2025年3月31日月曜日

 
 今日は蓑毛の淡墨桜を見に行った。

 それでは前回の風流ならざる話の続きを。

 実践理性の起源が出る杭は打たれる式の平等を一つの方向性として持っているため、基本的には平等社会の実現とそれに伴う抑制が基礎となる。
抑制には人より多く欲望を満たしてはいけないという禁欲、能力を誇示してはいけないという謙遜、能力を自分の為に用いず必ず集団の為に用いるという献身、これらに反する行為に対する羞恥などがある。
 禁欲はほぼありとあらゆる宗教や思想において共通して求められるが、これは単に平等を実現するためだけではなく、現実的に常に人類の歴史において慢性的な食糧不足が生じてたことも要因になっていた。
 食欲は無制限な大食によって食料を欠乏させ、あるいは美食、特に肉食は穀物を直接食べずに家畜のえさにすることで、効率を悪くする。性欲はパートナーを廻る争いを生むだけでなく、人口の増加が食料の欠乏をよりひどいものとする。睡眠欲はそれに比べると実害は少ない。
 禁欲は一方では出る杭は打たれる式の相互抑制でありながら、一方では有限な大地に無限の生命は存在できないという単純な人口論的な問題との両面を持っている。
 いわば、大地は定員が限られている。これは今まで繰り返し言ってきたことだ。有限な生産に対し、誰かがより多くとれば、その分誰かが少なくなる。出る杭は打たれる式の平等主義はその争いの解決になるため、いわゆる冷たい社会では頑なに維持されてきた。
 ただ平等ではあっても絶対的な食糧不足を解消することはできない。ゆえに冷たい社会は完全な平等主義を実現しながらも、常に飢餓すれすれの最低限な生産力から脱却することができなかった。
 熱い社会は生産性を高める手段をもたらすものに対して不平等を容認することで、社会全体の定員を底上げした。この底上げで一番重要なのは、飢餓で死ぬ子供の数を減らせることで、これは人情にかなってるし、より多くの子孫を残すという遺伝子の要求にも適っている。
しかし、それによってもたらされるのは、結局生産性の向上分が瞬く間に人口増加で食いつぶされてしまうということだ。
 生産性の向上は一方では不平等をもたらすが、一方ではその向上分農業以外の生産活動のための人員を養えるようになるため、増加した人口はそこに吸収され都市を形成し、文明を生み出し、それが生産性のさらなる向上への好循環を生み出す。
 そして、ひとたびこの方向に歩み出すと、逆戻りはできない。古い生産性の低いやり方に逆戻りすれば、増加した人口の分が飢えることになる。社会主義が失敗する原因はそこにある。自然に帰れというのは一見牧歌的でノスタルジックだが、それまでの生産性の向上によって増えた人口元に戻さなくてはならなくなる。飢餓と粛清がその答えだ。
 生産性の向上のために不平等を容認することをひとたび選択すると、元の狩猟採集民の完全平等社会に戻すことはできない。戻そうとすれば、飢餓と粛清、採取的には虐殺ということになる。
 近代的な農法で今の80億の世界の人口を養うことはできない。たとえ10億人程度にま減らそうという場合でも、70億人をどうするかが問題になる。オウム真理教の見い出したハルマゲドンいうのは、その意味では合理的だ。日本のトップクラスの頭脳を持つ人達を魅了するだけの理由はある。
 こうした帰結は憎しみによるものではなく、合理的な理由によって導かれる。それは実践理性のバグに他ならない。
 平等性の観念は二重の意味でバグる。
 一つはそれが理念である限り、無制限に拡張されれば恐ろしい結果を生む。
たとえば生きていること自体が死んだ者に対して平等ではない。真の平等とはすべてが死に絶えることに他ならない。
 生まれてすぐ死ぬ人がいるのに、のうのうと生きているのは平等ではない。これだとまだ荒唐無稽かもしれないが、命を捨てて国を守った人がいるのに、戦争が終わってのうのうと生きながらえているのは申し訳ない、という感情は戦争が終わった時多くの人に会ったと思う。生きていること自体が既に平等でないなら、究極の平等はみんな死ぬことでしかない。
 また、生きている限りそこには生存競争があり、それに勝つためには人を傷つけなくてはならない。誰も傷つかないような社会を作るというのであれば、それは誰も生きようとしてはいけない社会ということになる。
 そして一方で現実的に考えた場合、平等性は先も言ったように既に不平等の容認によって生産性が高められ、かつてない多くの人口を養えるようになった世界を、低い生産性で養える程度の人口に減らす必要が出て来る。その論理的帰結はハルマゲドンだ。
 社会主義と虐殺は切っても切れない関係にある。誰を殺すかは明白だ。それは革命に従わぬ者だ。

 実際の所、こうした理性のバグに対抗するには理性に対して理性に対抗しようとしても無力だ。なぜなら自分の主張を一歩も譲らなければ最終的にアンチノミーということで引き分けに持ち込むことができるからだ。
 社会主義者や人権派はこのことをよくわかっている。議論は形だけでいい。平行線なら論戦は引き分け、あとは権力を持ってる方が勝つ。別の言い方をすれば合法的に暴力をふるえる方が勝つ。その合法性は誰が決めるのか、それは権力だ。
 彼らに唯一の弱点があるとすれば、それは感情的な爆発だ。つまりヘイトだ。ヘイトは理性も何もなしに有無を言わせず力をふるうことができる。議論で引き分けに持ち込んでも、ヘイトは卓袱台返しができる。
 これは社会主義者や人権派も常套としている手段だ。彼らは隙あらば暴力をふるう。ただそれを理論で合理化し、その理論の正しさは証明できなくても、論敵に対してはアンチノミーを主張し、その暴力を政府やマスコミや司法を動かして合法化できれば彼らの勝ちとなる。
 彼らがなぜヘイトという言葉を多用して論敵を牽制するか、理由は簡単だ。それが唯一の弱点だからだ。
 一つの喩えとして、溺れている子のどちらを優先して助けるかを考えてみればいい。
 自分の子と見ず知らずの外国人の子供が溺れている。どっちを先に助けるべきか。
 正常な感情の持ち主なら自分の子を助けるに決まっている。でも第三者が言う。外国人の子を後回しにするのは差別でありヘイトではないか、と。どちらもかけがえのない命であり、生きる権利は平等にある。外国人だから後回しにするのか、と。
 こういう意見に対して、ブチ切れることができる人だけが自分の子供を守ることができる。それが愛というものだ。

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