2025年2月19日水曜日

  また少し間が開いてしまったが、「句兄弟」の続き。

「四番
  兄
祐成か袖ひきのばせむら千鳥  粛山
  弟
むらちどり其夜は寒し虎かもと

 袖引のばせとは一衣洗濯の時なるべし。さすがに高名の士なりければ、破褞袍を着て狐貉に恥じざる勇を思ひ合たるにや。村千鳥その友としてかの志をしのばれし一句に感懈あり。
 よりて其夜は虎かもとにしほたれし袖を引のばしつらんとおもひよりて、冬の夜の川風寒みのうたにみて追反せし也。是は各句合意の体也。
 兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍ればこなたの句弟なるべし。」(句兄弟)

 粛山は久松粛山で、「愛媛県生涯学習センター」のデータベース『えひめの記憶』に、

 「久松粛山(1652~1706)
 俳人。松山藩家老。松山城下(現、松山市)出身。松山藩第4代藩主・松平定直に仕えて重責を果たす一方、俳諧を好み、その才能を発揮した。31歳のとき、松山に来ていた因幡国鳥取の岡西惟仲(おかにしいちゅう)の門に入り、その後、江戸在勤中に松尾芭蕉・榎本其角(えのもときかく)に俳諧を学んだ。句は其角の句集にも載せられ、定直の俳友として蕉風俳諧を松山に広めた。後に、子規から伊予未曾有の俳人と評される。また、狩野探雪の画に、芭蕉・其角・山口素堂(やまぐちそどう)の発句の賛(添え書き)を求め、松山に持ち帰った「俳諧三尊画賛」の三幅対は逸品とされ、来遊した小林一茶も感激の句をしたためている。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)」

とある。
 句の方の初句の祐成は曽我兄弟の兄十郎のことで、大磯の虎御前という遊女との関係はかつては誰もが知る有名な話だった。
 仇討を果たしそのあとすぐに斬られた祐成の遺品の袖を汐で洗ってくれ、大磯の浜に群ら立つ千鳥たちよという意味であろう。袖の汐は言うまでもなく涙と掛けて用いられている。
 祐成の命日の五月二十八日に降る雨は虎の涙の雨ということで、「虎が雨」と言われているが、この句は千鳥で冬の海の句だ。冬に大磯を訪れた時の句だろうか。かつての祐成を失った虎御前の涙を思い、今は冬だが、千鳥よ祐成の遺品の衣を汐で洗ってやってくれ、祐成か袖を引き延ばしてやってくれ群千鳥よ、となる。
 破褞袍(やれうんぽう)の褞袍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「褞袍」の意味・読み・例文・類語」に、

 「うん‐ぽう‥パウ【褞袍・縕袍】
  〘 名詞 〙 綿を入れた着物。どてら。おんぼう。
  [初出の実例]「金減す我世の外にうかれてや〈其角〉 縕袍(ウンホウ)さむく伯母夢にみゆ〈匂子〉」(出典:俳諧・虚栗(1683)上)」

とある。
 「狐貉」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「狐貉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「こ‐かく【狐貉】
  〘 名詞 〙 キツネとムジナ。また、その皮でつくった衣服。
  [初出の実例]「凡穿レ地得二死人一、不二更埋一、及於二塚墓一燻二狐狢一」(出典:律(718)賊盗)
  「Cocacuno(コカクノ) カワゴロモワ カルクシテ ハナハダ カンヲ フセグ」(出典:日葡辞書(1603‐04))
  [その他の文献]〔論語‐子罕〕」

とある。
 「破褞袍を着て狐貉に恥じざる」は『論語』の、

 「子曰く、敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は其れ由なるか。」

のことで、この場合の狐貉は立派な毛皮の衣ということで、いわばボロは着てても心は錦ということであろう。狐はもちろん今日でもフォックスファーと呼ばれ珍重されている。貉の方はロシアンラクーンやチャイニーズラクーンであろう。
 兄句として掲げられるくらいだから、この句も当時はかなりの評判になった句であろう。
 兄句にはただ曽我十郎祐成のたとえボロでも中華貴族の着る毛皮にも勝る遺品の衣を千鳥が波の汐で洗うという句だが、勿論そこには虎御前の涙が暗に含まれているものの、弟句ではその虎の名前を表に出す。

 むらちどり其夜は寒し虎かもと  其角

 虎が元にいた群千鳥もその夜は寒い。群千鳥は虎と共に悲しみ、冬を迎えたのだろうか。

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