2025年2月13日木曜日

 一週間ぶりの更新になったが、この間いろいろはまた花を見に行った。
 2月9日は小田原の句会で小田原城の桜を見た。

 紅白に残る蝋梅黄を主張
 ちらちらと短冊回る城や梅
 Xの字になり眺む揚げ雲雀

 10日は熱海桜を見に行って、そのあと前日に山焼きをやった大室山を見た。

 山焼きや焦げた思いの風世界

 写真はその大室山
 12日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。

 それでは今度は其角編の『句兄弟』を読んでいこうと思う。

「一番
  兄
これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
  弟
これはこれはとばかりちるも櫻哉 晋子

 花満山の景を上五字に云とりて芳野山と決定したる處、作者の自然ノ地を得たるに、対句してちるもさくらといへる和句也。是は是はとばかりの云下しを反転せしもの也。」(句兄弟)

 貞室の句はかつては知らない人のいないくらい有名な句だったのだろう。「句兄弟」の冒頭はこの句から始まる。
 花満山は特に固有名詞というわけではなく、山一面に花の咲いたという意味で、

  寄孫山人    儲光羲
 新林二月孤舟還 水滿淸江花滿山
 借問故園隱君子 時時來往住人間

の詩を出典とする。「これはこれは」は遥か遠くから訪ねてきたような趣があり、この詩の趣向にも適っている。そして何が「これはこれは」なのかと思わせておいて「花の吉野山」と結ぶこの構成もまた見事だ。
 芭蕉七部集の一つ、元禄二年刊荷兮編『阿羅野』の冒頭を飾る一句でもあり、『去来抄』でも不易の句の例として挙げられていて、貞門時代の句ながらも蕉門でも高く評価された一句だった。
 これを冒頭に持って来ておいて、晋子こと其角は弟句を付ける。
 「これはこれは」と咲くのも桜だが、「これはこれは」と散るのもまた桜だと、兄句に逆らわずに、同意するかのように散る時もまたと付け加える。いわゆる「和句」和する句、同意する句ということになる。
 発句に対して発句で返すというのは、ある種対抗するという意識が強いことが多く、和する時には脇で返すのが通例になっている。
 たとえば、

 草の戸に我は蓼食う蛍哉    其角

の句に対して、

 朝顔に我は飯食う男哉     芭蕉

と返す場合には、酒の肴である苦みの強い蓼酢を好んで食って、夜は遊郭の蛍になるという其角の挨拶に対して、俺は普通に朝起きて飯を食うだけの普通の男だと芭蕉は返す。これは和するというよりは、「いや、俺は違う」という対抗心を込めた句づくりで、発句に発句で返す場合はこういうパターンが多い。
 もっともこの場合、句合せの勝負を挑んだのではなく、私は草の戸で蓼を食って夜の街で輝いてるようなそんな凄い人ではなく、世間並みのごく普通の人ですという謙虚に答なわけだが。

「難云:吉野山一句の本体として上五字七字までは只ありの詞なるべし。ちると桜のうへにうつしたる本意逃句なるべし。
 答云:句は其興を聞得べきや。景情のはなるるといふ事「雑談集」に論ぜる如く也。
 近くいはば「明星やさくら定めぬ山かづら」といひし句当座にはさのみ興感せざりしを、芭蕉翁吉野山にあそべる時、山中の美景にけをされ古き歌どもの信を感ぜし叙(ツイデ)、明星の山かづらに明残るけしき此句のうらやましく覚えたるよし文通に申されける。
 是をみづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含はたしか也。
 尤、花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず。沈佺期が句を盗む癖とは等類をのがるる違有。」(句兄弟)

 この「難云(なんじていう)」も実際に誰かが言ったということではなく、あくまで想定問答であろう。
 上五字七字の「これはこれはとばかり」までは日常用いるような通常の言葉で、特に何の捻りもなく、「花の吉野山」と結んで一句になるのに対し、そのこれはこれはとばかり」を散る花に取り成しただけの逃げ句ではないか、という批判は当然あることだろう、というわけだ。つまり、無理に趣向を変えて別な句に作った、ということか。
 『雑談集』の「景情のはなるるといふ事」というのは、

 「此比の当座に、

 小男鹿やほそき聲より此流れ

と申しける折ふし百里が旅より帰りしに、木曽路の秋を語りけるにも畳のうへにては面白からぬけしきを云ひ出てけり。梯の水音今も耳に残りて覚えぬるといはれて、世につながるる事を歎きぬ。すべて景に合せては情をこらして扨景を尋ぬるが此道の手なるべし。富士を見ては発句ちひさくなりぬるは心の及ばざるゆゑ也。」(雑談集)

のことだろうか。
 句というのは作者の体験と読者の体験が共有された時、その景は豊かな情を持つ。鹿の声に流れの音は、それだけでは何が面白いのか分かりにくいが、これが木曽路の秋で名所でもある桟(かけはし)をいつ落ちるかわからない橋の恐怖に心細くなっている時に、鹿の声が聞こえてきて、下からは流れの音が聞こえてくる、その想像が及んだ時、この句は意味を持ってくる。
 名所の句の場合特に、景色を描写するだけでなく、その情が伝わるような表現をしなくてはならない。景色に情を込めて、もう一度出来た句を突き放して眺めてみて、ちゃんと情がにじみ出ているかどうかを確認しないとつまらない句になる。
 「これはこれはとばかり」というのを「只ありの詞」というとしたら、それは吉野の花の景を心に描けないからで、「花の吉野山」と結ぶことで、その何でもない言葉が吉野の想像上の景色と一体となって、深い感情を呼び起こす。
 同じように「ちるも櫻哉」とその結びの言葉を変えることで、散る桜を心に描いて全く別の情を呼び起こす。これは単なる逃げ句の取り成しではなく、上句に新たな情を吹き込んでいるので、独立した一つの発句たり得る、というわけだ。

 明星やさくら定めぬ山かづら  其角

の句は貞享五年一月二十五日付けの芭蕉宛其角書簡に記されたもので、

 「明星やさくら定めぬ山かづら
如何可レ有二御ざ一哉。
 瓢覃(箪)坊に出る雨の日
 朝ごとのうずらの水をくみかへて
 人得て秋の炭がまを掘ル
 鱅鳴貴舩の鈴のころころと
どうやら五句付に成候て本心にそみ不申候へ共、是は病にてシカジカ無御ざ候て、心気恬憺ならぬように覚申候ゆへかと被存候。御句どもにて本心を洗可申候。猶重而委可申上候。以上
   正月廿五日        キ角
はせを様」

と、五句まで付けて点を乞うている。
 この年其角は秋の終わりから冬にかけて上方方面を旅しているから、その時に吉野へも寄ったのであろう。季節外れではあるが、蔦の紅葉を見て春の桜の頃を想像した句で、かづら、瓢箪、うずら、秋の炭がま、までは秋の句だが、その次の鱅鳴は何と読むのか。貴船の清流で鳴くなら河鹿かとおもわれる。夏への季移りになる。
 グーグルを見ると「鱅」はコノシロともダボハゼとも読むようだが、いずれも海の魚で鳴かないから河鹿ではないかと思う。魚のカジカは鳴かないが、かつてはカジカガエルの声が河鹿の声と混同されていた。
 井手の山吹の蛙が美しい声で鳴くカジカガエルなので、わかる人にはきちんと区別されていたのだろうけど、みんながみんな本草学者じゃないように、一般的には区別は曖昧だったのだろう。ツルとコウノトリやウグイスとメジロがしばしば混同されるのと一緒だ。現代だってみんなが生物学者なわけではない。
 話はそれたが、元に戻そう。其角の句は金星の綺麗な明け方の空にようやく見えてきた蔦カズラの紅葉を見ながら、これが桜だったらなとおもいつつ、夜が明けると今は秋だという現実に引き戻される。真っ暗の内は見えない闇に桜を思い、夜が明ければ桜ではなく蔦カズラ、そういう句だ。シュレーディンガーの猫みたいなものだ。
 沈佺期はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沈佺期」の意味・わかりやすい解説」に、

 「[生]永徽1 (650)?
  [没]開元1 (713)?
  中国,初唐の詩人。相州内黄(河南省)の人。字は雲卿。上元2(675)年進士に及第,協律郎,給事中などを歴任したが,張易之に取り入ったため,則天武后の政権が倒れると収賄罪に問われて驩州(北ベトナム)に流された。のち神竜年間,中央に呼び戻され修文館直学士から中書舎人,太子少詹事(せんじ)となって終わった。六朝詩の影響を受けつつも清新な詩風で宋之問,杜審言らと宮廷詩人として活躍し,また宋之問とともに七言律詩(→律詩)の形式の完成に力があり,「沈宋」と並称される。」

とある。
 「沈佺期が句を盗む癖」はよくわからない。
 「花の前後といふ時は聊も句心あやまるべからず」というのは、一巻の花の定座の前後の句は確かに花の句が付くことによって、別な意味を持ってた句が花の心になる。花の句が付いて花の心となるが、その次の句は前句の花の句に付いた時でも花の別の意味にならなくてはならない。そういう場合は確かに咲く花の美しさから散る花の悲しさへ取り成すということはある。
 ただ、「これはこれはとばかり」を咲く花から散る花に転じるのは、これと同じではない。花の吉野山の句に「散る」と付けて散る花に転じるのは逃げ句かもしれないが。

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