ようやく暖かくなり、梅の開花も例年より遅れているとはいえ、昭和の頃にはこれが普通だったと思うと、ここ最近が早すぎたのだろう。
アメリカではいろいろ大きな動きが出てきている。USAIDの解体、DOGEの活動(DOGEは日本語だとイッヌになるのか?)。
思うに左翼は最近では三度の大きな試練があった。
一度目は日本や欧米が高度成長を遂げた60年代の後半、日本では70年安保の頃、戦後の修正資本主義で豊かになり中流化した労働者は、もはや革命の主体にはなりえなくなった。そこで社会主義運動は大きな方向転換を余儀なくされた。
かれらは革命の主体を総中流化する中で取り残されたマイノリティ、少数民族、被差別民、障害者、性的少数者(まだLGBTという言葉はなかった)と第三世界の貧しい人達に切り替えることで乗り切ろうとした。
左翼とパレスチナとの結びつきは、テルアビブ乱射事件などによって、新たな自爆テロというスタイルを得、最初は中東の共産勢力だったが、やがて彼らはイスラム原理主義者となっていった。
太田龍の1972年の『辺境最深部に向って退却せよ!』はそれを象徴する言葉となった。その頃から中流化した労働者は革命の敵だという考え方が広まっていった。同時に労働者の権利や待遇改善などに興味を失ってゆき、労働組合運動も政治的オルグの方が優先されるようになった。
二度目の試練は1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦崩壊によってもたらされた。
ここでもはや左翼の革命運動の敗北を認め、転向してった人も多かったことだろう。俺もその一人だし。
ただ、左翼に踏みとどまった人たちの多くは社会主義国家の終焉を認めたものの、国家でない社会主義にその活路を見い出そうとした。これによって社会主義は国際的な市民運動の性格を強め、官僚的な統一組織ではなく無数の市民団体の横のつながりを重視した、ジル=ドゥールーズの言うようなリゾームの形態をとるようになった。中心を持たない連合体として、世界中に同時多発的に活動を行うことで、政権を取る事よりも主にマイノリティを中心とした政策の実現に力を入れるようになった。
しかし、これは政治色が強すぎて、実際のマイノリティが強く支持しているわけではなく、むしろ迷惑とすら思う人も多かった。
この運動は表面的に革命を標榜せずに穏健な市民運動を装ってたため、じわじわと政治的中道勢力、マスコミ、官僚、法曹界を侵食し、いわゆる「無理ゲー状態」を作り出していった。彼らは法律の制定に大きな影響力を行使し、税金を湯水のように彼らの活動につぎ込ませることに成功した。
彼らは国家レベルではなく地球規模の富の再分配を実行すべく、第三世界の貧困層を大量に先進国に入国させ、先進国の富と税金で彼らを養うことを義務化しようとしてきた。
三度目の試練は今アメリカで起こっている。これがどのような結果をもたらすのか、まだわからない。
それでは「句兄弟」の続き。
「二番
兄
地主からは木の間の花の都かな 拾穂軒
弟
京中へ地主のさくらやとふ胡蝶
「老師名高き句也。反転して市中の蝶を清水の落花と見なしたる也。木の間と三字にたてふさがりて侍るを漸こてふに成て花の間を飛出たるやうに覚ゆ。先後の句立たしか也。
飛花の蝶に似たる。
峡蝶飛来過墻去 却疑春色在隣家
作例多く聞ゆれども予京の一字を心かけたれば尤難有まじ。」(句兄弟)
拾穂軒(しゅうすいけん)は季吟のこと。
「地主のさくら」は京都の地主(じしゅ)神社の桜のことで、ウィキペディアには、
「境内は「地主桜」と呼ばれる桜の名所で、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇が行幸した際、一重と八重が同じ枝に咲いていた地主神社の桜の美しさに3度車を返したことから「御車返しの桜」とも呼ばれ、以後、嵯峨天皇は地主神社に桜を毎年献上させた。」
とある。地主神社は清水寺同様高台にあるので、ここから桜越しに見おろす京の町は、まさに花の都といったところだ。「老師名高き句」とあるように、かつては誰もが知る句だったのであろう。今もこの句の句碑があるという。
これに対して其角は「木の間」の木で見えづらい桜をやめて、高台のこの地主神社から散った花びらが胡蝶となって、京の都のあちこちに落ちてくるという趣向にする。
花びらを胡蝶に喩えることもさることながら、それが京の街中に降りそそぐとは、やや大げさに作った感じもしなくもないが、こうした華麗さもまた伊達を好む其角の持ち味なのだろう。句は「地主のさくらは京中へ訪う胡蝶(となる)や」の倒置。
花を蝶に喩える先例として掲げている詩句は、
雨晴 王駕
雨前初見花間蕊 雨後兼無葉裏花
峡蝶飛来過墻去 却疑春色在鄰家
で、王駕は百度百科に、
「王驾(851年-?),字大用,自号守素先生,河中(今山西永济)人,女诗人陈玉兰之夫,中国唐代诗人。
王驾早年居乡间,颇有诗名,为时人称誉。唐僖宗中和元年(881年)秋至中和三年(883年)春间,王驾入蜀赴进士试,落第不中。后于大顺元年(890年),及第,任校书郎,官至礼部员外郎。乾宁四年(897年),在任,后弃官隐居。」
とある。851年の生まれで字を大用といい、自ら守素先生と号す。河中(今の山西省永済)の人で、陳玉蘭の夫でもある中国唐代の詩人。
雨が降る前には花があったのに、雨のあとは葉っぱばかりでどこにも花がない。蝶が垣根を越えて行ってしまったのなら、春の景色は未だ隣の家にいるのかもしれない。確かにこの詩は花が蝶になって隣に行ってしまったという趣向なのだろう。
花を蝶に喩える例は、近代俳句でも、
草化して胡蝶となるか豆の花 子規
の句がある。それほど突飛な比喩でもない。
むしろありきたりかもしれないが、王駕の詩はただ隣に行ったのかというだけなのに対し、京の街に飛んで行くという所に手柄があるのでは、と其角は自讃する。
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