白旗上げて、戦うのを止めれば死ぬ人もいなくなるなんて、そんなこと真面目に言い出すやつはいくらでもいる。
 デンジは昭和生まれで貧しかった時代の最後の方の記憶をかろうじて持っている俺としては、今でこそ珍しいが昭和じゃ普通だったなという感じのキャラだ。
 戦前は義務教育も尋常小学校までだったし、終戦後の混乱期には親の居ない子供もたくさんいた。親の愛も知らず、ただ搾取されるだけの毎日で、それでも生きていければいいという中で、西洋の映画の朝食シーンには誰もが憧れたものだ。
 飯を食いたい。女が欲しい。それをかなえてくれるならやくざの鉄砲玉にでも喜んでなるような人はたくさんいた。奴隷のような絶対服従の組織でも生きていられるだけで幸せだった。それが昭和の時代だった。
 多分昭和の日本だけじゃない。世界中どこでも貧しい人達はそうやって生きていると思う。だからデンジの生き方には世界中の人が共感できるんだと思う。
 まあ、悪い面もあるけどね。そうやって食うことと女を抱くことにしか興味を持てなかった人たちが、ひとたび豊かになり社会的成功を勝ち取っても、大人になって飯が酒に変るだけで、銀座のクラブや赤坂の料亭で豪遊するのがステータスになって、あの世代のオヤジは簡単に中国のハニトラに引っ掛かる。デンジがレゼに惹かれたみたいに、やばいとわかっていながらはまってってしまうんだろうな。
 ハリウッドもヨーロッパ映画も小難しいこと言わずに、こういう本音で生きる人間のドラマを作ってほしい。そうしないと、そのうち日本のアニメに完全に席巻されてしまうよ。今の日本がそうだから。

AI俳画
 それでは「甲戌紀行」の続き。

   紀の川いく瀬もあり
   三日月の流るゝを
 たづか弓矢をつく船やみかの月  其角

 翌10月3日、高野山を出て紀ノ川を下り、和歌の浦に向かう。西へ向かうので、夕暮れには行き先に三日月が見えて、その光が川に映し出される。
 「たつか弓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手束弓」の解説」に、

 「〘名〙 手に握り持つ弓。たつかの弓。
  ※万葉(8C後)一九・四二五七「手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬたなくらの野に」
  ※散木奇歌集(1128頃)恋下「つくつくと思ひたむればたつかゆみかへる恨みをつるはへてする」

とある。軍事用の長弓ではなく、狩猟用の座って射れるような小さな弓ではないかと思う。
 三日月が弓のようで、その下の光る浪が沢山の矢のように見える。

2025年12月12日金曜日

 
AI俳画
 今日は今年やり残したことということで「チェンソーマン レゼ編」を見に行った。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

   高野山
 卵塔の鳥居やげにも神無月   其角

 10月1日に吉野から高野山へ船で移動したと見た方がいい。徒歩や馬だと移動に丸一日かかりそうだが、川を船で下ったなら、西河を見てから夕暮れに高野山までたどり着くこともできただろう。
 2日は高野山を見て回り、三日には和歌の浦へ向かう。ここははっきりと船に乗ったとわかる。
 卵塔は無縫塔ともいう卵型の墓で僧の墓に多い。
 お墓の入口に鳥居があるにもかかわらず、その先は卵塔ばかりだと、なるほど神無月だ、ということになる。

2025年12月11日木曜日

  今の時代、テレビを見てる人とネットを見てる人は違う世界線にいる。

テレビ派
 高市さんが日本初の女性首相になったけど、いきなりワークバランスを無視して働けだなんてとんでもないことを言いだした。
ネット派
 日本初の女性首相の誕生で、これからバリバリいろんなことをやってくれそうで楽しみだ。

テレビ派
 トランプ来日ではみっともなく媚を売りまくって、結局日本じゃ女は男に媚びなきゃ偉くなれないんだな。
ネット派
 トランプ来日で日本の復活と日米同盟の強固さを世界にアピールできた。

テレビ派
 台湾有事になったら日本はそれを口実に自衛隊を派遣して、本格的に中国と戦争をする気のようだ。
ネット派
 台湾有事になったら自衛隊を出してでも日本を守ってくれる。中国相手に一歩も引かない姿勢は本当に頼もしい。

テレビ派
 台湾有事発言で高市首相はトランプにも怒られるし、G20では中国に完全に無視されて日本は孤立した。
ネット派
 台湾有事発言ではトランプも北京を攻撃するなどの発言を引き出せたし、G20ではメローニさんとも仲良くなって、中国包囲網ができた。

テレビ派
 高市の台湾有事発言で、日本の観光業は大打撃を受けたし、中国でのコンサートなども続々中止になってミュージシャンたちも怒っている。
ネット派
 台湾有事発言への報復は中国人の観光業者が打撃を受けただけで、観光地はマナーの悪い中国人がいなくなってむしろ喜んでいる。中国でのイベント中止は中国のファンも怒っていて逆効果だ。

テレビ派
 立憲民主党の力で政府もやっと重い腰を上げて、ガソリンの暫定税率廃止を勝ち取った。
ネット派
 高市首相になって石破がやらなかったガソリンの前提税率廃止がやっと実現した。

テレビ派
 中国軍が通常の演習をやっている所に、自衛隊がしつこく付きまとってえらく怒っている。高市政権は中国侵略の口実を作ろうとしてるのか。
ネット派
 中国軍の経済水域侵入が常態化していて、自衛隊機にレーダー照射をした。それに対して中国は苦しい言い訳をしている。

テレビ派
 ガザとウクライナは何も解決してないし、トランプも高市も戦争を起こそうとしている。このままいけば第三次世界大戦になって、人類滅亡の悲惨な未来しか見えない。
ネット派
 ガザやウクライナも解決に向かって動き出したし、未来に希望が持てる年になった。

AI俳画

 それでは「甲戌紀行」の続き

   西河のたきにて
 三尺の身をにじかうのしぐれ哉  晋子

 西河は吉野の東側の音無川の流れる谷で、蜻蛉(せいれい)の滝があり、芭蕉も貞享五年の『笈の小文』の旅で訪れて、

 ほろほろと山吹散るか滝の音   芭蕉

の句を詠んでいる。
 「三尺の身」は、いくら何でも其角が身長僅か一メートルってことはない。三尺は三尺頭巾のことか。落差50メートルの滝が巻き上げる水しぶきが時雨のようだ。

2025年12月10日水曜日

  そろそろこの一年振り返っちゃおうかな、なんて季節にもなった。

 気持ち的に眼下は崖の初日哉

なんてこのまま世界はどうなってしまうかという不安の中で一年が始まったけど、トランプさんの大統領就任から急に流れが変わり、日本でも初の女性首相の誕生といろいろ希望の見える年になった。
 世界的に戦後ベビーブーマーの時代が終わって世代交代が始まったと見て良いのだろう。トランプさんはともかくとして、高市さんは初めて俺より年下の首相(二ヶ月違い)になったし、他の大臣の年齢も年下が多くなった。
 戦後のベビーブーマーは日本では「戦争を知らない子供たち」とも呼ばれたけど、戦争の恐怖ばかりを植え付けられ、戦争に至った歴史を正しく知らされてなかったし、戦争になるだとかホロコーストが起きるだとか言われると過剰に反応して、結果的に自虐的な政策を繰り返して今の混乱を生む元になった。
 そういうわけで昨日の句会の句は、

 まだ残る黄葉にあしたが光る

となった。

 今年のアニメはAve Mujicaに始まった。ただ、これだけ見ても話が繋がらないから、その前のMyGO!!!!!も見ることになった。春アニメは機動戦士Gundam GQuuuuuuXでこれも元ネタが知りたくて初代ガンダムを見ることになった。夏アニメはタコピーの原罪とわたなれ(わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?))。今やってる秋アニメはさいひと(最後にひとつだけお願いしてもよろしいでしょうか)。わたなれの映画も見に行って楽しい一年だった。

AI俳画
 それでは「甲戌紀行」の続き。

   世尊寺
   こよひだれすずふく風と
   よまれたる所といふに、
   月ならばなどおもひやられ
 頼政の月見所や九月尽      晋子

 世尊寺は吉野の奥の上千本の上にあった寺で、明治の廃仏毀釈で廃寺になり、「吉野三郎」と呼ばれる梵鐘のみが今でも残っている。
 源頼政は、

 今宵たれすずふく風を身にしめて
     吉野の嶽たけに月を見るらむ
              源頼政(新古今集)

の歌がある。

2025年12月9日火曜日

 
AI俳画
 今日の句会の句。

 何言ったの木枯しに問い返す
 日は西へそして師走の街灯り
 まだ残る黄葉にあしたが光る
 冬日射す城の白壁帰り道

 それでは「甲戌紀行」の続き。

 9月28日に奈良を出て、多武峰から細峠を越えて吉野に到着する。そして、29日に吉野の名所を回ることになる。

   廿九日よしのの山ふみす。
   白雲峯に重り煙雨谷をうつんて山賤の家所々にちひさく、
   西に木を伐ル音東にひびき院々のかねの声心の底にことふ
   寒雲繍盤石といふ句におもひよせて
 高取の城の寒さよよしの山    晋子

 高取城は日本三大山城の一つとも言われ、標高583メートルの山の上に天守閣が築かれている。芭蕉も元禄三年の「月見する」の巻二十九句目に、

   随分ほそき小の三日月
 たかとりの城にのぼれば一里半  芭蕉

の句を付けている。天守まで辿り着く頃には日が暮れてしまう。
 其角のこの句は許六の『俳諧問答』にも、

 「高取の城の寒さやよしの山
といふも、『ふる里寒し』の下心也。ふる里よりハ、めの前の高取寒しといへる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

とある。この「寒さ」は、

 みよし野の山の秋風さ夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
              参議雅経(新古今集)

の歌による、というわけだ。
 まだ9月だけど「寒さ」で冬の句としているが、この歌を思い浮かべるならまだ秋の情になる。

2025年12月8日月曜日

 
AI俳画
 「隨縁紀行」と「甲戌紀行」をまとめたものを鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。題して「其角、鶴時雨」

 それでは「甲戌紀行」の続き

 松陰の硯に息をしぐれかな    晋子

 二上山当麻寺奥院には今も平家物語に由来が登場するという松蔭硯が残されている。楕円形の硯なので、それを馬の蹄に見立てて箱が作られたようだ。当麻寺のホームページの画像では、箱の外側はよく分らなかった。
 硯は息を吹きかけてみて湿ると良い硯だという。松陰硯は良い硯だから、さぞかし息を吹き替えたなら時雨のようになるだろう。
 27日は二上山当麻寺を出ると一度奈良に戻り、そこで一泊したと思われる。28日はふたたび三輪を通って談山神社、多武峰、細峠を経由して吉野に向かう。

2025年12月6日土曜日

AI俳画
  「甲戌紀行」の続き。

 9月26日は法華寺を経由して当麻寺へ行ったと思われる。

   当麻寺奥院にとまりて
 小夜しぐれ人を身にする山居哉  其角

 「人を身にする」は「人を思うは身を思う」を縮めた形か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「人を思うは身を思う」の解説」に、

 「他人に情をかければ、やがては自分のためになるという意。情は人のためならず。
  ※北条氏直時代諺留(1599頃)「人を思ふは身を思ふ。人を憎むは身を憎む」

とある。時雨が来た時には人を雨宿りさせる人情が、廻り廻って自分が時雨にあった時にも帰って来る。

 世にふるもさらに時雨の宿り哉  宗祇

の句を踏まえたものであろう。
 時雨は冬の季語ではあるが、和歌では紅葉を染める雨として晩秋に詠むことも多い。まだ9月ではあるが、時雨に関しては厳密に10月からということはなかったのだろう。有名な、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也   芭蕉

の句も9月の終りに詠まれている。

2025年12月5日金曜日

AI俳画
 昨日行った鎌倉の東慶寺のことで、やけに庭が荒れてた印象があったが、先代の住職が亡くなってから色々あったみたいだ。
 コロナの頃が転機になったようだ。入場料を取らなくなり、入口の所の小屋を撤去したとか、境内を撮影禁止にしたとかはまだわかる。庭に関しては矢野智徳の「大地の再生」の影響からか、従来の庭園管理を止めて、ほとんど放置した状態になってた。またブログやSNSを見るとアーユルヴェーダのことばかりで、臨済の教えはどこへ行ってしまったのか。

 それはともかく「甲戌紀行」の続き

   二月堂に七日断食の行者あり屏風引廻して無人声
 日の目みぬ紙帳もてらす栬かな  其角

 紙帳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紙帳・紙張」の解説」に、

 「① 白い紙を張り合わせて作った蚊屋。上からつるものと、頭からかぶるものとがあった。また、冬には防寒用にも用いられた。《季・夏》
  ※経覚私要鈔‐文安四年(1447)四月二日「為レ蚊紙帳用二意之一。〈略〉為二養性一第一事也」
  ※浮世草子・好色一代男(1682)三「米櫃(こめひつ)は物淋しく、紙帳(シチャウ)もやぶれに近き進退」 〔蘇軾‐贈月長老詩〕

とあるが、前書きに屏風とあるから、ここではその屏風を指すと思われる。

2025年12月4日木曜日

AI俳画
 今日は鎌倉へ行った。
 まあ、中国政府の粋な計らいというか、中国人観光客が減っていると聞いて、このチャンスを逃す手はない。まあ、時折中国語も聞こえて来ていたが、他の国の外国人の方が圧倒的に多かった。
 東慶寺から円覚寺、浄智寺、鶴岡八幡宮、寿福寺、長谷寺、御霊神社、稲村ケ崎と回った。楽しい一日だった。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

   春日四所の宮人達夜毎にとのゐして
   戌の刻を限りとし侍る也
 今幾日秋の夜詰めを春日山    其角

 春日四所はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四所明神」の解説」に、

 「春日神社の四柱の祭神。武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)・比売命(ひめのみこと)の総称。
  ※光悦本謡曲・采女(1435頃)「四所明神の宝前に、耿々たる灯も」

とある。晩秋の冬至に近い戌の刻だから、午後6時から8時くらいになるのか、遅くまで宿直して参拝できるようにしていた。

2025年12月3日水曜日

AI俳画
 それでは「甲戌紀行」の続き。

 僧ワキのしづかに向ふすすき哉  晋子

 謡曲「井筒」のワキは「これハ諸國一見の僧にて候」と言って登場する。在原寺は天理市のホームページによると、

 「天文23年(1554)三条西公条の『吉野詣記』には在原寺の記事が見え、延宝9年(1681)刊の『和州旧跡幽考』にも記され、江戸時代は寺領わずかに五石であったが、明治維新ごろまで本堂、庫裡、楼門などがあり、昔は、在原千軒と称せられたほど人家が建ち並んでいたという。」

とある。寺はかなり荒れていて、薄が茂ってたのだろう。

2025年12月2日火曜日

AI俳画
  今日は海老名へわたなれネクストシャインを見に行った。正式には「わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)〜ネクストシャイン!〜」。
 「れな子が悪い」は流行語にもなっていたし、YouTubeでは満員になる劇場もあったというが、今日の所は埋まってる席は三分の一といった所か。他の映画に比べれば入ってる方なんだろう。
 自己肯定感というのが一つのテーマのように思う。日本人には足りないとよく言われる。自己肯定感が高すぎても、みんな我儘になってモラルが崩壊したりしてそれはそれで問題だが、日本ではもっぱら低すぎる方が問題になる。
 人に迷惑が掛からないなら、善とか悪とか過度に気にすることなく、好きなものは好きと胸を張って言えた方がいい。どんな性癖だっていいじゃないか。
 このごろ「みいちゃんと山田さん」という漫画も流行っているが、これも発達障害だろうが境界知能だろうが、自己肯定感が気持ち良い。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

 初瀬を出たあとの足取りは時系列がかなり混乱している。
 『隨縁紀行』では、

 初瀬 三輪 在原寺
 二月堂
 法華寺大湯屋
 二十八日南都を出る
 当麻寺
 多武峰
 春日四所
 伊勢大神宮
 二月堂(重複)
 増賀聖の古跡
 二十九日吉野

となっていて、『甲戌紀行』では、

 初瀬 大和柿
 三輪
 春日四所
 二月堂
 当麻寺
 吉野

となっている。
 其角ら一行は25日、26日、27日は奈良の各所を回り28日に奈良を出て吉野へ向かったのは確かだろう。
 推測だが、25日は初瀬から奈良に向かい、その夜春日四所と二月堂を見て回る。
 26日は二上山当麻寺に向かい、途中法華寺大湯屋を見る。
 27日は二上山当麻寺を出て一度奈良に戻ったと考えられる。
 28日に奈良を出て業平寺、大神神社、談山神社、多武峰を経て途中一泊し、29日に吉野山に到着する、といった所だろうか。
 「甲戌紀行」では三輪の二句が先に来る。

 むらしぐれ三輪の近道尋けり   晋子

 三輪山で時雨にあって、近道がないかどうか尋ねた。

2025年12月1日月曜日

AI俳画
  今日は震生湖と弘法山の紅葉を見に行った。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

   大和柿とて主よりもてなす
 はつせ女に柿の渋さを忍びけり  其角

 これは初瀬に宿泊した時の句であろう。これも24日から25日ということになる。
 大和柿は御所柿とも言い、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御所柿・五所柿」の解説」に、

 「〘名〙 カキの一品種。甘柿で果実はやや扁平な球形で、種子はほとんどない。奈良県御所(ごせ)市の原産といわれ、古くから栽植されている。近畿地方や岐阜・山梨県に多い。大和柿。紅柿。
  ※寒川入道筆記(1613頃)愚痴文盲者口状之事「しぶがきなどをきりてつげば、御所柿にもなる」 〔和漢三才図会(1712)〕」

とある。木練(こねり)とも言い、木になっている時から甘い。
 これより五日後、芭蕉の大阪での九月十九日の興行「秋もはや」の巻十一句目にも、

   住ゐに過る湯どの雪隠
 木の下で直に木練を振まはれ   其柳

の句がある。

2025年11月30日日曜日

AI俳画
 今日は地元の御嶽神社のどぶろく祭りに行った。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

 24日の夜はおそらく長谷寺の宿坊に泊まったのではないかと思う。参拝は24日の夕方か25日の朝ということになる。

 栬みる公家の子たちぞはつせ山  其角

 栬は「もみぢ」。
 長谷寺は王朝時代から京都の貴族が多く訪れる場所でもあり、『源氏物語』では九州を脱出した玉鬘の一行が、旧知の右近と再会し、宮中に戻るきっかけにもなった。
 この時代でも貴族の子息が訪れていたのかもしれない。

2025年11月29日土曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

   莫嗔野店無肴核薄酒堪沽豆莢肥と周南峯が句を感す
 足あぶる亭主にきけば新酒かな  其角

 前書きは『聯珠詩格』巻五「用莫嗔字格」の、

   宿禾村      周南峰
 山雨初収涼思微 樹林陰翳逗斜暉
 莫嗔野店無肴核 薄酒堪沽豆莢肥

による。
 返り点と送り仮名がふってあるので、

 山雨初テ収テ涼思微ナリ 樹林陰翳シテ斜暉ヲ逗ス(逗字老)
 嗔莫コト野店肴核無ヲ 薄酒沽ニ堪テ豆莢肥タリ(客途即景之真味)

となる。(早稲田大学図書館による)
 『聯珠詩格』はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「聯珠詩格」の解説に、

 「中国,元の作詩法の書。于済の著。蔡正孫が増補。 20巻。大徳4 (1300) 年成立。初学者のために七言絶句の作り方を実際的に示したもの。中国で失われ,朝鮮,日本に伝わって読まれた。」

とある。
 おそらく奥津宿で一泊した時の句であろう。そこでは薄い酒に豆のような簡単な肴しかなく、寒くて足をあっためていた亭主に聞いてみると、新酒だというのでとりあえずは満足した。周南峯の詩を思い起こせば、これもまた風流。

2025年11月28日金曜日

 
AI俳画
 今日の句会の句。

 七五三ちとせの剣を手に入れた
 鮟鱇の闇を恐れぬ心かな
 窓閉めてコンビニ飯や冬紅葉

 それでは「甲戌紀行」の続き。

  川芎の香に流るるや谷の水    晋子

 川芎(せんきゅう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「川芎」の解説」に、

 「〘名〙 セリ科の多年草。中国原産で、薬用植物として栽培される。高さ三〇~六〇センチメートル。葉は二回三出の羽状複葉で各小葉には鋭い鋸歯(きょし)がある。茎葉は根生葉と同様に有柄で、葉柄の基部は幅広い鞘となってゆるく茎を抱く。秋、茎の先端に複散形花序をつけ、それぞれの枝の先に白い小さな五弁花を球状に密生する。根茎を頭痛、鎮静薬に用いる。中国四川省産の品が優れていたため四川芎藭を略して呼んだもの。漢名、芎藭。おんなかずら。女草。《季・秋》
  ※桂川地蔵記(1416頃)上「薬種〈略〉陳皮、川芎」

とある。秋の季語になる。
 宇陀地方で栽培されていたようだ。

2025年11月27日木曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 9月23日に、伊勢から長谷へ向かう。

   伊勢より長谷路へ出る田丸越して
 山畑の芋ほるあとに臥猪かな  其角

 田丸は今の玉城町で、伊勢から宮川を渡り、西へ行った所にJR参宮線の田丸駅がある。伊勢本街道になる。
 檜ノ牧は榛原檜牧であろう。今の宇陀市になる。
 伊勢本街道は今の国道368号線422号線369号線に受け継がれている道で、飼坂峠を越えて伊勢奥津(奥津宿)へ出て、石割峠を越えて榛原へ抜ける。この間は終始深い山の中を通る。
 山の中では猪の姿を見ることもあっただろう。収穫した後の里芋畑何かにも、我が物顔で猪が寝てたりする。

2025年11月26日水曜日

 
AI俳画
 今日ははこね金太郎ラインから長尾峠、箱根スカイライン、芦ノ湖スカイラインと箱根外輪山を回り、箱根峠から元箱根に降りて、仙石原のススキを見て、はこね金太郎ラインで帰った。仙石原のススキはすっかり穂になっていた。

 それでは「甲戌紀行」の続き。

   宮川の上に酒送りせらるるに此花を肴にめでてとありければ
 重箱に花なき時の野菊かな   其角

 宮川の酒送り朝熊山に登った翌朝の23日のことと思われる。
 宮川は伊勢神宮外宮の西側を流れる川で、伊勢の入口でもあり出口でもある。
 旅立つ時に酒をふるまうのは、三島の菊の酒もあったし、芭蕉が貞享5年の『笈の小文』の旅から帰る時にも、

 朝貌は酒盛しらぬさかりかな   芭蕉

と芭蕉庵に残してきた朝顔のことを思い出しながら旅の無事を祈って三盃を傾け、木曾から姨捨山を経由して江戸への帰途に着いたように、当時の習慣の一つだった。
 折から宮川の河原には野菊が咲いていた。
 送り出す時に昼飯の弁当のサービスもあったのだろう。花見でもするのかというような立派な重箱の弁当を渡され、野菊でも見ながら食べるしかないな、というところか。

2025年11月25日火曜日

 
AI俳画
 昨日は秦野市文化祭俳句大会で忙しくて「甲戌紀行」の方はお休みした。西公民館まつりの展示と時期が重なってた。

 それでは続きだが、「二見 朝熊」の朝熊の方の句。

 紅葉して朝熊の栢といはれけり 其角

 栢は柘(つげ)の誤植。
 朝熊黄楊(あさまつげ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝熊黄楊」の解説」に、

 「〘名〙 (三重県朝熊(あさま)山のものが有名なところから) 植物「つげ(黄楊)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。ツゲは若葉の頃は黄色くなるが常緑樹なので紅葉はしない。
 ただよく知らないと、紅葉で黄色くなったのがツゲだと言われてしまいそうだ。

2025年11月23日日曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 9月21日、其角ら一行は二見ヶ浦に行く。

   二見 朝熊
 岩のうへに神風寒し花すすき  晋子

 海岸の岩の上の風に靡く薄は、伊勢だから神風に靡く薄になる。海から吹く風は冷たい。

2025年11月22日土曜日

AI俳画

 「甲戌紀行」の続き。

 翌九月二十日は御師の福井藤兵衛大夫の家で御神楽を見る。

   御神楽 謹上再拝
 太々や小判ならべて菊の花   其角

 太々神楽は大人数で演奏する大掛かりなものであるため、かなり高価で小判が何枚も必要だったのだろう。太々は小判の色の橙にも掛かるそれを並べるとさながら菊の花のようだ。
 「隨縁紀行」の方に、

 神の秋七十わかしいもと神子  岩翁
 四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁

の句があるから、舞手の神子さんは70歳の老女だったようだ。まあ、若い娘の未熟な舞より七十の熟達した人間国宝級の舞を愛でるのが通というものなのだろう。菊は重陽の不老長寿の薬を象徴するものでもある。

2025年11月21日金曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 9月18日に伊勢に着き、翌19日は外宮と内宮を回ることになる。

   内宮
   浮屠の属にたぐへてこゝろへだちたる五十鈴川より遥かに拝す
 身の秋や赤子もまゐる神路山  晋子

 内宮が僧形だと入れないのは芭蕉の『野ざらし紀行』にも、

 「我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。」

とある。其角も僧形で旅をしていたのがわかる。宇治橋を渡ることができなかった。
 「身のあき」は宇津保物語の、

 待つ人の袖かと見れば花すすき
     身のあき風になびくなりけり

か。秋と飽きが掛詞になる。今日の「飽きられた」というだけでなく「厭われた」という意味を含む。
 赤ちゃんでも参拝できるのに、何で僧形というだけでこの身を厭うのか、という意味。

2025年11月20日木曜日

  
AI俳画
「甲戌紀行」の続き。

 9月16日は熱田を出て七里の渡しではなく、佐屋街道を陸路6里、津島牛頭天王社へ行く。この神社は明治の廃仏毀釈で津島神社になった。
 佐屋宿から三里の渡しでその日のうちに桑名に到着する。
 そして翌17日の朝未明に桑名を発つと、3里ほどで四日市宿に付き、その少し先の日永の追分で伊勢街道に入ることになる。津宿までがほぼ10里で一日の行程になる。
 18日は津宿を出て伊勢へ向かう。津宿からは京都・近江・方面から東海道で来た人たちが関宿から伊勢別街道で津へ出るため、その人達が加わり更に賑やかな道中となる。
 津から伊勢神宮までは1日の行程になる。

   雲津川にて
 花すすき祭主の輿をおくりけり 其角

 雲津川は雲出川で、松坂の北を流れている。
 伊勢の祭主はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「祭主」の解説」に、

 「伊勢(いせ)の神宮に仕える祀職(ししょく)名の一つ。神宮祭主ともよばれ、神宮にだけある職名で、天皇にかわって祭祀に仕える大御手代(おおみてしろ)として、皇族または皇族であった者のなかから選ばれる。現在の神宮祭主は池田厚子である。この起源は、神宮鎮座のとき、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主に任ぜられたのに始まるという(『倭姫(やまとひめ)命世記』ほか)。初めは伊勢への幣使をいった(「大神宮式」)が、のちに中臣(なかとみ)氏を選んで祭主とし、朝廷と神宮との仲執(なかと)り持ちの役をさせた。後奈良(ごなら)天皇(在位1526~57)以降は、中臣氏のなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し、1871年(明治4)の神宮改正後は、皇族祭主の制が定められ、大御手代とされた。なお、祭主の語は、早く『日本書紀』の「崇神(すじん)紀」7年8月の条にみえ、そこでは祭りの主(かんぬし)(または「つかさ」)と読む。[沼部春友]」

とある。
 この時の祭主は藤波景忠で、ウィキペディアに、

 「正保4年(1647年)、神宮祭主藤波友忠の子として生まれる。万治4年(1661年)2月、15歳で叙爵され、同年3月には祭主となる。順調に昇叙して延宝6年(1678年)には従三位まで昇ったが、天和4年(1684年)2月9日、鷁退して正四位下まで下った。2日後の11日には昇殿を許され、貞享2年(1685年)になって従三位に復し、公卿に列せられた。正徳4年(1714年)に子の徳忠に祭主職を譲った。享保12年(1727年)、81歳で薨去した。」

とある。
 雲出川に橋はなく、この場合の輿は蓮台渡しのことであろう。時代によっては渡し船になったたり仮の橋が掛かったりしていたようだ。
 花薄が靡いている姿を敬いひれ伏す姿に見立てて、その中をたまたま祭主の蓮台が通るのを目にすることができたか。

2025年11月19日水曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 浜松から熱田神宮のある宮宿までは25里。14日15日の2日間で熱田まで熱田まで行ったのならかなりの強行軍になる。ただ、浜松藩の家老の別邸が三方ヶ原にあったのなら、御油までは姫街道を通ったと思われるから、それよりは若干距離が短くなるかもしれない。23里くらいか。

   熱田奉幣
 芭蕉翁甲子の記行には「社大にやぶれ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすゑてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こゝろのまゝに生たるも目出たきよりも心とまりて」とゝかれたり。與廃時あり甲戌の今は造営あらたに又めでたし
 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 熱田神宮は芭蕉の『野ざらし紀行』に、

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉」

とある。其角の引用はそれとそれほど変わってはいない。
 『野ざらし紀行』は『甲子吟行画巻』という形で貞享の頃に既に成立していたので、其角も当然ながら読んだことだろう。ただ、一点もので刊本ではないので、閲覧できた人は江戸の門人か江戸に来る機会のあった門人に限られただろう。文章の方は書き写して他の地域に伝わっていたかもしれない。
 このあとすぐに熱田神宮は改修され、3年後の貞享4年冬、ふたたび『笈の小文』の旅で熱田を訪れた芭蕉は、

   そのとしあつ田の御造營ありしを、
 とぎ直す鏡も清し雪の花    芭蕉

の句を詠むことになるが、『笈の小文』は芭蕉の遺稿で、この先芭蕉の死後に知ることとなるだろう。そのあと元禄八年刊支考編の『笈日記』で広く知られることになった。『句兄弟』の「隨縁記行」の頃はまだ知らなくて、この前書きになったが、『俳諧錦繍緞』「甲戌紀行」の時にはすでに読んでいたことだろう。

 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 其角も元禄7年にこの新しくなった熱田神宮を目にすることになる。ただ訪れたのは15日の夜遅くか16日の朝未明だったようだ。浜松から23里を2日で来た関係で、宮宿への到着も暗くなってからだったのだろう。
 まだ暗い境内を長月の十五夜の月が照らし、禰宜もまだ鼾をかいているのだろうか、杉がさらさらと音を立てる。

2025年11月18日火曜日

AI俳画
  今日は南足柄の花咲く里山へざる菊を見に行った。

 「甲戌紀行」の続き。

 十三夜は浜松藩の家老の別邸か何かに呼ばれたのだろうか。『句兄弟』「隨縁紀行」に、
 
 内玄関家老の客や十三夜    亀翁

の句があり、家老の家に呼ばれている。また、

 後の月味方か原を一目かな   尺草

の句がある処から、三方ヶ原の方に呼ばれたと思われる。

   十三夜浜松にていづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子

 この家老の別邸の松を見ていると、江戸の自分の家を思い出す。其角も親が名医だったから、それなりの家に住んでいたのだろう。其角で松と言えば、

 名月や畳の上に松の影     其角

の句が、この『句兄弟』にも収録されている。おそらく貞享元年の句で、芭蕉がそれに対抗して、

 わが宿は四角な影を窓の月   芭蕉

の句を詠んだのではないかと思う。

2025年11月17日月曜日

  今日は渋沢丘陵を通って震生湖まで散歩した。

AI俳画
 皇帝のダリア寝ぼけた朝の色
 海見よとパンパスグラス背伸びする
 薄紅葉今日も工事の震生湖

 それでは「甲戌紀行」の続き。

 其角ら一行は雲名橋から天竜川を下る。
 山から平野部に出るあたりに今も二俣という地名がある。二俣川が天竜川に合流する。

   二股川
 打つ櫂に鱸はねたり淵の色    其角

 椎河脇の御社は今の椎ヶ脇神社と思われる。川の脇にある。この辺りまで来ると淵も深くなり、スズキもいたのだろう。
 二俣の対岸は鹿島という地名になっている。遠州鉄道の西鹿島駅がある。ここで陸に上がって浜松へ向かったのだろう。今も笠井街道という名の道がある。
 9月9日の朝、三島で重陽を迎えて其角等御一行は由比まで行き、9月10日に清見潟から宇津の山を越え岡部宿まで行き、そして11日に小夜の中山を越えて掛川に至り、12日に秋葉山下社の宿坊に泊まり、13日朝に上社に参拝して山を下り、浜松で十三夜を迎える。

2025年11月16日日曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 秋葉神社への行きは掛川から入ったが、帰りは浜松へ出る。9月13日の朝に上社を参拝し、その日のうちに浜松へと向かうことになる。
 雲名橋の辺りから船に乗って天竜川を下ったのだろう。山道はそこで終わりということで、杖を捨てる。

 かし鳥に杖を投げたるふもと哉 其角

 かし鳥はカケスのこと。

2025年11月15日土曜日

AI俳画

 「甲戌紀行」の続き。

 9月13日の朝、其角ら一行は秋葉神社上社へと向かう。

 合羽着て鹿にすがるや秋葉道  晋子

 この場合の合羽は防寒着とも思われるが、別に雨が降っていたとしてもおかしくない。ここまでの旅が駕籠によるものだったら、雨もそんなに関係なかったかもしれないが、山路を歩くとなれば雨具は必要だし、山の中だから霧に巻かれて、実際に道端に出て来ていた鹿を辿るように上社まで行ったのかもしれない。
 参拝を終えると、元来た道を引き返すのではなく天竜川の方へ降り、浜松へと向かう。今の天竜スーパー林道の方の道で、雲名橋へ降り、ここから船で下ったのではないかと思われる。

2025年11月14日金曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

 9月10日の夜は岡部宿に泊まり、翌11日は小夜の中山を越えて掛川へ向かう。

   小夜中山
 道役に紅葉はくなり小夜の山  其角

 道役は道路の管理人で、紅葉を掃いて街道をきれいに保つ。
 翌9月12日は掛川から東海道を離れて秋葉神社に向かう。「隨縁紀行」の方には森、三倉、四十八瀬、といった道筋が記されている。
 森は新東名の森掛川インターの方に森町がある。そこから北へ三倉川に沿ってゆくと今の森町三倉がある。県道58号線袋井春野線が昔の秋葉街道を踏襲するものであろう。
 途中に「隨縁紀行」には、

 袖すりや息杖できる松の蔦   松翁

の句があり、駕籠の乗って行ったのがわかる。
 息杖(いきづゑ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「息杖」の解説」に、

 「〘名〙 物をかつぐ者が持つ杖。かごかきなどが一息入れたり、荷物を支えるときなどに使用する。
  ※武家事記(1673)下「旗に用の器。請筒あり、手縄あり、息杖あり」

とある。芭蕉の旅は馬に乗ることが多かったが、其角さん御一行は駕籠に乗ることが多かったのだろう。其角はともかくとして、あとのメンバーはあまり旅に慣れてなかったのかもしれない。
 駕籠かきは袖に触れるじゃまっけな蔦を息杖で切りながら進んでゆく。
 おそらくこの日は下社の宿坊に泊まったのではないかと思う。参拝は翌日になる。

2025年11月13日木曜日

 
AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

   うつの山
 うらがれや馬も餅くふうつの山 其角

 9月10日の午後、其角ら一行は宇津の山を越える。蔦の細道とも呼ばれていた。
 名物の十団子は元禄に入ってからの米価高騰のせいで、通るたびに小さくなっているような状態で、許六が詠んだ、

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

の句もこの二年前の元禄5年のことだ。十個入りの団子が昔からの売りだから数は減らせないし、旅のついでに気軽に買える価格を維持したいというので、やむを得ず一粒を小さくすることになったのだろう。
 ウィキペディアに引用されている『日本史小百科「貨幣」』『近世後期における物価の動態』を基に作成した銀建による米価の変遷の図によれば、貞享の頃には一石40匁だったのが元禄の初め頃には100匁まで跳ね上がっている。
 元禄7年春の興行で『炭俵』にも収録された「むめがかに」の巻の四句目にも、

   家普請を春のてすきにとり付て
 上のたよりにあがる米の値   芭蕉

の句があった。
 餅は本来馬にやるべきものではないが、小さな十団子なら、あるいはあげたりしてたのかもしれない。西洋だと馬にご褒美として角砂糖を与えたりするようだが、それと同じで、峠を越えた馬のご褒美だったのではないかと思う。

2025年11月12日水曜日

AI俳画

 今日は小田原へざる菊を見に行った。


 それでは「甲戌紀行」の続き。

   原回頭
 朝霧や空飛ぶ夢を富士颪 其角

 「回頭」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「回頭」の解説」に、

 「① 頭をめぐらすこと。ふりむくこと。
  ※正法眼蔵(1231‐53)仏性「長老見処麽と道取すとも、自己なるべしと回頭すべからず」
  ② 船、飛行機などが進路を変えること。変針。転進。
  ※官報‐明治三七年(1904)六月二七日「我艦隊は一斎に右八点に回頭し」

とある。この場合は①の方で、原を過ぎて富士の方を振り向くという意味であろう。特に進路を変えた形跡はないし、おそらく②は近代に入ってからの意味であろう。
 沼津では富士山は愛鷹山に隠れてよく見えないが、原の辺りに来るとよく見えるようになる。その辺りで富士山の方を向いてということか。
 三島から原までは三里くらいで、暗いうちに三島を出たなら、朝霧が晴れる頃だ。
 朝霧の中ではどのみち手前の愛鷹山も見えないが、心の中では空を飛んで富士の姿を思い浮かべる。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の、

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉

の句を思い出させる。
 そして実際に原に着いて実際の富士山が見えると、ちょうど富士から吹き下ろす風も強く、空に放り出されたような気分だったのだろう。
 このあと富士川、清見が関では其角の句はなく、「甲戌紀行」には何も記されてない。
 その次の「しづはた」だが、前に書いた時には気付かなかったが、このしつはたは静岡の賤機山(しづはたやま)のことだ。
 東海道の道筋は賤機山の南端にある浅間神社の南の平野部を通り抜けるため、わざわざ賤機山の山路を通ったというわけではあるまい。おそらく、これから行く宇津の山の山路を前に、府中宿の紙子屋に「冬は」と問うたという意味だろう。
 紙子は風を遮るので冬の防寒具として優れているが、ぼろぼろになった紙子は乞食のイメージでもある。
 歌枕は掛詞として用いられることが多いため、一応一般名詞としての「しつはた」を見てみよう。
 「しつはた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「倭文機」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「しつはた」) 倭文を織る織機。また、それで織った織物。しず。
  ※書紀(720)武烈即位前・歌謡「大君の 御帯の之都波(シツハタ) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに」

とある。
 賤機山からシツハタの連想で、これから行く山路に冬の防寒対策を案じる。「冬はと問」はまだ冬は来てないがこれから来る冬を問うということだから、秋の季語になる。

2025年11月11日火曜日

AI俳画
 「甲戌紀行」の続き。

   三島旅中佳節
 門酒や馬屋のわきの菊を折る 其角

 「隨縁紀行」では前書きは「三嶋にて旅行の重陽を」だった。
 9月6日に旅立ち、通常の日程だとその日は戸塚まで行き、7日に小田原、8日に箱根を越えて三島に着き、9月9日の重陽の朝を迎えることになる。ここまでは順調だったということだ。ちなみにこの日芭蕉は奈良にいて、この日暗(くらがり)峠を越えて大阪に入る。
 出発時に宿屋の主人から重陽の菊酒を振舞われたのだろう。それもその場で菊を折ってというのが、なかなか粋だ。

2025年11月10日月曜日

 

 今日は掛川の西山桜の郷に藤袴を見に行った。赤と白の花があって、奇麗な蝶も飛んでいた。
 そのあと掛川花鳥園へも行った。

2025年11月9日日曜日

 Xの方でAI俳画を先に流しているが、ここでも其角の元禄十年の『俳諧錦繍緞』に収録されている「甲戌紀行」を見て行こうと思う。
 これは元禄七年秋の其角らの江戸から大阪への旅の句を並べたものとしては、同じ其角編の元禄7年の『句兄弟』に収録された「隨縁記行」と重複するものだが、「甲戌紀行」の方は其角の句のみを記し、簡略化されている。始まりも箱根からになっている。
 「隨縁記行」の方はこの俳話でも2022年11月29日から12月15日まで取り上げている。
 「隨縁紀行」には甲戌仲秋(元禄7年8月)の名月の句から始まっている。

 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 木母寺は今も墨田区にある天台宗の寺院で、東白髭公園の中にある。ウィキペディアによると、

 「この寺の寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。」

という。場所的にもちょうど古代東海道がこの辺りを通っていた。
 そして9月6日に其角は岩翁・亀翁・岩翁・尺草・横几とともに6人で上方方面へと旅立つ。
 首途の句、六郷の渡りの句に其角の句はない。其角の最初の句は箱根峠で始まるということで、ここから「甲戌紀行」は始まる。

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

の句は、ここでは、

   箱根峠
 杉の上に馬ぞ見え來るむら栬  其角

となる。櫨も栬も「もみぢ」と読む。
 2022年11月29日の時は、

 「山は紅葉しているが、街道の関所の辺りの平地は杉並木なので、杉並木を出て山を登って行く馬が紅葉の中を行くのが見える。」

としたが、箱根峠を登ってゆくうちに下界の杉並木から馬が登ってくる様子としてみてもいい。
 そのあとに、

 「秋の空尾上の杉をはなれたりといふ吟ここにもかなふべし。」

とある。

 秋の空尾上の杉にはなれたり  其角(炭俵)

の句を指す。

2025年9月7日日曜日

  『竹取物語』は純然たるフィクションとは言え、モチーフの一部の中には当時の人の関心ごととかが反映されてたりするのは、ラブ・クラフトの『インスマウスの影』が少なからず侵略の歴史の記憶がアレンジされてるのと似た様なものだろう。
 夢というのは外界の刺激が微妙に反映されるもので、弾丸の雨の降る中を逃げ回る夢を見て目が覚めたら雨が雨戸をバラバラ打ち付ける音がしていたとか、それに似ている。

 斬られたる夢はまことか蚤の跡 其角

のようなものだ。
 だから『竹取物語』は斬られた夢であっても、そこに蚤の跡を見いだすことはできる。
 そもそもかぐや姫の登場は西施のような中国が他国を弱体化させるのに美女を送るという漢籍によって知った事件が反映され、日本の朝廷の貴族たちもたちまちかぐや姫にメロメロになって政治のことも放ったらかして注文の品物の工面に精を出す。あたかも竹取の翁は中国の工作員で、かぐや姫を使って日本の弱体化を図ったかのようだ。
 そのかぐや姫も月へと帰って行く。そしてそのあと届くのが不老不死の仙薬だった。
 中国の高級官僚もまた、怪しげな不老不死の仙薬で却って命を縮める者が多かった。大抵はヒ素が用いられていて、運が良ければ臨死体験をして神仙郷が拝めたに違いない。それが日本に入ってくるというのは一大事だし、実際に奈良時代に入って来ていたと思われる。
 そんな記憶があるから、最後はその仙薬を富士山で燃やすことになる。それは永遠の命なんて欲しくないという日本人のいかにも日本人らしい宣言だった。それはイワナガヒメを捨ててコノハナサクヤヒメを選んだ日本の神話にも繋がる。
 美女に関しても、日本人は絶世の美女にそんなに高い関心を持っていない。美人よりも可愛い女を好むし、その可愛さも人それぞれのヘキに応じて多様化している。少なくとも日本ではミス日本のことがほとんど話題にはならない。その国のミスを知らないというのは世界でも珍しい部類に入ると思う。
 永遠の命と同様、絶世の美女など欲しくないというのもいかにも日本人らしいし、この二つがある限り日本は中国に負けることはないだろう。

 秋天の不二や仙薬要らぬ国

2025年9月6日土曜日

 中国人は古代から不老不死への並々ならぬ情熱を持っていた。
 秦の始皇帝は不老不死の仙薬を求め、その命で徐福に東方海上の三神山を目指し、一説には日本にたどり着いたという。
 唐の時代でも怪しげな仙薬が貴族の間に出回り、ヒ素で却って命を落とすものも多く、運よく臨死体験から生還した者は神仙卿の伝説を広めた。
 今もまたこの夢を追う者が、歴代皇帝のなしえなかった野望を臓器移植に託す。

 不老不死の夢黒塚の秋思哉

2025年7月17日木曜日

  それでは切字の続き。

 第四型

 時鳥暁傘を買せけり 其角

の句は構造としては、

 時鳥(主語)は暁に傘を買わせ(述語)けり(切れ字)

で時鳥が擬人化されている。
 季題が五文字の場合は述語を考えて断定すればいいだけだから、初心者でも作りやすい形なのかもしれない。
 もちろん「けり」の強い断定に囚われる必要はなく、末尾の切字は「かな」「けり」「べし」「ぬ」形容詞の「し」などに変えても構わない。
 元が上五の格助詞の省略された形なので、季語が四文字であれば普通にそこに格助詞を補えばいい。
 下五をより強調したい場合には、下五を倒置にして上五に持ってくることもできる。


 第五型

 かきつばた畳へ水はこぼれても 其角

の句は構造としては、

 かきつばた(主語)は畳へ水がこぼれても‥‥(述語・切れ字の省略)

の形になる。変則的な形なので、表面的には切れ字のない形になる。
 この句の場合は「こぼれても」のあとの文章の省略とも取れるが、たとえば「いいもんだ」というのを補った場合、

 杜若は畳へ水はこぼれてもいいもんだ

になるが、これは、

 畳へ水はこぼれても杜若はいいもんだ

の形にして杜若を前に持ってきたというふうに考えることもできる。つまり大廻しの一種と考えて良い。基本的には倒置した上での切字の省略で、切字だけでなくその上の述語まで省略することもありうると考えればいい。

 鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨

の句は「いわしぐも」の「いわし」を「言わじ」に掛けて「告ぐべきことならず」を導き出す体で、

 鰯雲なれば人に告ぐべきことならず

の「なれば」の省略になる。この句の場合は「ず」が終止言で切字の役割を果たしているし、倒置もないので大廻しではない。

 帰花それにもしかん莚切レ 其角

 この場合も、

 帰花なれば、それにも莚切れを敷かん

であり、「敷かん」という撥ねの言葉が切字になっている。倒置はあるが大廻しではない。

 蟇誰かものいへ声かぎり 楸邨

 これも「なれば」の省略。

 ヒキガエルなれば声限り誰か物言え

の倒置で、「いへ」という命令形が終止言になり切字になる。大廻しではない。

2025年7月15日火曜日

  それでは切字の続き。

10,五つの型との関係

 第一型

 名月や畳みのうへに松の影 其角

の句は構造としては、

 明月の夜には畳の上に松の影(主語)が生じる(述語)や(切れ字)

の述語が省略した形となる。
 第一型は、
 1,頭から順番に言い下す文章に、本来末尾に来る治定の「や」だけが倒置になって、上五の下に持ってくる場合。
 2.下五全体を倒置にして上五に持ってくる場合。
 3.上五を「や」で一旦切ってから、下五に別の文章を続ける場合
の三つがある。
 1の場合は「や」を他の格助詞(「は」「に」「を」など)に置き換えても意味が通じる。

 名月や畳みのうへに松の影 其角
(名月は畳のうへに松の影を落とすや)
 
 2は上五を下五に持っていくと意味が通る。

 明行や二十七夜も三日の月 芭蕉
 (二十七夜も三日の月に明行や)

 3は「や」を他の格助詞に置き換えることもできず、かといって倒置で下五を末尾に持って行ってもつながらない。

 菜の花や月は東に日は西に 蕪村
 

 第二型
 
 越後屋に衣さく音や更衣 其角

の句は構造としては、「衣更えで越後屋に衣さく音(の響く)や」の倒置になる。
 「や」に限らず中七が終止言で切れる場合は、ほとんどの場合が下五を頭に持って来れば意味が通じることが多い。
 そのため、この第二型は「や」を「けり」「なり」「たり」「し」などに変えることができる。

 葛の葉の面見せけり今朝の霜 芭蕉
 (今朝の霜に葛の葉の面見せけり)
 撞鐘もひびくやうなり蝉の声 芭蕉
 (蝉の声に撞く鐘もひびくようなり)
 誰やらが形に似たりけさの春 芭蕉
 (今朝の春は誰やらが形に似たり)
 五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
 (最上川は五月雨を集めて早し)

 ただ、この倒置は必ずしも上五に来ない場合もある。

 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規

の場合は「柿食えば法隆寺の鐘が鳴るなり」の倒置になる。


 第三型

 かまきりの尋常に死ぬ枯野かな 其角

の句は構造としては、

 枯野でかまきりは(主語)尋常に死ぬ(述語)かな(切れ字)

の倒置された形となる。この場合はゼロ型と言っても良い。
 「かな」は末尾に来ることがほとんどであるため、ゼロ型と変わらないが、主語や述語が省略される場合もある。

 春たちてまだ九日の野山かな  芭蕉

は「野山は春立てまだ九日(なる)かな」で述語が省略されている。

 なにの木の花ともしらずにほひかな 芭蕉

は匂いを放つ主語(おそらく伊勢神宮を指す)が省略されている。

2025年7月14日月曜日

  切字の続き。

 土芳の『三冊子』「くろさうし」には、

 「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

とある。

6,「たり」「なり」「べし」などの終止言

 基本的には「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。

7.「し」

 これは文語形容詞の語尾の「し」で、過去の「し」は切れ字にはならない。口語形容詞の「い」は連用形が同型でであるため、明確に終止形だとわかる場合以外は切れ字として機能しない。
 これも「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。
 倒置で上五に持ってくることもできるが、その場合は「おもしろし→おもしろや」のように「や」を使うことが多い。
 また倒置で形容詞を上五に持ってきた時に、語尾の「し」を省略する場合があり、この場合は「三体発句」と呼ばれる。

 あなたふと青葉若葉の日の光 芭蕉

の句はよく知られている。
 日本語の形容詞は口語では語尾が省略されることが多い。現代語でも「こわい→こわっ」「はやい→はやっ」「きもい→きもっ」という例は枚挙にいとまがないが、こうした省略は平安時代の『源氏物語』にも見られる。

8,疑問反語の言葉

 終止言ではないが「何」「いつ」「いづこ」などの疑問の言葉は通常の文では末尾にも疑問の「や」を補い、「何を言わんや」「いつ来るや」「いづこより来たらんや」の様に用いるが、この「や」を省略しても完結した文章として成立する。そのため切れ字とされてきた。

 何に此師走の市にゆくからす 芭蕉

は「何(ゆえ)にからすはこの師走の市に行く(や)」の倒置で、疑問の切字の「や」が省略されたものと考えて良い。

 いづくしぐれ傘を手にさげて帰る僧 芭蕉

の場合は「いづく時雨(や)、傘を手にさげて帰る僧」の切字の「や」の省略と考えて良い。

9,大廻し

 中世連歌の時代から切字なくても句が切れる例として「三体発句」と「大廻し」が挙げられてきた。三体発句の方は形容詞語尾で切字になる「し」の省略で説明がつく。
 また、「三体発句」「大廻し」の用語は口伝で伝わっていくうちに途中で変化していることもあり、芭蕉の師匠でもある季吟の『季吟法印俳諧秘』では、

   「第十二 大まはし発句事
 あなたうと春日のみがく玉津嶋 古句
 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣
 右三通の発句、甚深の相伝有事也。其道の堪能ならずしては、仕立やう知とも無益の事也。俳踰の罪のがるるに所なけれ共、とてももの事に愚句一句書付侍し。」(俳諧秘)

とあり、季吟には正確な伝授がなかったと思われる。
 また「或人之説 連俳十三ケ條」に、

  「大廻し之句とて、
 五月は峰の松風谷の水
 右大廻し共、三段共、三明の切字共云也。やの字をくはへてきひて書也。十八てにをはの格也。
 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん
 右の格也。上五文字にて、し、やと疑ひ、扨はねるにてにをはなり。」(俳諧秘)

とある。
 この句の場合は「五月は」では字足らずで書き間違えがあったのか。ここが五文字だとして、「五月や」でも意味が通じるから、「やの字をくはへてきひて書也」ということなのであろう。「や」を使うべき所を「は」としても切れるということなのだろうか。
 このあとに「や‥‥らん」の例を挙げているように、

 五月や峰の松風谷の水なるらん

の「なるらん」の省略と思われ、「や」と切るべき所を「は」とした句と思われる。

 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣

の場合は、「犬桜を見るにつけても、そのような小さな花すらさかぬ身は泣くばかり」という句で、「泣くばかり」のあと本来来るべき「なり」の省略と見て良いだろう。
 大廻しは基本的には終止言の省略と見て良いのではないかと思う。また、「大廻し」という名称は倒置の際に終止言が省略されるという意味合いがあったのではないかと思う。
 切字のない句の例としては、誰もが知る、

 目には青葉山時鳥初鰹 素堂

の句がある。これも、青葉、時鳥、初鰹すべてそれぞれ述語が省略されているが。「目に青葉」ではなくあえて字余りでも「目には青葉」とした所に、この「は」に「や」と同等の意味を持たせようとしたのではないかと思う。
 中世連歌でも梵灯の『長短抄』では、

 山はただ岩木のしづく春の雨

は大廻しで、

 あなたうと春日の磨く玉津島

は三体発句になる。
 「山はただ」の句は、「春の雨に山はただ岩木のしづく(なり)」の倒置による終止言の省略なので、おおかた大廻しは「倒置の際の終止言の省略」で合っていると思う。

2025年7月13日日曜日

 4,「かな」という切れ字

 「かな」は治定の切れ字になる。疑問を持ちつつも主観的にそれを肯定する働きを持ち、強い主観的な肯定は詠嘆にもつながる。主観性が強いという意味では「けり」や「たり」とは異なる。
 今日の標準語では「かな」は疑問には用いられるが、語尾を下げて「かなあ」としてもやはり疑問の言葉にしかならない。「かな」を治定に用いる用法は関西方言の「がな」にその名残を留めている。
 下七の末尾に用いられるのがほとんどだが、希に倒置で用いられることもある。

 乞食かな天地を着たる夏衣 其角

は「乞食は天地を夏衣に着たるかな」の倒置で、これが「乞食は天地を着たる夏衣かな」になり、例外的に係助詞のように「乞食かな天地を着たる夏衣」になる。特殊な例と言えよう。上五を「こつじきや」にすると、この「かな」の働きが係助詞的なものだというのがわかる。
 付句では、『大坂独吟集』第五百韻、鶴永独吟百韻「軽口に」の巻に

    大師講けふ九重を過越て
 匂ひけるかな真木のお違

の用例がある。「真木のお違(棚)の匂ひけるかな」の倒置で、この場合は上の言葉ごと倒置になっている。
 「かな」は治定の言葉という点では「や」に似ているので、推敲などの際には「や」と「かな」は変換して考えることができる。

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
 古池に蛙飛び込み水音かな

 木の下に汁も鱠も桜かな 芭蕉
 木の下や汁も鱠も散る桜

もちろん、可能というだけのことで、句を案じている時にうまくまとまらない時にはこういう操作をしてみると良いかもしれない。

5,「けり」

 「けり」は主観性が弱く客観性が強く、単に過去というよりも完了に近く、もはや取り返しのつかないというニュアンスを持っている。
 
 道の辺の木槿は馬に食はれけり 芭蕉

はそのニュアンスを生かし切っている。
 それゆえに使うのが難しく、芭蕉はあまり「けり」の字を好まず、用例も少ない。逆に近代の写生説の時代には多用された。

2025年7月7日月曜日

  おとといの切れ字の話の続き。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

 かなしまむや墨子芹焼を見ても猶 芭蕉

の場合は「墨子芹焼を見ても猶かなしまむや」の倒置であることがすぐわかる。「や」だけでなくその上の文まで倒置にする例は、特に中七に「や」を持ってくる句に多い。

 世の人の見付ぬ花や軒の栗 芭蕉
 (軒の栗は世の人の見付ぬ花や)
 ともかくもならでや雪のかれお花 芭蕉
 (ともかくも雪の枯れ尾花にはならでや)

 こういう倒置は他の切れ字でも頻繁に行われる。


3,「か」という切れ字

 「か」は「かな」に適うという。

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮
 木枯らしに浅間の煙吹き散るか 虚子

は「吹き散るかな」と切るべき所を字数の関係で「か」で止めている。

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音 芭蕉

 この句も山吹が散っていることに疑問を呈するのではなく、滝の音とともに山吹も散っているかのようだと、主観的に治定する「か」で字余りを気にしないなら、

 ほろほろと山吹散るかな滝の音

としても良いところだ。

 草枕犬も時雨るかよるのこゑ 芭蕉

 同じ治定の言葉に「や」もあるから、「時雨るや」でも良さそうな感じがするが、「か」の方が疑問の用法で多用されるために、疑問の強い治定、主観性を強調したい治定の場合は「か」を用いているように思える。
 稀だが、「かや」というのも用いられる。

 一里はみな花守の子孫かや 芭蕉

 これは花守の子孫だという伝承に対して、本当かどうかわからないがこの土地に敬意を評して信じておくべきだ、みたいなニュアンスが感じられる。この場合の「かや」も「かな」よりも疑いの強い治定と見て良いだろう。治定するにしても、まさかそんなことがあるのかみたいな驚きを伴う時には「かな」では弱い。
 「か」はもちろん疑問にも用いられる。

 切られたる夢はまことか蚤のあと 其角

 夢は外界の影響を受けるというのはよく言われる。戦地で弾丸の中を逃げ惑う夢を見て目が覚めたら、大粒の雨がトタン屋根をバラバラ打ち付けていた、なんて話も聞く。
 この句の場合切られた夢を見てはっと目を覚まし、切られた箇所を確認すると、そこに蚤に喰われた跡があって、「本当だったか」というわけだが、勿論ここは「本当だった」と治定するわけではない。夢は夢、幻は幻だ。
 この句の場合も「夢はまことや」としてしまうと、蚤の跡を見つけた時の驚きが伝わってこない。

 「か」は「や」と同様係助詞でも用いられるが、「や」のような助詞だけでの自在な倒置は行われない。上にくる言葉ごと倒置するのが常だ。少なくとも、

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮

の句で、

 木枯らしか二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日か月の吹き散る
 木枯らしに二日の月か吹き散る

という操作はできない。「や」であれば、

 木枯らしや二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日や月の吹き散る
 木枯らしに二日の月や吹き散る

という操作は可能だ。

2025年7月5日土曜日

  昨日の切れ字の続き。

 1,切れ字の種類

 切れ字については昔は口伝で伝えていたため、連歌論書でもあまり詳しい記述はなく、切れ字の種類を列挙した者も少ない。その少ない中に、以下のものがある。

 康応二年(1390年)の梵灯『長短抄』には以下の切れ字が挙げられている。

 「かな けり ぞ か べし や ぬ む(撥ね字)、成敗の字、す よ は けれ」

 延宝六年(1678年)の立圃編『増補はなひ草』には、

 「哉・けり・たり・めり・や・ぞ・し・じ・き・ぬ・:つ・む・か。なぞ・いさ・なに・いづく・いづこ・いづれ・いかで・など・いく・さぞ・こそ・たれ・を・もなし・もがな・はなし・下知(いでよ・何せ・まて・ふけ・みよ・こほれ・ちらせ・かすめ・め。月ニなけ・ふくな)」

などが挙げられている。疑問や命令の言葉が多く付け加えられている。
 切れ字が口伝になっていたのも、一つには文法的な用法の多様性で、一律に説明しにくい所があったからだと思われる。
 命令を示す動詞語尾はいまならeの語尾で説明できるが、当時としては「ふけ・こほれ・ちらせ・かすめ」など列挙する必要があった。これは切れ字が文法的にではなく「字」として説明されていたための煩雑さといえよう。

 基本的に切れ字は、

 終止言 助詞
     助動詞
     形容詞
     形容動詞
     動詞

 命令形 助詞
     助動詞
     動詞

 疑問符

に分けられると思う。
 終止言と命令形は大体それが述語となるが、命令形の場合は述語の省略が頻繁に起きることに注視する必要がある。口語でも、「あの人は今どこに」という場合は「いるの?」あるいは「いった?という述語が省略される。
 一番ややこしいのは終止言と疑問符の両方の役割を持つ「や」「か」で、治定や詠嘆を表す終止言として機能する時でも述語が頻繁に省略される。しかも「や」は切れ字の代表とでもいうくらい使用頻度が高い。

 なお、宗因の『俳諧無言抄』


2,「や」という切れ字

 「や」は「かな」と並んで切れ字の代表格で、「や」「かな」が多用されるのは治定という曖昧な断定が、特に主観的な感想を表すのに適していたからだと思われる。近代写生説の句のように客観的な描写が求められる際には「けり」が多用されるようになったが、芭蕉の時代ではむしろ多様を避けるように言われていた。
 古今集「仮名序」に「やまと歌は人の心を種として」とあるように、本来日本の言の葉の道は物を描写するのではなく心を述べるものだったことを考えれば、「けり」よりも主観的な「や」「かな」が用いられるのはもっともなことだった。
 『万葉集』は写生ではないかという人もいるかもしれないが、それは明治の正岡子規以降の説にすぎない。
 「や」は本来は疑問・反語の言葉だったが、語尾を上げずにむしろ下げて発音すると疑問の意味ではなく、何となく疑問を投げかけながらも肯定する微妙なニュアンスが生じる。これを昔の人は「治定」と言った。
 現代語の「か」という疑問の言葉も、「これでいいのか?」と語尾を上げれば問いかけになるが、「これでいいのかあ」と語尾を下げると、疑問がありつつも自分自身を納得させるようなニュアンスになる。ちなみに、語尾を強く「これでいいのかっ!」というと「いいわけない」という反語になる。語尾のニュアンスで意味は変わる。
 「や」も同じような働きがあった。治定の「や」は今日でも関西方言には残っている。「これでいいんやあ」というと、関東の「これでいいのかあ」と似た様なニュアンスになる。
 切れ字の「や」元は「疑問」か「治定」の意味で用いられていた。「反語」になることは滅多になう。
 芭蕉の時代が一つの境になり、芭蕉の句はほとんどこのどちらかの用法だが、それ以降今日の関西方言の「や」に近い「せや、その通りや」みたいな断定のニュアンスが強くなり、力強い主観的な治定となることが多くなる。これを詠嘆の「や」という。
 名詞に「や」が付く場合は芭蕉の時代は疑問か治定だったが、芭蕉の時代でも形容詞に「や」が付く場合は、たとえば、

 おもしろや理屈はなしに花の雲 越人

のような「や」は詠嘆と言って良い。

 今日では「や」はほとんど語尾にしか用いないが、かつては係助詞として倒置して文中で用いられることも多かった。
 係助詞は倒置によって語尾の助詞を前に持って来て強調する語法で、

 「月やあらぬ」は「月はあらぬや」の倒置
 「何をか言わん」は「何を言わんか」の倒置
 「鹿ぞ鳴くなる」は「鹿の鳴くなるぞ」の倒置
 「人こそ見えね」は「人の見えねばこそ」の倒置

 係助詞の「や」は中世の連歌の時代には「や‥‥らん」の形で付句に多用された。

   船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏(水無瀬三吟)

   まだ残る日のうち霞むかげ
 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長(水無瀬三吟)

   さ夜ふけけりな袖の秋かぜ
 露さむし月も光やかはるらん    宗長(湯山三吟)

   和歌の浦や磯がくれつつまよふ身に
 みちくるしほや人したふらん    肖柏(湯山三吟)

などの多くの用例がある。いずれも「らんや」の倒置になる。
 このような倒置を行うと、「や」の前にくる言葉が強調される。「月や‥‥残るらん」「暮れぬとや‥‥帰るらん」「光やかはるらん」「しほや‥‥したふらん」が一句の軸となる。
 「らんや」となれば、その用法は治定ではなく疑問か反語になる。そのため「や‥‥らん」も基本的には疑問か反語で事情や詠嘆にはならない。

 発句の切れ字として用いられる「や」は、このような係助詞な、強調したい言葉の前に自在に移動できるという利点をもちつつ、意味としては治定で用いられることが多くなる。
 そのため切れ字の「や」は必ずしもそこで断定して文章を終わらせているわけではない。

 芭蕉の句の中には本によって形の違う句が少なくない。それが推敲の過程にあるものであれ、編者の記憶違いによるものであれ、その中には「や」が他の助詞に置き換えられているものがかなりの数にのぼる。
 それはおそらく、こうした置き換えが作品の意味を根本的に変えるものではなかったからであろう。ここに岩波文庫の『芭蕉俳句集』から抜き出してみた。

1、「は」と「や」の入れ替わっているもの

 俤や姨ひとり泣月の友   『更級紀行』
 俤は姥ひとりなく月の友『芭蕉庵小文庫』

 曙はまだむらさきにほととぎす (真蹟)
 あけぼのやまだ朔日にほととぎす『芭蕉句選拾遺』

 大津絵の筆のはじめは何仏  『勧進牒』
 大津絵の筆のはじめや何仏  『蓮実』

 名月はふたつ有ても瀬田の月 『泊船集』
 名月やふたつ有ても瀬田の月『蕉翁句選』

 降ずとも竹植る日は蓑と笠  『笈日記』
 降ずとも竹植る日や蓑と笠 『こがらし』

2、「の」と「や」の入れ替わっているもの

 さびしさの岩にしみ込む蝉のこゑ 『こがらし』
 淋しさや岩にしみ込むせみの声 『初蝉』

 中山の越路も月は又いのち 『芭蕉翁句解参考』
 中山や越路も月は又いのち 『荊口句帳』

 文月の六日も常の夜には似ず 『泊船集』
 文月や六日も常の夜には似ず『奥の細道』

 国々の八景更に気比の月  『荊口句帳』
 国々や八景更に気比の月 『芭蕉翁句解参考』

 さみだれの雲吹おとせ大井川 『笈日記』
 五月雨や雲吹落す大井川『芭蕉翁行状記』

 名月の花かと見へて棉畠   『続猿蓑』
 名月や花かと見へて綿ばたけ 『有磯海』

 松風の軒をめぐって秋くれぬ 『泊船集』
 松風や軒をめぐって秋暮ぬ  『笈日記』

 白菊の目にたてて見る塵もなし『笈日記』
 しら菊や目にたてて見る塵もなし 『矢矧堤』

3、「に」と「や」の入れ替わっているもの

 須磨寺に吹ぬ笛きく木下やみ『続有磯海』
 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 『笈の小文』

 柚花にむかし忍ばん料理の間『蕉翁句集』
 柚花や昔しのばん料理の間 『嵯峨日記』

 草の戸に日暮れてくれし菊の酒 『きさらぎ』
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒『笈日記』

 夕顔に酔て顔出す窓の穴  (芭蕉書簡)
 夕顔や酔てかほ出す窓の穴  『続猿蓑』

4、「を」と「や」の入れ替わっているもの

 その玉を羽黒にかへせ法の月 『泊船集』
 其玉や羽黒にかへす法の月 (真蹟懐紙)

 あさむつを月見の旅の明離 『荊口句帳』
 あさむつや月見の旅の明ばなれ 『其袋』

 行春を近江の人とをしみける  『猿蓑』
 行春やあふみの人とをしみける (真蹟懐紙)

 この道を行人なしに秋の暮 (芭蕉書簡)
 此道や行人なしに秋の暮    『其便』

5、「と」と「や」の入れ替わっているもの

 川上とこの川下と月の友   『泊船集』
 川上とこの川しもや月の友  『続猿蓑』

 このような「や」は決して「や」でもって終止しているのではないし、切れ字「や」は本来倒置として自由に移動できるものとして認識されてたと言って良い。

 たとえばあの有名な、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

の句にしても、「や」の位置をずらしても意味が大きく変わることはない。ただ句の中のどこが強調されるかが変わるにすぎない。

 古るや池蛙飛び込む水の音
 古池や蛙飛び込む水の音
 古池に蛙や飛び込む水の音
 古池に蛙飛び込むや水の音
 古池に蛙飛び込む水や音
 古池に蛙飛び込む水の音や

 この六通りは可能になる。
 実際、「や」という切れ字は上五の中、末尾、中七の中、末尾、下五の中、末尾の六か所に自在に置くことができる。

 実にや月間口千金の通り町     芭蕉
 (実に月は間口千金の通り町や)
 木枯やたけにかくれてしづまりぬ  芭蕉
 (木枯はたけにかくれてしづまりぬや)
 琵琶行の夜や三味線の音霰     芭蕉
 (琵琶行の夜は三味線の音霰や)
 京まではまだ半空や雪の雲     芭蕉
 (京まではまだ半空の雪の雲や)
 櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ 芭蕉
 (櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜はなみだや)
 夏の月御油より出て赤坂や     芭蕉
 (夏の月は御油より出て赤坂や)

 「実にや月」は「実に月や」にもできるし、「実に月の間口や」「実に月の間口は千金や」ともできる。ただ、それは可能というだけで、どこを強調するのがベストかという所で、芭蕉は「実にや月」を選んだと言って良い。

 「や」の用法は、このように末尾に持って来てもいい「や」を強調したい場所に自在に移動させて用いることができる。
 初心の内はついつい末尾に「や」を持って来がちになるが、この移動を覚えておくと良い。

 ゼロの型、主語+述語+切れ字の形で句が出来たなら、末尾の切れ字を倒置によって上五や中七に持ってくることもできる。だが、助詞だけの倒置が可能なのは「や」だけだと思っておいてかまわない。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

2025年7月4日金曜日

  久しぶりに何か書こうということで、切れ字の話でも。

 俳句の前身となる連歌や俳諧の発句は、575の短い文章を、先に何かが続くような感じのしない、一句だけで言い切るように響くようにするにはどうすればいいか、古人が様々な工夫をするうちに、この言葉を使うと一句として切りやすいといういくつかのものを見つけ出してきた。
 それが「切れ字」と呼ばれるものとなった。
 たとえば、

 古池に蛙飛び込む水の音

だと、古池に飛び込んだ水の音が一体何なのか、それからどうなったのか、後ろに何か続くような感じが残る。これを、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

とすると、一句として完結したような印象を受ける。
 これがなぜなのか、様々な切れ字の用例の説明を加えながら、切れ字というのがなぜ「切る」働きをするか、見て行くことにする。

 初めに少し大雑把なことを言うなら、俳句の575が一つの文章として完結するには、

 主語+述語+終止言

の形が望ましい。
 実際には主語の省略や述語の省略、終止言も省略も頻繁に起きるが、基本的にはこの形が一句として完結した印象を与える。
 例として挙げるなら、

 道の辺の木槿(主語)は馬に喰はれ(述語)けり(終止言) 芭蕉
 海暮れて鴨の声(主語)ほのかに白し(述語・終止言)  芭蕉
 春の海(主語)ひねもすのたりのたり(述語)哉(終止言) 蕪村
 鶏頭(主語)の十四五本もありぬ(述語)べし(終止言)  子規

など、これらは主語・述語・終止言が省略されずに一句になっている。
 この場合の終止言「けり」「し(文語形容詞の語尾)」「哉」「べし」はいずれも古来切れ字とされている。そのため、

 主語+述語+切れ字

と言い換えてもいい。これが本来俳句の一番基本的な型であり、二上貴夫先生の俳句の五型を語るうえでも、その基本となる型であるため、私はこれを「ゼロの型」あるいは「第ゼロ型」と呼ぶ。

2025年4月17日木曜日


 「秦野たばこ祭」俳句大会、今年も開催。

 またしばらく間が空いてしまった。桜は咲いては散って行き、あっという間に春は過ぎて行く。
 まだ千村には八重桜が咲いていて、春の名残を惜しんでいる。

2025年3月31日月曜日

 
 今日は蓑毛の淡墨桜を見に行った。

 それでは前回の風流ならざる話の続きを。

 実践理性の起源が出る杭は打たれる式の平等を一つの方向性として持っているため、基本的には平等社会の実現とそれに伴う抑制が基礎となる。
抑制には人より多く欲望を満たしてはいけないという禁欲、能力を誇示してはいけないという謙遜、能力を自分の為に用いず必ず集団の為に用いるという献身、これらに反する行為に対する羞恥などがある。
 禁欲はほぼありとあらゆる宗教や思想において共通して求められるが、これは単に平等を実現するためだけではなく、現実的に常に人類の歴史において慢性的な食糧不足が生じてたことも要因になっていた。
 食欲は無制限な大食によって食料を欠乏させ、あるいは美食、特に肉食は穀物を直接食べずに家畜のえさにすることで、効率を悪くする。性欲はパートナーを廻る争いを生むだけでなく、人口の増加が食料の欠乏をよりひどいものとする。睡眠欲はそれに比べると実害は少ない。
 禁欲は一方では出る杭は打たれる式の相互抑制でありながら、一方では有限な大地に無限の生命は存在できないという単純な人口論的な問題との両面を持っている。
 いわば、大地は定員が限られている。これは今まで繰り返し言ってきたことだ。有限な生産に対し、誰かがより多くとれば、その分誰かが少なくなる。出る杭は打たれる式の平等主義はその争いの解決になるため、いわゆる冷たい社会では頑なに維持されてきた。
 ただ平等ではあっても絶対的な食糧不足を解消することはできない。ゆえに冷たい社会は完全な平等主義を実現しながらも、常に飢餓すれすれの最低限な生産力から脱却することができなかった。
 熱い社会は生産性を高める手段をもたらすものに対して不平等を容認することで、社会全体の定員を底上げした。この底上げで一番重要なのは、飢餓で死ぬ子供の数を減らせることで、これは人情にかなってるし、より多くの子孫を残すという遺伝子の要求にも適っている。
しかし、それによってもたらされるのは、結局生産性の向上分が瞬く間に人口増加で食いつぶされてしまうということだ。
 生産性の向上は一方では不平等をもたらすが、一方ではその向上分農業以外の生産活動のための人員を養えるようになるため、増加した人口はそこに吸収され都市を形成し、文明を生み出し、それが生産性のさらなる向上への好循環を生み出す。
 そして、ひとたびこの方向に歩み出すと、逆戻りはできない。古い生産性の低いやり方に逆戻りすれば、増加した人口の分が飢えることになる。社会主義が失敗する原因はそこにある。自然に帰れというのは一見牧歌的でノスタルジックだが、それまでの生産性の向上によって増えた人口元に戻さなくてはならなくなる。飢餓と粛清がその答えだ。
 生産性の向上のために不平等を容認することをひとたび選択すると、元の狩猟採集民の完全平等社会に戻すことはできない。戻そうとすれば、飢餓と粛清、採取的には虐殺ということになる。
 近代的な農法で今の80億の世界の人口を養うことはできない。たとえ10億人程度にま減らそうという場合でも、70億人をどうするかが問題になる。オウム真理教の見い出したハルマゲドンいうのは、その意味では合理的だ。日本のトップクラスの頭脳を持つ人達を魅了するだけの理由はある。
 こうした帰結は憎しみによるものではなく、合理的な理由によって導かれる。それは実践理性のバグに他ならない。
 平等性の観念は二重の意味でバグる。
 一つはそれが理念である限り、無制限に拡張されれば恐ろしい結果を生む。
たとえば生きていること自体が死んだ者に対して平等ではない。真の平等とはすべてが死に絶えることに他ならない。
 生まれてすぐ死ぬ人がいるのに、のうのうと生きているのは平等ではない。これだとまだ荒唐無稽かもしれないが、命を捨てて国を守った人がいるのに、戦争が終わってのうのうと生きながらえているのは申し訳ない、という感情は戦争が終わった時多くの人に会ったと思う。生きていること自体が既に平等でないなら、究極の平等はみんな死ぬことでしかない。
 また、生きている限りそこには生存競争があり、それに勝つためには人を傷つけなくてはならない。誰も傷つかないような社会を作るというのであれば、それは誰も生きようとしてはいけない社会ということになる。
 そして一方で現実的に考えた場合、平等性は先も言ったように既に不平等の容認によって生産性が高められ、かつてない多くの人口を養えるようになった世界を、低い生産性で養える程度の人口に減らす必要が出て来る。その論理的帰結はハルマゲドンだ。
 社会主義と虐殺は切っても切れない関係にある。誰を殺すかは明白だ。それは革命に従わぬ者だ。

 実際の所、こうした理性のバグに対抗するには理性に対して理性に対抗しようとしても無力だ。なぜなら自分の主張を一歩も譲らなければ最終的にアンチノミーということで引き分けに持ち込むことができるからだ。
 社会主義者や人権派はこのことをよくわかっている。議論は形だけでいい。平行線なら論戦は引き分け、あとは権力を持ってる方が勝つ。別の言い方をすれば合法的に暴力をふるえる方が勝つ。その合法性は誰が決めるのか、それは権力だ。
 彼らに唯一の弱点があるとすれば、それは感情的な爆発だ。つまりヘイトだ。ヘイトは理性も何もなしに有無を言わせず力をふるうことができる。議論で引き分けに持ち込んでも、ヘイトは卓袱台返しができる。
 これは社会主義者や人権派も常套としている手段だ。彼らは隙あらば暴力をふるう。ただそれを理論で合理化し、その理論の正しさは証明できなくても、論敵に対してはアンチノミーを主張し、その暴力を政府やマスコミや司法を動かして合法化できれば彼らの勝ちとなる。
 彼らがなぜヘイトという言葉を多用して論敵を牽制するか、理由は簡単だ。それが唯一の弱点だからだ。
 一つの喩えとして、溺れている子のどちらを優先して助けるかを考えてみればいい。
 自分の子と見ず知らずの外国人の子供が溺れている。どっちを先に助けるべきか。
 正常な感情の持ち主なら自分の子を助けるに決まっている。でも第三者が言う。外国人の子を後回しにするのは差別でありヘイトではないか、と。どちらもかけがえのない命であり、生きる権利は平等にある。外国人だから後回しにするのか、と。
 こういう意見に対して、ブチ切れることができる人だけが自分の子供を守ることができる。それが愛というものだ。

2025年3月29日土曜日

 まただいぶご無沙汰した。
 あれから3月13日に蓑毛の玉縄桜を見に行き、15日には江ノ島吟行会に行った。

 言の葉も潮の花も今日の春
 にび空や猫は石段龍は天

 17日と21日は南足柄の春めき桜を見に行き、22日には戸川公園を散歩した。
 23日の句会の句。

 朝寝してふと思う今はいない人
 雲白く流れて果ては夕霞み
 嬌柳命のシャワー降りそそぐ

 25日には蓑毛の奥のミツマタ群生地を見に行き、翌26日には石庄庵の春めき桜を見に行った。既に散り始めていた。

 駆け足や春めき桜散るもまた
 野仏やからす名義の豆の花

 28日はまた句会で、

 嘘つきなニュースを余所に朝寝かな
 旅疲れ車窓は富士の夕霞み
 野ムスカリ田園の憂いもあるや

 そして今日は雨で一休み。

 今日は実践理性のバグの問題を考えてみようと思う。

 実践理性の起源を考える前に、まず理論理性の起源を考える必要があるが、理論理性は基本的には道具性・有用性の観点からある行為をすればならずある結果が得られる云う因果律が根底にある。
 ああすればああなる。こうすればこうなる。それが積み重なれば原因結果が一つの直線状に並ぶことになる。ここに過去から未来への時間軸が形成される。この時間軸は時間そのものではなく、時間の空間家であり直線化される。この一次元の時間軸は本来の宇宙の何次元か今のところ不明な時空から直線の時間だけを切り取ったもので、この直線時間軸に対して残ったものは三次元空間として表示される。
 三次元空間は自分の位置を中心とした一つの座標で、上下・左右・前後を基本とし、自らの行動をシミュレートする。これは宇宙の時空そのものではなく、行動する際に便宜的に切り取られた空間にすぎない。
 時間もまたこうした三次元空間に対して、まだないもの・もうないものを付け加えることで「変化」という直線を描き出し、そこに「どうすればどうなるか」という因果率を付け加えることで、行動をシミュレーションする。これが物理的時間ではない人間的時間を作り出す。人間的時間とは言え、それが進化の産物である限り、動物も基本的に同じ三次元空間+時間という世界表象をしていると推定できる。
 この時間空間認識は進化によって獲得された生得的なもので、実際の複雑な時空を簡略化することで、天文学的距離や量子レベルの認識を必要としない限りにおいて、生きる上で支障をきたすことはない。
 そのため長いことこの生得的な時間空間の概念は不動のものとされ、特に西洋においては神の理性と同一視されてきた。それが揺らいだのは、天文学的レベルでの物体の位置を測定する際に微妙な誤差が生じることが次第に明らかになり、その誤差を最終的に説明する理論として相対性理論が作られるのを待たなくてはならなかった。
 同時に量子レベルの科学の発達によって、従来の生得的空概念では説明できないばかりか、因果律を混乱させるような事象が観測されるようになり、量子力学が誕生した。
 相対性理論や量子力学はあくまで生得的な時空概念の補足にすぎないため、どちらも基本的には便宜的な仮説のレベルにとどまる。そのため相対性理論と量子力学の統一は未だに困難を極めている。未だに宇宙の時空そのものは解明されていない。それに対する便宜的な道具としてこの2つの理論、さらには熱力学理論という独立した三つの理論が併存している。
 理性は神ではなく、あくまで生得的な時間空間認識を基礎としている生物学的な事象にすぎない。つまり理性もまた肉体である。肉体を超越した理性などというものは存在しない。それは理論理性においても実践理性においても同じで、理性は神ではなく、あくまで進化の産物にすぎない。
 カントが明らかにしたのは、理性が神であることは証明できないが、実践の立場から要請することの出来る、それもあくまで可能性にすぎないということだった。この「汝為し得る」がハイデッガーによって「可能性の静かな力」と言い換えられたにせよ、ただ信仰に支えられた危ういものにすぎなかった。
 信仰は基本的には独断であり、信仰を目標とすることは独裁政治を意味する。それはイスラム原理主義であろうがキリスト教原理主義であろうが、あるいはオウム真理教のような仏教原理主義であろうが、危険なものに違いはない。共産主義やいわゆる「人権派」の思想にしても、基本的には同様の独断論であり、必ず民主主義を否定して独裁体制を作ろうとする。これはプラトン以来繰り返されていることだ。
 ナチズムやスターリズムの失敗で懲りることもなく、西洋理性は同じ過ちを繰り返し続けるし、イスラム原理主義もある意味で本来のイスラム社会から発生したというよりは、共産主義化したイスラム教といった方がいい。理性への信仰が根底にある。

 信仰の危険は基本的にはその任意性にある。別の言葉で言えばそれは「自由」ということだが、自由(free)には「空っぽ」という意味もある。根拠のない空っぽなものである限り、どうとでも作れるもので、それこそ無数に対立する信仰を生み出すことが可能であるとともに、その対立を理性自身が解決することはできない。なぜなら異なった正反対の主張をするのは「自由」であり「可能」だからだ。
 理性自身が解決できないアンチノミーは結局のところ暴力で解決するしかなくなる。無数の宗教やイデオロギーが任意に作られては、互いに暴力でその覇権を得ようと内ゲバから内戦に至り、果ては世界大戦を生み出しかねないものへと巨大化してゆく。サルトルが美化した言葉で「愛の闘争」と呼んだものの正体はまさにこれだ。
 理性の王国とは、結局理性が「自由」である限り、終わることない軍事独裁体制へと行き着くことになる。カントの言った「理性の王国」は文字通り独裁者が「王」として君臨する王国であって、共和国ではない。
 もし我々が「どこの陣営に着くか」ではなく、こうした対立状態を越えて本当の平和を見出そうとするなら、こうした理性のどうしようもないバグを素直に認めて、理性に頼らない「心の共和国」を作らなくてはならない。
 相異なる思想信条をすべて対化し、理性ではなく心で理解し合い、肉体的多様性ではなく文化の多様性を尊重し、異なる主張の者同士が自然と棲み分け、平和共存できる世界を目指さなくてはならない。
 心の共和国はたくさんある。それこそ無数にある。人の数だけある。それでも同じ人間だという所で心情的に理解し合わなくてはならない。信条的ではなく心情的に。
 カント的な理性の王国が永久平和に至るには、世界が一つの理論によって統一される必要があるが、それまでいったいどれほどの血が流れなくてはならないのだろうか。ただ「可能」というだけで永遠にその日を待つわけにはいかない。その前に人類は絶滅する。
 永久平和の道があるとするなら、それは一人一人がまず自分自身の中に心の共和国を持ち、無数の心の共和国が互いに棲み分け、平和共存する世界を作らなくてはならない。

 さて、実践理性の起源だが、基本的にはそれは人類の共感能力の飛躍的発達にあった。
 共感能力は完全に相手の心が手に取るようにわかることを言うのではない。そんなテレパシーのような者は存在しない。すべては自分を基にした推測に依存している。ただ、生得的に共通の基盤を持つ相手であれば、自分を基にした推測はある程度の精度でもって、相手の状態を推測することができる。それ以上でも以下でもない。共感は絶対的なものではなく、基本的には誤解に富んだもので、誤解しつつ、相手の反応を見ては修正を繰り返して、経験的に精度を高める程度のものでしかない。
 この共感能力の発達は、進化の過程である臨界に達した時、個々の力による順位制が無力化される。
 人間以外の動物の社会の多くは、個としての力の強いものが優先されるという単純な原理で成り立っている。ただ、順位制社会でも、偶発的に一人の強い個体に他の者のヘイトが集中した時に、弱い者が集団で強い者を倒すということが起こる。チンパンジーの社会ではこれがわりと頻繁に起こる。
 人間の場合はこれがさらに一歩進み、どんな強い者でも、弱い者が束になれば容易に倒せるということを学習することで、出る杭は打たれる状態に陥る。ここから腕力の強さは無意味になり、生存競争は弱肉強食ではなく、多数派工作の戦いになった。その多数派工作の最大の武器、それを人は「愛」と呼ぶ。儒教ではそれを「仁」と呼ぶ。「人間性」と言ってもいい。それは「心」でもある。
 よく言われるように、愛の反対は憎しみ(ヘイト)ではない。むしろ強い者に対して大勢のヘイトを集中させることで愛が生まれる。愛はヘイトの結果でありヘイトとは対立しない。愛は力のある者に対する防衛であり、同時に嫉妬でもある。
 長く平和が続いた社会では愛や人情が廃れるというのも、共通の敵なしに強力な愛が生まれないというだけのことにすぎない。
 愛の基本は「出る杭」に対する弱者の結束であり、それはヘイトでもあり嫉妬でもある。この力は、基本的に平等主義へと向かう。

 愛も憎しみも嫉妬も人類の長年の友であり、その中で人間は共同体を作り、仲間には優しく、敵には残虐に、良いにつけ悪いにつけ人間的な、人間臭い社会を延々と維持してきた。それは本来理性とは縁遠いものだった。
 愛は矛盾に満ちたもので、それは基本的に個々の生存戦略と集団の生存戦略との妥協(生存の取引)の繰り返しであり、

 蝶を噛んで子猫を舐る心哉 其角

のような両面性を持つものだった。この矛盾は自然なものであり、そのバランスは自然選択によって調整されてきた。
 あまりお人好しでも生きられないし、かといって攻撃的過ぎるとヘイトが集中して潰される。ほどほどの所でバランスを取るように人間は進化してきた。その進化は今も途上にあり、今日もどこかでお人好しが隅に追いやられ、今日もどこかで自己中な奴が叩かれまくっている。
 実践理性はこの自然のバランスを破壊する。今まさに「人権派」にヘイトが集中しているのは、自然のバランスを勝手なり理屈でゆがめているからにほかならない。

2025年3月10日月曜日

 また少しお休みしてしまったが、そろそろ何か書かないと。
 今日は根府川のおかめ桜を見に行った。
 この頃は近くのいろんなところに花を見に行っている。「花を友」の生活だ。あの湯河原の句はUsizaru_LABOさんの「花纏う独歩」の影響が出過ぎてしまった。
 6日は南足柄の洞川の河津桜と
小田原フラワーガーデンの梅を見て、7日には大井町のおおいゆめの里の河津桜を見に行った。今年は河津桜が咲くのが遅かったが、ようやく満開になった。
 8日は大井町のおおいゆめの里俳句大会に行った。前日の河津桜の所のすぐそばだが、この日はみぞれ交じりの雪が降っていて寒かった。
 句の方は前日投句が、

 朧夜は空に魚が泳いでそう
 朧夜や灯りの消えた街の黙
 如意すみれ小さな魔法使いかな
 つぼ菫願う平和のちりほこり

 当日の句が、

 花の下小さき命の目を明くか
 降り積むは何色河津桜には

 9日は地元秦野の戸川公園の河津桜を見た。梅もまだまだ見頃だった。途中水無川のおかめ桜の方へも行ってみたが、まだ咲き初めだった。根府川のおかめ桜は2日の湯河原句会の帰りに駅から咲いているのが見えていて、6日に見に行こうとしたが、根府川の方で事故があって通行止めになったせいで、車が渋滞していて断念した。
 AIで絵を描くようになって、X上でAIの作曲やアニメのことも知って、あらためて今のAIの凄さを感じる。
 アニメの方では、今期は「BanG Dream! Ave Mujica」かな。前作の「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」も見た。
 ラノベの方は、最近はカクヨムで読む方が多くなったかな。
 まあ、こういうものはとにかく勉強になる。不易流行の精神で、古典の不易だけでなく、流行からも風流の道を学んでいきたい。
 

2025年3月2日日曜日

 今日は湯河原の「湯河原春のたより俳句大会」へ行った。
 湯河原の街を散歩した。

 人声の霞は遠く海朝日
 人声の怖くはないと花を友

 そのあとHUMANS BEERでビールを飲んだ。

 湯河原やクラフトビアの桃の酒

2025年2月28日金曜日

  今日は句会があった。

 凧天に武者も役者も中間も
 薄ら氷のかけらの如し全世代
 むしられることが前提草萌ゆる

 「句兄弟」の方、岩波文庫の『毛吹草』が届いたので、この前の七番の「禅寺のはなにこころやうき蔵主」の作者名がわかった。

 禅寺の花に心や浮坊主   弘永

とあった。堺市中央図書館/堺史のHPに、

 「夕陽菴弘永
 夕陽菴弘永其姓氏は明かでない。【堺の俳人】堺の人で、後天王寺村に卜居し導と改めた。【松江重賴の門人】俳諧を松江重賴に學び、晚年師風を變じて異體の句を吟じた。或は弘永は重賴の門葉でなく、其知友だともいはれてゐる。【家集】家集に獨吟集がある。歿年世壽は詳でない。案ずるに寬文の末頃の人であらう。(誹家大系圖)」

とある。

2025年2月27日木曜日

 今日は小田原の辻村植物公園の梅を見に行った。行く時には小田原フラワーガーデンの前を通り、そのあと小田原城にも寄った。

 それでは「句兄弟」の続き。

「九番
  兄
達磨忌やあさ日に僧のかげ法師   岩翁
  弟
達磨忌や自剃にさぐる水かがみ

 論俳句如禅日の影と水影差別なし。空房獨了の以て似ぬ影二句一物なし。」(句兄弟)

 岩翁は息子の亀翁ともども其角の門人。『雑談集』の大山詣や、この『句兄弟』所収の元禄七年の大阪行きの「隨縁記行」にも同行している。
 達磨忌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「達磨忌」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 禅宗で、始祖達磨大師の忌日に行なう法会。毎年一〇月五日。少林忌。初祖忌。《 季語・冬 》
  [初出の実例]「二祖と云は、達磨忌と百丈忌とぞ」(出典:百丈清規抄(1462)三)」

とある。今は月遅れで11月5日に行う所もある。禅宗だけに、儀式にそれほどの派手さはなく、禅僧が集まって、朝日にその影が出来て、これが本当の影法師ぐらいしか見どころがなかったのだろう。
 影法師というと、貞享五年の芭蕉の『笈の小文』の旅で、吉田宿から保美の杜国の所へ向かう時に、

 冬の日や馬上に氷る影法師   芭蕉

の句を詠んでいる。「法師」というのは影が黒いから黒い僧衣を着ているみたいだといういみだろうけど、この時の芭蕉も僧形だったと思われるし、達磨忌の影法師も皆僧形で、どっちが影だか、という所が一応の面白さというか、朝日や冬の低い日に、一方では長い影が出来て、一方では日を背にしたシルエットになった黒い実体があって、どっちが影やらという、そこが重要なのかもしれない。
 ところで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「影法師」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =かげえ(影絵)②③
  ② 光をさえぎったため、地上や障子、壁などにその人の形が黒く映ったもの。かげぼう。かげぼし。かげんぼし。
  [初出の実例]「影法師見苦しければ辻相撲月をうしろになしてねるかな」(出典:七十一番職人歌合(1500頃か)六三番)
  ③ 鏡や水などに映った像。
  [初出の実例]「水鏡を見てあれば、影法師が我があいてになって、いつもかわらずけらけら咲をして戯るるぞ」(出典:四河入海(17C前)二)
  ④ ( 影の人の意 ) 演劇や映画などで、ある人物の替え玉となる人。吹き替え。スタンドイン。
  [初出の実例]「ハテナ、わしゃ、かげぼうしかとおもった」(出典:咄本・出頬題(1773)芝居)
  ⑤ 想像によって目の前に描き出す、人物や物事。
  [初出の実例]「皆此方の影ぼうしを相手にして、けんくゎする様なものぢゃ」(出典:松翁道話(1814‐46)一)」

となっている。今はあまり使われないが③の意味が17世紀にはあったようだ。そこで、其角の句の「自剃にさぐる水かがみ」の水に映る自分の姿も「影法師」と呼ばれてたことがわかる。
 「論俳句如禅日の影と水影差別なし」というのが、どちらも当時は影法師と呼ばれていたという点では、確かに言葉の上では差別はない。「論俳句如禅」は当時は「俳句」という単語がなかったから、禅の如く俳の句を論ずということだろうか。その上で「日の影と水の影」は同じ影法師という言葉で言い表され、空房(他に誰もいない部屋)で獨了(一人悟る)なら、日の影と水の影は同じ物だ、と禅問答めいている。
 確かにどちらも虚像には違いない。ただ、よくよく悟るなら、目に映るものはすべてが虚。日の影も水の影も虚なら、そこにいる僧もまた虚。形あるものはすべてが影法師にすぎないということになる。
 禅においてもそうだし、俳諧でいう虚実論の「虚」もまた我々近代人が考えるような「虚構」のことではなく、神羅万象目に移り耳に聞こえるものみな「虚」に含まれる。そこから喚起される風雅の誠の情だけが「実」ということになる。

2025年2月26日水曜日

 今日は秦野の上大槻の菅原神社の梅を見に行った。
 気温もようやく昼くらいには上がって暖かくなり、もうすぐ河津桜の季節になる。それまではまだまだ梅見の季節が続く。

 それでは「句兄弟」の続き。

「八番
  兄
陰をしき師走の菊のよはひかな   露沾
  弟
秋にさへ師走の菊も麦ばたけ

 中七字珍重すべし、歳の昏の惜まるる詠より分て霜雪の凋むに後るる対をいはば僅かに萌いでし麦の秋後の菊をよそになしけん姿と句とただちに立り。愛菊の情かはらずして光陰を惜むと待とにわかれたる也。」(句兄弟)

 菊は重陽の頃を過ぎると霜に当って枯れるというのを本意とするので、そこで枯れずに残った師走の菊は長生きしたわけだが、それもおそらく年を越すことがなく、つまり露沾の句は新年を迎えて一つ年齢を重ねることもないという意味で言っているのだろう。
 長生きはしても死は免れないという、人の年齢にも重なる。
 其角はこの師走に残った菊と対句になるように、芽の出てきた麦を添える。こういう対句は漢詩的な発想だが、付け句の際の相対付けもこの発想になる。師走の菊というのが一つの趣向として面白いということで、その時芽生えた麦もやがて麦秋を迎える、という時間の半年異なるものを取り合わせるというのだが、かなり無理な感じの取り合わせだ。
 意味としては「師走に芽生えた麦もやがて夏に麦秋にさえなるものを、まして師走の菊はなお哀れなり」だが、それを五七五に収めるのはかなり苦しい。

2025年2月25日火曜日

  今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。梅も大分先揃ってきた。

 それでは「句兄弟」の続き。

「七番
  兄
禅寺のはなにこころやうき蔵主
  弟
客数寄やこころをはなに浮蔵主

 ざれ句にたてし詞ながら古来は下へしたしむ五字を今さら只ありにいひ流したれば、花見る庭の乱舞をよせたり。毛吹時代の老僧など当座取望むならば花やかに耳立たらん句よりは得興の専をとるべきや。」(句兄弟)

 兄句は正保元年(1645年)刊松江重頼編『毛吹草』所収の古い句。
 「浮蔵主(うきざうす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浮蔵主」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 ( 「蔵主」は禅寺の経蔵を管理する僧職 ) ひょうきんな僧侶。心のうわついた道楽坊主。
  [初出の実例]「禅門うき蔵主にてよき伽なり」(出典:咄本・醒睡笑(1628)一)」

とある。
 禅宗はあまり戒律とかに頓着しない傾向があり、座禅の瞑想による判断停止状態(エポケー)の状態で得られる、様々な先入観から解放された自由を尊ぶ所がある。一休禅師など、その典型とも言える。世間から見れば生臭坊主だとか浮蔵主とかいうことにもなる。
 兄句はそういうあたりで、禅寺の浮蔵主は花に浮かれていても、花の心は禅の心にも通じるということなのだろう。
 「花やかに耳立たらん句」の耳立はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「耳立つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 耳ざわりに聞こえる。角立って耳にさわる。
  [初出の実例]「ただならずみみたつことも、おのづから出でくるわざなれ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜上)
  ② 聞いて心にとまる。
  [初出の実例]「下のきざみといふきはになれば、ことにみみたたずかし」(出典:源氏物語(1001‐14頃)帚木)」

の意味があるが、この場合は花やかを受けて、「耳障りの良い、一般にわかりやすい」くらいのニュアンスか。面白いけど、面白さがわかりやすすぎてあざといとうことか。
 それに対し「得興の専」、興を得るを専らとする、というというのは、禅の心などと言う大仰なテーマを外すということだろう。単純に数寄者の客の求めに応じて逆らわずに心を花にできる、なかなか場を心得た浮坊主という人柄の良さの方に持っていく。