まただいぶご無沙汰した。
あれから3月13日に蓑毛の玉縄桜を見に行き、15日には江ノ島吟行会に行った。
言の葉も潮の花も今日の春
にび空や猫は石段龍は天
17日と21日は南足柄の春めき桜を見に行き、22日には戸川公園を散歩した。
23日の句会の句。
朝寝してふと思う今はいない人
雲白く流れて果ては夕霞み
嬌柳命のシャワー降りそそぐ
25日には蓑毛の奥のミツマタ群生地を見に行き、翌26日には石庄庵の春めき桜を見に行った。既に散り始めていた。
駆け足や春めき桜散るもまた
野仏やからす名義の豆の花
28日はまた句会で、
嘘つきなニュースを余所に朝寝かな
旅疲れ車窓は富士の夕霞み
野ムスカリ田園の憂いもあるや
そして今日は雨で一休み。
今日は実践理性のバグの問題を考えてみようと思う。
実践理性の起源を考える前に、まず理論理性の起源を考える必要があるが、理論理性は基本的には道具性・有用性の観点からある行為をすればならずある結果が得られる云う因果律が根底にある。
ああすればああなる。こうすればこうなる。それが積み重なれば原因結果が一つの直線状に並ぶことになる。ここに過去から未来への時間軸が形成される。この時間軸は時間そのものではなく、時間の空間家であり直線化される。この一次元の時間軸は本来の宇宙の何次元か今のところ不明な時空から直線の時間だけを切り取ったもので、この直線時間軸に対して残ったものは三次元空間として表示される。
三次元空間は自分の位置を中心とした一つの座標で、上下・左右・前後を基本とし、自らの行動をシミュレートする。これは宇宙の時空そのものではなく、行動する際に便宜的に切り取られた空間にすぎない。
時間もまたこうした三次元空間に対して、まだないもの・もうないものを付け加えることで「変化」という直線を描き出し、そこに「どうすればどうなるか」という因果率を付け加えることで、行動をシミュレーションする。これが物理的時間ではない人間的時間を作り出す。人間的時間とは言え、それが進化の産物である限り、動物も基本的に同じ三次元空間+時間という世界表象をしていると推定できる。
この時間空間認識は進化によって獲得された生得的なもので、実際の複雑な時空を簡略化することで、天文学的距離や量子レベルの認識を必要としない限りにおいて、生きる上で支障をきたすことはない。
そのため長いことこの生得的な時間空間の概念は不動のものとされ、特に西洋においては神の理性と同一視されてきた。それが揺らいだのは、天文学的レベルでの物体の位置を測定する際に微妙な誤差が生じることが次第に明らかになり、その誤差を最終的に説明する理論として相対性理論が作られるのを待たなくてはならなかった。
同時に量子レベルの科学の発達によって、従来の生得的空概念では説明できないばかりか、因果律を混乱させるような事象が観測されるようになり、量子力学が誕生した。
相対性理論や量子力学はあくまで生得的な時空概念の補足にすぎないため、どちらも基本的には便宜的な仮説のレベルにとどまる。そのため相対性理論と量子力学の統一は未だに困難を極めている。未だに宇宙の時空そのものは解明されていない。それに対する便宜的な道具としてこの2つの理論、さらには熱力学理論という独立した三つの理論が併存している。
理性は神ではなく、あくまで生得的な時間空間認識を基礎としている生物学的な事象にすぎない。つまり理性もまた肉体である。肉体を超越した理性などというものは存在しない。それは理論理性においても実践理性においても同じで、理性は神ではなく、あくまで進化の産物にすぎない。
カントが明らかにしたのは、理性が神であることは証明できないが、実践の立場から要請することの出来る、それもあくまで可能性にすぎないということだった。この「汝為し得る」がハイデッガーによって「可能性の静かな力」と言い換えられたにせよ、ただ信仰に支えられた危ういものにすぎなかった。
信仰は基本的には独断であり、信仰を目標とすることは独裁政治を意味する。それはイスラム原理主義であろうがキリスト教原理主義であろうが、あるいはオウム真理教のような仏教原理主義であろうが、危険なものに違いはない。共産主義やいわゆる「人権派」の思想にしても、基本的には同様の独断論であり、必ず民主主義を否定して独裁体制を作ろうとする。これはプラトン以来繰り返されていることだ。
ナチズムやスターリズムの失敗で懲りることもなく、西洋理性は同じ過ちを繰り返し続けるし、イスラム原理主義もある意味で本来のイスラム社会から発生したというよりは、共産主義化したイスラム教といった方がいい。理性への信仰が根底にある。
信仰の危険は基本的にはその任意性にある。別の言葉で言えばそれは「自由」ということだが、自由(free)には「空っぽ」という意味もある。根拠のない空っぽなものである限り、どうとでも作れるもので、それこそ無数に対立する信仰を生み出すことが可能であるとともに、その対立を理性自身が解決することはできない。なぜなら異なった正反対の主張をするのは「自由」であり「可能」だからだ。
理性自身が解決できないアンチノミーは結局のところ暴力で解決するしかなくなる。無数の宗教やイデオロギーが任意に作られては、互いに暴力でその覇権を得ようと内ゲバから内戦に至り、果ては世界大戦を生み出しかねないものへと巨大化してゆく。サルトルが美化した言葉で「愛の闘争」と呼んだものの正体はまさにこれだ。
理性の王国とは、結局理性が「自由」である限り、終わることない軍事独裁体制へと行き着くことになる。カントの言った「理性の王国」は文字通り独裁者が「王」として君臨する王国であって、共和国ではない。
もし我々が「どこの陣営に着くか」ではなく、こうした対立状態を越えて本当の平和を見出そうとするなら、こうした理性のどうしようもないバグを素直に認めて、理性に頼らない「心の共和国」を作らなくてはならない。
相異なる思想信条をすべて対化し、理性ではなく心で理解し合い、肉体的多様性ではなく文化の多様性を尊重し、異なる主張の者同士が自然と棲み分け、平和共存できる世界を目指さなくてはならない。
心の共和国はたくさんある。それこそ無数にある。人の数だけある。それでも同じ人間だという所で心情的に理解し合わなくてはならない。信条的ではなく心情的に。
カント的な理性の王国が永久平和に至るには、世界が一つの理論によって統一される必要があるが、それまでいったいどれほどの血が流れなくてはならないのだろうか。ただ「可能」というだけで永遠にその日を待つわけにはいかない。その前に人類は絶滅する。
永久平和の道があるとするなら、それは一人一人がまず自分自身の中に心の共和国を持ち、無数の心の共和国が互いに棲み分け、平和共存する世界を作らなくてはならない。
さて、実践理性の起源だが、基本的にはそれは人類の共感能力の飛躍的発達にあった。
共感能力は完全に相手の心が手に取るようにわかることを言うのではない。そんなテレパシーのような者は存在しない。すべては自分を基にした推測に依存している。ただ、生得的に共通の基盤を持つ相手であれば、自分を基にした推測はある程度の精度でもって、相手の状態を推測することができる。それ以上でも以下でもない。共感は絶対的なものではなく、基本的には誤解に富んだもので、誤解しつつ、相手の反応を見ては修正を繰り返して、経験的に精度を高める程度のものでしかない。
この共感能力の発達は、進化の過程である臨界に達した時、個々の力による順位制が無力化される。
人間以外の動物の社会の多くは、個としての力の強いものが優先されるという単純な原理で成り立っている。ただ、順位制社会でも、偶発的に一人の強い個体に他の者のヘイトが集中した時に、弱い者が集団で強い者を倒すということが起こる。チンパンジーの社会ではこれがわりと頻繁に起こる。
人間の場合はこれがさらに一歩進み、どんな強い者でも、弱い者が束になれば容易に倒せるということを学習することで、出る杭は打たれる状態に陥る。ここから腕力の強さは無意味になり、生存競争は弱肉強食ではなく、多数派工作の戦いになった。その多数派工作の最大の武器、それを人は「愛」と呼ぶ。儒教ではそれを「仁」と呼ぶ。「人間性」と言ってもいい。それは「心」でもある。
よく言われるように、愛の反対は憎しみ(ヘイト)ではない。むしろ強い者に対して大勢のヘイトを集中させることで愛が生まれる。愛はヘイトの結果でありヘイトとは対立しない。愛は力のある者に対する防衛であり、同時に嫉妬でもある。
長く平和が続いた社会では愛や人情が廃れるというのも、共通の敵なしに強力な愛が生まれないというだけのことにすぎない。
愛の基本は「出る杭」に対する弱者の結束であり、それはヘイトでもあり嫉妬でもある。この力は、基本的に平等主義へと向かう。
愛も憎しみも嫉妬も人類の長年の友であり、その中で人間は共同体を作り、仲間には優しく、敵には残虐に、良いにつけ悪いにつけ人間的な、人間臭い社会を延々と維持してきた。それは本来理性とは縁遠いものだった。
愛は矛盾に満ちたもので、それは基本的に個々の生存戦略と集団の生存戦略との妥協(生存の取引)の繰り返しであり、
蝶を噛んで子猫を舐る心哉 其角
のような両面性を持つものだった。この矛盾は自然なものであり、そのバランスは自然選択によって調整されてきた。
あまりお人好しでも生きられないし、かといって攻撃的過ぎるとヘイトが集中して潰される。ほどほどの所でバランスを取るように人間は進化してきた。その進化は今も途上にあり、今日もどこかでお人好しが隅に追いやられ、今日もどこかで自己中な奴が叩かれまくっている。
実践理性はこの自然のバランスを破壊する。今まさに「人権派」にヘイトが集中しているのは、自然のバランスを勝手なり理屈でゆがめているからにほかならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿