昔一頃ロックをやるものは生活をロックにしろと言ったものだが、俳句もまた生活を俳句にすることが大事だ。日々花を見て歩き、古典に親しみ、古典の血脈を引く非西洋芸術的なラノベ漫画アニメにも親しむ(最後は余計か?)、それが俳句の糧になる。
それでは「句兄弟」の続き。
「五番
兄
雨の日や門提て行くかきつばた 信徳
弟
簾まけ雨にさげくるかきつばた
杜若雨潤の一体時節のいさぎよく云立たれども、難じていはば雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル流俗の句中にはらまれて、一句の外に作うすし。されば、向上の句に於ては題と定めずして其こころ明らかなるたぐひ多かる中に、杜若景物の一品なれば異花よりも興を取ぬべくや。雨の杜若とおもひ寄たらんは句作のこなしにて手ぎは有べき所也。老功の作者を識りていふにはあらず。
門さげてゆくと見送りし花の我宿に入来る心に反工して、花の雫もそのままに色をも香そも厭ひけるさまを、すだれまけと下知したるなり。往と来との字二にして力をわかちたると判談せん人本意なかるべし。問答の句なるゆへつのりて枳棘の愚意を申侍る。」(句兄弟)
「門提て行く」の意味だが、評の所に「門さげてゆくと見送りし」ある所から、門を閉じて出て行くということか。
杜若雨潤というように、雨に濡れた杜若は特に美しいから、お寺のお坊さんも今日は一日休業とばかりに門を閉めて見に行くということなのだろう。
「雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル」とある雪中梅花は画題にもなっているが、「闇夜につつじを折ル」は正徹の歌に、
いそぐなよ手折るつつじの灯に
よるの山路はかへりいてなん
正徹
夜こえむ人のためにとくらぶ山
木の下つつし折りもつくさじ
正徹
とあることから、ツツジは闇夜でも明るいから灯火代わりに折って行くという趣向は定番化してたのかもしれない。
「流俗」は『拾遺和歌集』の、
「世の中にことなる事はあらずとも富はたしてむ命長くは
中将にはべりける時、右大弁源致方朝臣のもとへ
八重紅梅を折りて遣はすとて
流俗の色にはあらず梅花 右大将実資
珍重すべき物とこそ見れ 致方朝臣」
という短連歌にも用いられている。そんじょそこらのというような意味か。杜若雨潤の美しさも、ありきたりな趣向で、信徳の句に強いて難を言うなら、その趣向の凡庸さから逃れるものではない、ということなのだろう。
「向上の句」つまりそこからさらに一歩進んだ句にするには、杜若雨潤の心を直接言うありきたりさを避けて、あえて言外に隠ように作るのが常道で、杜若とあるだけで雨に潤う景は十分伝わるし、他の花にはない杜若ならではの趣向になる。老練な作者は大体そうする。
『去来抄』にも、
「 つたの葉─── 尾張の句
此このほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯迄まで裏吹ふきかへさるゝと云いふ句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂までいひつくす物にあらずト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)
とある。
蔦の葉は残らず風のそよぎ哉 荷兮
の句のことと思われるが、蔦というだけで既に風に吹かれる蔦の葉の景色が含まれてるため、あえて言う必要がない、ということだ。
ただ、これは通俗的に月並み化した趣向に対して言えることで、最近では夏井いつき病が凡庸な俳人の中に蔓延していて、何でもかんでもこの句のこの言葉は必要ない、無駄だなどと難じたりするが、長年俳句をやってる大ベテランなら想像のつくことでも一般の読者にはすぐには思いつかない場合も多い。読者に過大な想像力を期待するべきではないし、そういうベテラン向けの句は大体において一般人には珍紛漢紛なものだ。
さて、其角の弟句だが、信徳の門を下げて出て行くという趣向をひっくり返して、門を提げてやってきた客人を迎え入れて、ならば簾を上げて杜若をよく見ていってくれ、という句に作り変える。
「雨に」は杜若に掛かるのではなく客人に掛かるため、直接雨の杜若を表すのではなく、雨の杜若は間接的な想像に変わる。微妙な違いだけど、これが杜若雨潤の凡庸を回避する一つのテクニックだ。そして、門を提げてやって来た兄句に対する返答の句にもなっている。この技を今の俳人の誰が理解するだろうか。
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